第27話 小さな違和感
あの賑やかな夜から、再び日常が戻ってきた。
ヴァルスは毎朝オーブンに火を入れ、生地を捏ね、焼き立てのパンを棚に並べる。リラはカウンターでパンをかじり、ブロガーは新しい道具を運び込み、セレナは「たまたま通りかかった」と言いながら一番良い席に座る。レンは黙って銀貨を置き、三つ持ち帰る。
何も変わっていない。それが、一番ありがたいことだった。
「最近、変な客が来ないか?」
ガルドが尋ねる。彼は週に二度は顔を出すようになっていた。
「変な客?」
「ああ。最近、王都で変な噂が流れてる。この辺りをうろつく不審者がいるらしい」
「見てないけど」
「そうか。まあ、気をつけろ」
ガルドはパンを買い、店を出ていった。
その日の夕方、店に一人の男が入ってきた。
目立たない服装。帽子を深くかぶり、顔はよく見えない。
「いらっしゃいませ」
ヴァルスが声をかけると、男は黙ってカウンターに銀貨を置いた。
「焼き立てのをくれ」
「かしこまりました」
ヴァルスは棚からパンを取ろうとした。その時、男が帽子の下から顔を上げた。目が合う。鋭い、金色の瞳。
「…何か?」
「いや、すまない」
男はパンを受け取り、すぐに店を出ていった。リラが眉をひそめる。
「誰だ、あいつ?」
「わからない」
「なんか、変な感じがした」
ヴァルスも同じことを思った。
夜。店を閉めた後、ヴァルスは一人でカウンターに座っていた。今日の出来事を反芻する。金色の瞳。あの男は、何かを探しているように見えた。
「まだ起きてたのか」
リラが戻ってくる。彼女はヴァルスの隣に座り、パンを一つかじった。
「何か考え事?」
「…さっきの客のこと」
「ああ、あの金目か。何だったんだろうな」
「わからない」
リラはしばらく黙ってパンをかじっていたが、やがて口を開いた。
「なあ、ヴァルス」
「何だ?」
「お前、自分のこと、どれくらい知ってる?」
「…どういう意味だ?」
「そのまんまの意味だ。お前は魔王としてこのダンジョンで目覚めた。でも、その前は? なぜお前はここにいるのか?」
ヴァルスは答えられなかった。自分でも、わからなかったから。
「考えたことないのか?」
「…たまに」
「そうか」
リラはそれ以上聞かず、立ち上がった。
「また明日」
「ああ」
彼女が出ていった後、ヴァルスは自分の手を見た。粉まみれだった手。今はきれいだ。でも、この手で焼いたパンが、誰かを幸せにする。
それだけでいいと思っていた。でも、今日の男を見て、何かが変わった気がした。
翌朝。いつも通りオーブンに火を入れる。棚にパンを並べる。リラがカウンターに座る。
「おはよう」
「おはよう」
日常。変わらない。でも、昨日の男のことが頭から離れない。
その日も、客は来た。ブロガー、セレナ、レン、ガルド。いつもの顔。いつもの会話。
「どうした、元気ないな」
ガルドが尋ねる。
「少し、疲れてるだけだ」
「無理するな」
彼はパンを買い、店を出ていった。
夕方。あの男がまた来た。
同じ服装。同じ銀貨。同じ焼き立てのパン。
「いらっしゃいませ」
ヴァルスがパンを渡すと、男は受け取り、しばらく考え込んだ。
「…聞いてもいいか?」
「何を?」
「お前は、なぜここでパンを焼いている?」
ヴァルスは答えに詰まった。
「…おいしいから」
「おいしいから?」
「おいしいパンを食べた人が、笑顔になるから。それだけでいい」
男はしばらくヴァルスを見つめていたが、やがて小さく笑った。
「そうか」
彼はパンを抱え、店を出ていった。
リラが口を開く。
「何だったんだ、今の?」
「わからない」
「でも、なんか…変な感じがする」
ヴァルスも同じだった。
夜。店を閉めた後、ヴァルスは一人でカウンターに座っていた。
なぜ、ここでパンを焼いているのか。
それは、答えが出ている。でも、なぜ自分がここにいるのか。
それは、まだわからない。
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新規実績解除:小さな違和感
あなたの店に、正体不明の客が現れました。彼は何かを知っているようです。
報酬:+50 EXP、称号「気付き始めた者」
解説:「答えのない問いは、時に答えよりも価値がある。」




