第30話 金の瞳と覚悟
あの日から、また数日が過ぎた。
ヴァルスの店は相変わらず賑わっている。リラは毎朝カウンターを占領し、ブロガーは新しい道具を自慢し、セレナは「たまたま」スイートパンを買い、レンは黙って銀貨を置く。ガルドも週に二度は顔を出す。
日常。それが一番ありがたい。
「最近、あの金の目の男は来てないな」
リラがパンをかじりながら言う。
「ああ」
「何なんだろうな、あの人」
「わからない」
ヴァルスはオーブンに新しい生地を入れながら答える。確かに気になる。だが、彼が来ないなら、それでいい。
その日の夕方、店の客が少なくなった頃、扉が開いた。
金色の瞳。あの男だ。
「いらっしゃいませ」
ヴァルスはいつも通りに声をかける。男は無言でカウンターに座り、銀貨を置いた。
「いつもの」
「かしこまりました」
ヴァルスが焼き立てのパンを差し出す。男はそれを受け取り、しばらく黙って見つめていた。
「…今日は、少し話ができるか?」
ヴァルスはリラと目を合わせた。彼女は小さくうなずく。
「かまいません」
「ありがとう」
男はパンをかじり、ゆっくりと口を開いた。
「お前は、自分のことを知りたいと思ったことはあるか?」
「…ときどき」
「なぜ、自分がここにいるのか。なぜ、魔王として生まれたのか。なぜ、その力なのか」
ヴァルスは答えられなかった。
「俺は、知っている」
男の声が、低く響く。
「お前は、偶然ここに生まれたわけじゃない。誰かの…何かの計画の一部だ」
「どういう意味だ?」
「今はまだ話せない。だが、近いうちに必ず伝える」
男は立ち上がり、出口に向かおうとした。
「待ってくれ」
ヴァルスの声に、彼は足を止めた。
「何が言いたい?」
「お前は、なぜここに来るんだ?」
男は少し考えて、答えた。
「…お前のパンを食べると、落ち着くからだ。それだけだ」
彼はそう言って、店を出ていった。
その夜、ヴァルスはリラと二人、カウンターを挟んで向かい合っていた。
「何だったんだ、今の」
「わからない」
「でも、あの人は何かを知っている。お前のこと。この店のこと。たぶん、もっと前から」
ヴァルスは黙って自分の手を見た。粉まみれだった手は、今はきれいだ。でも、この手で焼いたパンが、誰かを呼び寄せている。
「怖いか?」
リラが尋ねる。
「…少し」
「無理するな。お前はお前のままでいい。何があっても、ここは変わらない」
ヴァルスは顔を上げた。リラは真剣な目で彼を見ている。
「ありがとう」
「礼を言うな。さあ、明日の仕込みをしよう」
ヴァルスはうなずき、立ち上がった。
翌朝。いつも通りオーブンに火を入れる。リラがカウンターに座る。ブロガーが新しい道具を運び込む。セレナが「たまたま」スイートパンを買う。レンが黙って銀貨を置く。
変わらない日常。それが、一番ありがたい。
ヴァルスは、新しいパンのレシピを考え始めた。もっとふわふわのパン。もっと甘いパン。もっと変わったパン。
何があっても、ここでパンを焼き続ける。それが、彼の答えだった。
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