第13話:孵化
「おはようございますお嬢様」
ウルリケの声で、ヒルデガルトの目がパチリと開く。
「おはようウルリケ。良い朝ね」
彼女はベッドの中で伸びをする。
気が付いてみれば、世界はこんなにも色鮮やかなものなのか。そんな感慨に彼女は身を委ねていた。
昨日までと同じ風景が、まるで別物の様だ、とヒルデガルトは思っていた。そしてそこに在る温かいものを、改めて噛み締めていた。
「ねぇウルリケ」
名を呼ばれて、ウルリケが振り返った。
ヒルデガルトはまじまじとその顔を見つめ「大好きよ!」と伝えた。
ウルリケはびっくりしたが、すぐに微笑んで「ありがとうございます」と頭を下げた。
――もうヒルデガルトの心に、飢えはなかった。
****
「ねぇお父様、ハーディ・ドレフニオクという方はどういう方ですの?」
ヒルデガルトは朝食の席で、ヴォルフガングに質問した。
「彼かい? あまりいい噂は聞かないね。騎士の家の生まれだが、誠実とは程遠い。彼に泣かされる女性は多いと聞くね」
ヴォルフガングにしては珍しく、笑みを消して話をしている。
(やはり同じ穴の狢、ということね)
ヴォルフガングはよく我慢していた。本来ならヒルデガルトと同じクラスになど、入れたくはなかった。
「ねぇお父様」
ヒルデガルトは、じっとヴォルフガングの目を見つめる。
いつもと違う愛娘の様子に、ヴォルフガングが問いかけた。
「なんだい? 今日はどうしたんだい?」
「愛しています。お父様。いつもありがとう」
ヒルデガルトは心からの笑みで、感謝を伝えた――愛している、という言葉を、ヒルデガルトは誰よりも最初にこの人に言わなければならないと確信していた。
ヒルデガルトの人生で、最初の一言を。
ヴォルフガングは、目を瞠ってから、震える声で「ああ、私もだよ」と答えた。
****
ヒルデガルトを乗せた馬車が、邸から出ていく。
ヴォルフガングは馬車が見えなくなるまで、それを見やっていた。
「あの子は、あっという間に私を置いていってしまいそうだな」
ヒルデガルトが邸に引き取られてから半年――すでに彼の愛娘は、その手から飛び立とうとしていた。
(私の思惑も、ほぼ読み切られたな。あれは)
ヴォルフガングが出会った少女は、強い力を持ち、責務を理解した聡明な子だった。
だからヴォルフガングは、その力を将来、十二分に発揮し、戦い抜いていける力を育む環境を用意した。
元は力を持たない孤児だった。怖気づいても逃げられるよう、逃げ道も用意しておいた。
だが彼女は、戦う人生を選んでくれたようだった。
こちらの思惑を理解し、その上で彼女は、ヴォルフガングに感謝を述べた。
人生で初めて口にする言葉を、最初にヴォルフガングに送ってくれた。
その言葉を、その意味を、ヴォルフガングは何度も噛み締めていた。
****
いつもの朝、いつもの教室――
「お前たち、なんかあったのか?」
着席した際にあげたフランツ王子の声に、クラウディアが振り返った。
「どうしたのです? 急に」
その笑みは、いつもの儚い微笑みだ。だがフランツ王子の目には、僅かに異なって映っている。
「クラウの、いや、他のみんなも、昨日と顔付が違うじゃないか」
フランツ王子は、彼らの談笑する姿に、その目に、力強さを感じた。
ひたむきに生きるものが持つ――まるで彼女のような――力強さだ。
クラウディアは元々持っていたものだが、より力強さを増していた。
己を見つめ、明日を見据え、克己心に満ちた眼差しをしている。そう感じていた。
ヒルデガルトという炎が、周囲に燃え移っているかのような錯覚を覚えていた。
(一目で見抜くあたり、殿下はやはり人の上に立つ者――王の器をもってらっしゃるわね。でも――)
「今日は鏡を見ていらっしゃらないのかしら? 仰る殿下の顔付こそ、昨日と別人のようでしてよ?」
「あー……つまり、そういうことか、なるほど。理解した」
もちろん、炎はフランツ王子にも燃え移っていた。
炎は雛鳥たちを飲み込み、一晩で大きく成長させていた。
****
教室の入り口から、ヒルデガルトが姿を現した。
