第19話 噂の広がり
朝。いつもの時間にオーブンに火が入り、焼きたてのパンの香りがダンジョンを満たす。ここ数日で、その香りに誘われてやってくる客が明らかに増えていた。
「おはようございます!」
元気な声とともに飛び込んできたのは、見慣れない若い冒険者だった。革の鎧に片手剣。まだ駆け出しといった風情だが、目は好奇心で輝いている。
「ここが噂の魔王のパン屋ですか!」
「そうですけど…」
「すごい! 本当に魔王がパンを焼いてる! 友達に自慢できます!」
彼は興奮した様子でパンを三つも買い、店を飛び出していった。リラがカウンターの陰から顔を出す。
「また増えたな、変な客」
「変じゃないだろ。普通の客だ」
「普通の客は、魔王を見てそんなにはしゃがない」
ヴァルスはため息をついた。リラの言う通り、ここ数日、明らかに「魔王のパン屋」を見物に来る客が増えていた。騎士の試験の噂が、思ったより早く広がっているらしい。
午前中、ブロガーが新しい看板を持ってきた。木の板に『魔王のパン屋』と焼き印が押してある。味わいのある、頑丈な看板だ。
「どうだ、これ」
「…出すのか、本当に」
「出さない理由があんのか?」
ヴァルスはしぶしぶ、入り口の横に看板を掛けた。どことなく誇らしげな気持ちと、ものすごく恥ずかしい気持ちが混ざる。
「似合ってるぞ、魔王」
「黙れ」
その日も、客は途切れなかった。常連たちが次々と訪れ、棚のパンはあっという間に売れていく。セレナは今日も「たまたま通りかかった」と言いながら甘いパンを二つ買い、レンは無言でいつもの三つを黙って持ち帰る。
「順調そうだな」
ガルドがやってきて、無造作にカウンターに寄りかかる。
「お前、騎士の仕事はどうした」
「今日は午後からだ。それまで暇だからパンを食いに来た」
「職務懈怠だぞ」
「うるさい」
彼は適当なパンを掴み、銀貨を置いてかじり始めた。その様子を見ていたリラが口を開く。
「なあ、ガルド」
「んだよ」
「王都って、どんなとこ?」
「なんだ、急に」
「こいつが行ったきり、詳しく話さないからさ」
ヴァルスが顔をしかめる。ガルドはパンをかじりながら、しばらく考えていたが、やがて口を開いた。
「でかいよ。人が多い。うるさい。金がなければ生きていけない」
「…ひどくない?」
「事実だ。でも、いいところもある。いい料理屋があるし、たまに面白い連中にも会える」
「例えば?」
「例えば…」ガルドは一瞬、ヴァルスを見た。「まあ、それはまた今度だ」
彼はそれ以上話さず、二つ目のパンを掴んで店を出ていった。
昼過ぎ、見慣れない客が来た。貴族風の服装の女主人と、その後ろに控える護衛。彼女は店内を見回し、値段表をじっくりと観察する。
「こちらのパン、すべてあなたが焼いているの?」
「そうです」
「騎士でありながら?」
「…はい」
女主人はしばらく考え込んでいたが、一つだけパンを買い、護衛とともに立ち去った。リラが眉をひそめる。
「何だったんだ、今の」
「さあ…」
変な感じがした。悪い予感ではないが、どこか落ち着かない。
夕方、店の客が途切れた頃、見覚えのある老人が入ってきた。先日、何度も通っていたあの旅人だ。彼は無言でカウンターに座り、銀貨を置く。
「いつもの」
「甘いやつですね」
ヴァルスは焼きたての甘いパンを差し出す。老人はそれを受け取り、かじった。
「…相変わらずだな」
「ありがとうございます」
「褒めてない。変わらねえって言ってるんだ」
老人は無愛想に言い放ち、それでもパンを食べ続ける。
「最近、客増えたか?」
「はい。なぜ分かるんですか?」
「人の顔を見ていれば分かる。お前、ちょっと浮かれてる」
「…そうですか」
ヴァルスは少し恥ずかしくなった。老人は無言で食べ終え、もう一枚銀貨を追加した。
「奢りだ」
「え?」
「次のパン代だ。また来る」
彼はそう言って、店を出ていった。リラが呆れたように笑う。
「相変わらず、変な爺さんだな」
「でも、悪い人じゃない」
「そうか?」
「…なんとなく」
ヴァルスはその銀貨を、大事にカウンターの隅に置いた。
夜。店を閉めた後、ヴァルスは一人でカウンターに座っていた。棚には、明日焼くための粉が並んでいる。壁にはブロガーの作った看板。机には、今日の売り上げの銀貨。
一つ一つが、確かに積み重なっている。
「何、ぼんやりしてるんだ」
リラが戻ってきた。彼女は自分の分のパンを一つ持ち、ヴァルスの隣に座る。
「別に」
「疲れたか?」
「…少し」
「無理すんなよ。お前は一人じゃないんだから」
ヴァルスは隣のリラを見た。彼女はパンをかじりながら、正面の何もない空間を見つめている。
「…ありがとう」
「何が?」
「いや、なんでもない」
彼は立ち上がり、明日の仕込みを始めた。粉を量り、水を注ぎ、イースト菌を呼ぶ。
明日も、また客が来る。常連も、新しい顔も。そして、この店は続いていく。
<システム通知>
新規実績解除:広がる噂
あなたの店の評判は、王都にまで届き始めています。
報酬:+50 EXP、称号「知れ渡る店」
解説:「良い評判も悪い評判も、まずは知られることから始まる。」




