第20話 地下牢への招集
ここ数日、ヴァルスの頭の中は新しいパンのことでいっぱいだった。
いつものように生地を捏ね、オーブンに火を入れ、焼き上がりを待つ。その間も、頭の中では別のレシピが回っている。粉の配合、発酵の時間、焼き加減――これまでにない、特別なパン。
「活気のパン」
自分で名付けたそれは、食べた者の体力を少しだけ回復するという効果を持っていた。戦いに役立つかどうかはわからない。でも、役に立てるかもしれない。それだけで、彼はそのレシピを磨き続けていた。
「おーい、聞いてる?」
リラの声で、ヴァルスは我に返った。
「何か言ったか?」
「言ったさ。ここ一週間、ずっとそんな調子だ。新しいパンに夢中で、話しかけても上の空」
「悪い」
「悪くないけど…」リラはカウンターに肘をつき、退屈そうにため息をつく。「俺、暇なんだよ」
「暇?」
「ああ。パン屋の手伝いは楽しいけど、たまには冒険がしたい。戦いたい。宝がほしい。そういうの」
彼女の目は、かつて冒険者だった頃の輝きを帯びていた。ヴァルスは自分の手を見た。粉まみれだった手は今はきれいだが、彼も昔を思い出していた――ダンジョンで最初に目覚めた日、リラと出会った日、初めてパンを焼いた日。
「…そういえば、最近は戦ってないな」
「だろ?」
「どこか、いい場所はあるのか?」
リラの目が輝いた。
「実はな、前から気になってたダンジョンがあるんだ。結構な広さで、まだ誰も完全に攻略してないらしい。宝も眠ってるって噂だ」
「すごいところみたいだな。ただ、問題がある」
「何だ?」
「多分、あそこは危険だ。今の俺たちだけじゃ、厳しいかもしれない」
「何の話だ?」
低い声が割り込んだ。振り返ると、ガルドが立っていた。彼は最近、週に二度は顔を出す常連になっていた。
「ダンジョンの話だ」リラが答える。「結構ヤバいらしい」
「へえ」
ガルドは興味なさそうに相槌を打ったが、次の瞬間、意外な言葉を口にした。
「俺も行く」
「は?」
「暇だからだ。それに、あんたらだけじゃ不安だ。騎士として、見捨てるわけにはいかない」
「お前に優しさなんてあったか?」
リラがからかう。ガルドは無視して続ける。
「ただし、問題がある。そのダンジョン、入るのに二十人必要なんだ。ギルドの規則だ。少なすぎると危険だからってな」
「二十人?!」
「そうだ。だから、俺の知り合いも連れて行く。文句あるか?」
ヴァルスとリラは顔を見合わせた。選択肢はなかった。
「…頼む」
「任せろ」
ガルドは珍しく、満足そうに笑った。
三日後。ダンジョンの入り口に、二十人の集団が集まっていた。
ヴァルスとリラ、ガルド、そして彼が連れてきた屈強な戦士たち。装備はばらばらだが、目つきは皆鋭い。
「俺たちは先行する。後ろは任せた」
ガルドの短い指示で、隊列が動き出す。ダンジョンの中は薄暗く、壁からはひんやりとした空気が漂っている。
「気をつけろよ」
リラが小声で言う。ヴァルスは無言でうなずいた。
最初の一時間は順調だった。現れるモンスターはゴブリンやコウモリ程度で、ガルドの部隊が次々と片付けていく。
「楽勝だな」
誰かが呟く。その言葉が終わらないうちに、地響きが聞こえた。
「――来るぞ!」
ガルドが叫ぶ。奥の闇から、巨大な影が現れた。石のような肌。鈍く光る目。巨体。
「トロルだ!」
声が上がる。ガルドが剣を抜き、前に出る。
「下がってろ!」
トロルの拳が振り下ろされる。ガルドは紙一重でかわし、反撃の剣を叩き込む。しかし、硬い肌に弾かれる。
「硬い!」
「数も多い!」
後ろからもトロルが現れる。囲まれた。
ヴァルスはバゲットを構えた。リラは剣を抜く。
戦いが始まった。
一時間が経ち、二時間が経った。
ガルドの部隊は奮戦していたが、トロルの数は減らない。逆に、こちらの体力は刻々と奪われていく。
「ちっ…!」
リラが後退する。彼女の息は上がっていた。ヴァルスも同じだ。バゲットはもう何度も使って疲弊していた。
「ヴァルス、下がれ!」
ガルドが割って入り、迫るトロルの拳を受け止める。鈍い音。彼の体がよろめいた。
「ガルド!」
リラの叫び。ガルドはそのまま、地面に崩れ落ちた。肩から血が流れている。深い傷だ。
「まだだ…!」
彼は立ち上がろうとするが、体が言うことを聞かない。
トロルが迫る。リラは剣を構えるが、腕が震えている。ヴァルスも限界だった。
「…くそ」
ガルドの声が聞こえた。それが最後だった。