談笑していた彼らは、笑顔で彼女を出迎えようと顔を向け――次々と絶句した。
そこには、ヒルデガルトであってヒルデガルトではない者の姿があった。
いつものように、一見すれば庇護欲をそそる可憐な見た目、優しく浮かべる春の陽射しのような柔らかい笑み。
だが纏う空気は、周囲を支配する――まるでクラウディアのような――オーラを持ち合わせていた。
一晩で生まれ変わったのは、彼らだけではなかったのだ。
(女性とは、こうも一晩で生まれ変わるものなのか)
ノルベルトはその姿に、改めて感銘を受けていた。
「あら、みなさま、どうかなさいまして?」
自分を見つめる友たちの眼差しを受け、ヒルデガルトは可憐な笑みを浮かべた。
「まるで、鏡を見ている気分ですわね……」
「クラウが二人いる……」
クラウディアとエミリが、ぽつりと呟いた。
ヒルデガルトは一度小首を傾げた後、所定位置に着席した。
「みなさま、お顔が違いますわね。何かございましたの?」
ヒルデガルトの問いに、ジュリアスが問いを被せる。
「あなたこそ、何があったのですか――まさか! 自分の進むべき道を、もう選択した訳じゃありませんよね?!」
昨日の今日である。
人生の岐路に立ち、これから悩み、考え、その末に大きな一歩を踏み出す。そんな決断だ。
ヒルデガルトですら――いや、彼女の境遇だからこそ――逡巡を見せた選択。
誰もが『しばらく時間を要するだろう』と考えていた。
「選択しましたわ?」
(早くない(か)?!)
全員の心の声がハモった。
「昼食のメニューとは、訳が違うのですよ?! ちゃんと考え抜いてください!」
あまりに気軽に返された言葉に、ジュリアスは窘める言葉を口にした。
だがジュリアスの言葉に、ヒルデガルトは反論する。
「どうしましたの? ――ちゃんと熟考いたしましたわ。勿論、わたくし一人の力ではありません。みなさまの存在があってこそ、私は決断することができたのです」
「貴族に、なるんだな?」
フランツ王子が、確認するように問うた。その目は、臣下を見極めようとする王族のそれだった。
ヒルデガルトは無言のまま、静かに淑女の笑みを湛えていた。その姿が、雄弁に返答していた。
「……お前なら、俺の側近になれるだろうな」
その頼もしさに、フランツ王子の頬が緩む。
「あら、そういったお言葉は男性にお送りするものでしてよ? 淑女は社交界で戦う人種ですわ」
「そうよ? 殿下。私のヒルダは私の懐刀になるんだもの。殿下にお譲りすることはできなくってよ?」
クラウディアがヒルデガルトの肩を抱き寄せ、殿下に見せつけた。
ヒルデガルトは苦笑いを浮かべる。
「そういうことですので、側近にはジュリアスを擁することをお勧めいたしますわ。わたくしも裏方から、持てる力全てを尽くしてご助力は致しますが、表舞台ではジュリアスを御頼り下さい――ジュリアスも、そのつもりなのでしょう?」
ジュリアスは驚愕して「なぜそれを?!」と口にした。
昨晩決意したばかりで、まだ誰にも打ち明けたことのない目標だった。
「少し考えればわかること――あなたならば、わたくしを、そしてお父様を超える魔術師になれますわ。そしてその力を十全に発揮するのであれば、筆頭宮廷魔術師になるべきではなくて? ――そう決意したから、お顔が違っているのではなくて?」
しばし呆然としたジュリアスは「あなたには、かないませんね」とぼやいた。
「ヒルデガルト嬢」
ノルベルトのかけた声に、ヒルデガルトが振り返る。
「あなたに、伝えたい話がある。後でお時間を貰えないだろうか」
きょとんとしたヒルデガルトは、すぐに笑みを浮かべなおす。
「あら、わたくしは今、ここでお伺いしてもよろしくてよ? ――それともベルト様の決意は、その程度で揺らぐものでして?」
可憐な笑みは、父親譲りの人の悪さを含んでいた。
その全てを見透かすような笑みに、ノルベルトは僅かに呆然となる。
十五歳の青年にとっては、過酷な試練だ。
だが、こうも言われては引くことはできなかった。気を引き締めなおし、ノルベルトの瞳が、ヒルデガルトの右目を射抜く。
