第17話 騎士の日常
騎士になって、最初の一週間が過ぎた。
とはいえ、何かが大きく変わったわけではない。朝、いつも通りにオーブンに火を入れ、生地を捏ね、パンを焼く。客が来て、買って、帰っていく。それだけの日常。
違うのは、腰に下げた小さな徽章だけだ。
「騎士様、パンを一斤ください」
常連の冒険者がからかうように言う。ヴァルスは無視してパンを渡す。
「からかうな」
「だって、実際に騎士だろ。魔王が騎士なんて、笑うしかない」
冒険者は笑いながら店を出ていく。ヴァルスはため息をついた。リラがカウンターに寄りかかって言う。
「慣れろ。これからずっと、そんなもんだ」
「嫌な予感がする」
「いい予感もするさ。例えば…」
彼女が顎で示す方向に、見覚えのある大柄な男が立っていた。ガルド。試験で対戦したあの男だ。
「よう、魔王」
「いらっしゃい。パンを売ってるけど」
「パンを買いに来た。試験の時、お前のパンを食ってな。うまかった」
ガルドは無造作に銀貨を出し、適当にパンを指さす。ヴァルスは袋に詰めて渡す。
「で、用はそれだけか?」
「いいや」ガルドはパンをかじりながら言う。「実はな、王都からこっちに異動になった。騎士団の、この地域の支部だ」
「…は?」
「つまり、同じ仕事をする仲間ってわけだ。よろしくな、魔王」
彼は悪びれもなく手を差し出す。ヴァルスはため息をついて、その手を握った。
「ヴァルスです。よろしく」
「堅いな。ガルドでいい」
これが、新しい日常の始まりだった。
騎士の仕事は、思ったより退屈だった。
パトロール。届け出の処理。時折の訓練。そして、たまに起こる小さな事件。
「騎士様、隣村で畑が荒らされたんです!」
駆け込んできた農夫に、ガルドが面倒くさそうに対応する。
「魔物か?」
「わかりません! でも、足跡が変なんです!」
「行くか」
ガルドは立ち上がり、ヴァルスを見る。
「お前も来るか?」
「店は…」
「休みにしろ。騎士の仕事だ」
ヴァルスは仕方なくエプロンを外し、ガルドの後を追った。
現場は、王都から半日ほどの小さな村だった。畑の隅が荒らされ、確かに見慣れない足跡が残っている。
「何の動物だ?」
「わからん。少なくとも、この辺りにいるもんじゃない」
ガルドがしゃがみ込んで足跡を調べる。ヴァルスは周囲を見回した。畑の向こうは森。深く、暗い。
「中に入るか?」
「そうだな」
二人は森の中へ進んだ。木々の間を縫い、獣道を辿る。ガルドは慣れた手つきで剣の柄に手をかけている。ヴァルスは…何もない。持ってきたバゲットを腰に差しているだけだ。
「お前、それで戦う気か?」
「戦う気はない。パンを焼く気だ」
「わけわかんねえ」
森の奥で、何かが動いた。低い唸り声。ガルドが剣を抜く。ヴァルスはバゲットを構えた。
「何だ、あれ?」
「…猪だ。でかい」
木陰から、巨大なイノシシが現れた。目は赤く、牙が異様に長い。魔物化した野生動物だろう。
「お前、下がってろ」
ガルドが前に出る。イノシシが突進する。ガルドは軽くかわし、剣を振るう。が、イノシシの皮は固く、浅い傷しかつかない。
「硬い!」
イノシシが向きを変え、再び突進。今度はガルドにかわしきれず、肩を打たれる。彼がよろめいた瞬間、イノシシはヴァルスに向き直った。
「ちっ」
ヴァルスはバゲットを握り直す。突進してくるイノシシ。目の前に迫る牙。
―逃げない。
彼はバゲットを地面に突き刺し、それを軸に跳んだ。イノシシの頭上を越え、背中側に着地する。そのままバゲットを振り抜く。イノシシの後ろ脚にバゲットが絡みつき、バランスを崩す。
「今だ!」
ガルドが剣を振り下ろす。イノシシは地面に倒れ、動かなくなった。
「…終わったか」
「終わった」
ガルドが肩を押さえながら近づく。
「さっきの、何だ?」
「パンだ」
「パンで、イノシシを倒すのか?」
「倒してない。転ばせただけだ」
ガルドはしばらく呆けた顔をしていたが、やがて笑った。
「変わってるな、お前」
「よく言われる」
村に戻り、農夫に報告する。
「魔物化したイノシシでした。もう大丈夫です」
「ありがとうございます、騎士様!」
農夫は何度も頭を下げ、野菜や卵を土産に持たせようとする。ヴァルスは丁寧に断り、代わりにパンを一つ置いた。
「これで許してくれ」
農夫は驚いた顔をして、それから大事そうに受け取った。
帰り道、ガルドが言う。
「お前、騎士に向いてるよ」
「なぜ?」
「自分が何をしたか、大げさに言わない。それでいて、ちゃんと助けてる」
「…ただのパン屋だ」
「パン屋で騎士。悪くないだろ」
ヴァルスは何も言わず、ただ歩いた。
店に戻ると、リラが待っていた。
「遅かったな」
「魔物が出た」
「倒したのか?」
「倒したというか…転ばせた」
リラは笑い、それから真面目な顔で言った。
「お前、変わったな」
「そうか?」
「ああ。前は、戦うこと自体を拒否してた。今は、自分のやり方で向き合ってる」
ヴァルスは自分の手を見た。粉まみれだった手は、今はきれいだ。でも、さっきまでバゲットを握っていた感触が残っている。
「…少しは、変わったのかもしれない」
リラは何も言わず、新しいパンを焼くように促した。
<システム通知>
新規実績解除:騎士の仕事
初めての騎士としての任務を遂行しました。
報酬:+50 EXP、称号「田舎騎士」
解説:「小さな村の小さな事件。でも、それでいい。騎士の仕事は、それの積み重ねだ。」