「ヒルデガルト嬢――あなたの心を、私に頂きたい。共に生きてはくれないだろうか」
その言葉を噛み締めるように目を瞑ったヒルデガルトは、次に目を開いた瞬間、心からの柔らかな微笑みを浮かべた。
「その言葉を、待っておりました。ええ、喜んで」
一瞬の静寂が訪れ、すぐに彼らを祝福する声が周囲から溢れた。
ジュリアスもまた、祝福の拍手を送る一人だった。
(やはり数手、間に合いませんでしたね。あなたはいつも、俺たちの先を駆け抜けていってしまう)
ヒルデガルトが人生の岐路で逡巡している間に、リードを覆す予定だった。まさか一晩で人生を選択してくるとは、夢にも思っていなかった。
だが、ヒルデガルトが貴族の道を選んだのなら、ジュリアスの道は彼女の道と交わり続ける。
彼女の力になり続けることができる。自分にはそれで十分だと、ジュリアスは考えていた。
****
ノルベルト・フォン・キルステンがヒルデガルト・フォン・ファルケンシュタインに求婚し、彼女がそれに応じた――その噂は瞬く間に学院中に広まっていた。
普段から喧騒に包まれている食堂は、いつにもまして賑やかだ。
ヒルデガルトたちは食後のお茶を楽しんでいた。
「これでジュリアス様以外、みんな婚約済みかー」
「リッド、わたくしたちはまだ口約束だけでしてよ? これから両家で調整をしないといけませんわ」
「俺は一生独り身でも構いませんので、問題はありませんね」
「それはさすがにさみしくなーい?」
思い思いの言葉で会話を紡いでいく。
「ヒルダ嬢――」
「ベルト様、私の事はヒルダとお呼びください」
ヒルデガルトは何かを言いかけたノルベルトの言葉を遮り、呼び名を訂正するよう要求した――そろそろ他人行儀な呼び方は卒業したい。そういうことだ。
彼女の言葉にやや頬を染めながらノルベルトは応じた。
「では俺の事もベルト、と呼び捨てて欲しい……ヒ、ヒルダ」
「ええ、わかったわベルト――それで、なーに? 言いかけてらしたけど」
こほん、と咳払いをしてから、ノルベルトは話を始めた。
「実はだな……その、もしかすると、私は家督を継げないかもしれない。親父と大喧嘩中でね。とうとう弟に家督を譲ると言い始めた。あなたとの婚姻だけは頷かせるつもりではあるのだが――」
ヒルデガルトは喜色を溢れさせてパン! と両手を打ち鳴らす。
「まぁ! とっても好都合! 願ったり叶ったりですわね!――わたくし、ベルトには”お婿さんにこないか”って提案しようと思ってたところですのよ?」
ノルベルトは困惑した顔を浮かべた。
「婿、ですか……? でもそれではあなたの夢が――」
ヒルデガルトはそれに流し目で応える。
「嫁ぐばかりがお嫁さんじゃないでしょう? お婿を取ってもお嫁さんには違いないわ」
笑いを堪えきれていないクラウディアが「確かにそうね」と口にした。
ヒルデガルトはさらに可憐な微笑みを湛えつつ、自信満々に言い放つ。
「ついでに、婚約解消にまつわる負債もファルケンシュタイン家が全て引き受けるわ。この条件で首を横に振るとは思えないもの。話はすぐにまとまるはずよ?」
ノルベルトが慌てて腰を浮かせた。
「いや! そんな条件をヴォルフガング先生が飲むわけが――」
ヒルデガルトがきょとんとした顔でノルベルトの言葉を否定する。
「絶対に飲みますわよ? むしろ喜んで公爵家の財産を使ってでも払うと思うわ! だってお父様は、私の傍から離れたくないんですもの。私を手元に置くためならば、負債の一つや二つ喜んで引き受けてくださるわよ?」
ノルベルトはまだ納得しきれない。腰は下ろしたが、眉尻が下がっている。
「それでは、私の立場がない」
ヒルデガルトがカップを傾けながら提案をする。
「気に病むなら、お父様から事業を引き継いだらいいのよ。婿なんですもの、お父様の事業を継承する正統な権利があるわ。その中から少しずつ返済すればいいじゃない。新しく事業を起こすのも面白いですわね」
ノルベルトはまだ諦められない。
「いやしかし……」
(ベルトったら頑固者ね?)
ヒルデガルトが再び可憐な微笑を浮かべた。
「そもそも、私と婚姻するための婚約解消なのでしょう? ならばファルケンシュタイン家にも責任はあります。気に病む必要なんて、本来はないのよ?」
ようやくノルベルトは次の言葉を失い、がっくりと肩を落とした。
一部始終を見ていたフランツ王子がノルベルトに「諦めろ。こうなったら勝ち目はない。俺も、この流れになったクラウに勝てたためしがないんだから間違いないぞ」とアドバイスをしていた。
****
帰宅してすぐ、ヒルデガルトはヴォルフガングの書斎に向かった。
ヒルデガルトが部屋に入り挨拶をする。
「お父様、ただいま戻りました」
覇気のないヴォルフガングが、ヒルデガルトを迎えた。
「ああお帰り。どうしたんだい? 何か話があるのかい?」
(やっぱりお父様、ちょっとお元気がありませんわね)
ヒルデガルトが可憐な微笑を湛えて今日の出来事を報告する。
「わたくし、本日、ノルベルト・フォン・キルステン様に求婚され、それを受けました」
ヴォルフガングは、一度目を瞑った後、弱々しい笑みでそれに応える。
「……そうか。ついに、相手を見つけたんだね。おめでとう。婚約契約については、私の方で滞りなく進めておこう」
ヴォルフガングは肩を落とし、深い哀愁を漂わせている。その反応は予想通りなので、構わずヒルデガルトが応える。
「ありがとうございます……それで、その婚約契約についてご相談があるのです」
「相談? どういうことかな?」
ヒルデガルトが可憐な微笑で、爆弾発言を投下する。
「実はわたくし、ノルベルト様を婿に迎えたいと思っておりますの」
ヴォルフガングが一瞬目を瞠った後、一瞬で血色よく喜色を溢れさせた。今にも我慢できずに飛び上がりそうな気配だ。
ヒルデガルトは内心で笑いを堪えつつ、表向きは可憐な微笑を維持して言葉を続けた。
「ですが、ノルベルト様はキルステン伯爵家の嫡男。話を円滑に進めるためにも、お父様にはキルステン伯爵家が現在抱えている、前回の婚約解消にまつわる負債を全て肩代わりして頂きたく思っておりますの。お願いできますでしょうか」
「ああ、ああ! それくらいお安い御用さ! 交渉は任せておきなさい!」
ヴォルフガングは一発了承した。今すぐにでも走り出したい衝動を抑え込んでいるようだった。
ヒルデガルトはその様子を確認すると、微笑を湛えたまま頭を下げた。
「はい、お願いいたしますね。では失礼いたします」
そのまま彼女は、ヴォルフガングの部屋を辞去した。
ヒルデガルトが廊下を歩きながら、背後に控えるウルリケに確認を取る。
「ねぇウルリケ。昼間のお父様は、どれくらい落ち込んでらしたの?」
ウルリケも先程の様子でもう我慢できなくなったのか、笑いながら応えた。
「それはもう、目も当てられないほどでした。あれほど落ち込んだ旦那様を見るのは家人一同、はじめてです」
ヒルデガルトも明るい笑みを零した。
「あらあら、お父様ったら。困ったお人ね」
そうして二人は部屋へ戻っていった。
夕食の席のヴォルフガングは、それはもう終始ご機嫌だった。
酒も進み、赤ら顔の彼から笑顔が途切れることはなかった。
ヴォルフガングにしては珍しく、酒を飲んではしゃいでいたのだ。ヒルデガルトがこの邸に来て、初めて見る姿だった。
(この様子だと、明日には話をまとめてきてしまいそうね)
実際、ヴォルフガングは翌日早々に出立し、午前中にはキルステン伯爵家と話をまとめあげ、その日のうちに婚約契約を締結してきたのだった。




