第10話:シュテルン
シュテルン稼働初日。
ヒルデガルトたちはいち早く教室にいき、座席に陣取っていった。
百人収容できる教室に僅か十一人。少人数クラスなので、教室はスカスカである。
前にアストリッドとエミリ
真ん中にヒルデガルトとクラウディアとルイーゼ。
後ろにジュリアス、フランツ王子、ノルベルト。
いつも通りの配置。
だが、この日は違った。
「いやあ、今日も可憐だねヒルデガルト嬢」
ヒルデガルトの左隣に、フィル・ブランデンブルクが座っていた。
ヒルデガルトが気づかないうちに隣に来ていて、気が付いた時には腰を下ろした後だった。
(気配を感じなかったんだけど……)
フィルはヒルデガルトの左手を取ると、今日も口づけを落としていく。
「――ッ?!」
ヒルデガルトが再び硬直しているのも構わず、フィルの口は動く。
「君こそ可憐の化身だ。君の前では、他の貴族令嬢が霞んで見えるよ。どうかこの身が、美しい君の傍に居ることを許してほしい」
フィルの言っている意味がヒルデガルトには理解できなかった。
頭が混乱していた。
(私が可憐? 可憐is何?! 他の令嬢が霞む?)
ヒルデガルトの混乱した思考が、ひとつの単語を拾い上げた。
(……霞む?)
(霞む、と言ったのか。私よりも、他の令嬢が劣ると、そう言ったのか。彼女たちの面前で)
それに気づいた瞬間から、ヒルデガルトの思考は途切れた。
ヒルデガルトの異変に気付いたフィルが声をかける。
「レディ? どうしましたか?」
フィルの声がヒルデガルトの耳に届いた。だが理解は出来ていない。
ヒルデガルトの身体はふるふると細かく震えている。
そして、おもむろに空いている右手を振り上げ拳を作り――
ヒルデガルトの右拳が、電光石火でフィルの顔面中央にさく裂していた。
――全力。一切手加減のない、特等級の魔力を力一杯込めた肉体強化術での右ストレートだ。
あまりの衝撃に、ヒルデガルトの右腕の筋繊維と骨格が悲鳴を上げていた。
ヒルデガルトにぶん殴られたフィル・ブランデンブルクは、そのまま吹き飛び壁に叩きつけられていた。
「言うに事欠いて……他の令嬢が……クラウが、みんなが霞む?! よくも私の友達を侮辱してくれたわね……その顔面、その性根にふさわしい形に叩きなおしてあげるわ」
ヒルデガルトがゆらりと一歩、足を踏み出した瞬間、彼女は決死の思いで飛び込んだノルベルトに羽交い絞めにされていた。
「ヒルダ嬢、やりすぎです! 肉体強化してまで相手を殴るなど、淑女のすることではありませんよ?!」
猛獣のように息の荒いヒルデガルトを、必死に引き留めるノルベルトの声――耳に届いてはいたが、やはり理解できていないようだった。
ヒルデガルトの怒気に気圧され、フィル・ブランデンブルクは、自分の鼻血にまみれた顔面を抑えて彼女を見上げたまま動けないでいる。
「ヒルデガルト嬢! 落ち着いて! ステイ! もう十分です!」
いつのまにか正面に回り込んだジュリアスがヒルデガルトの両肩を押さえつけている。
肉体強化術を使う同年代男子二人に抑え込まれ、身動きの取れなくなったヒルデガルトは、だがそれでも前進を諦めていなかった。なんとか拘束を振り切ろうと藻掻いていた。
抑え込むほうも、いつ先程のような鉄拳が自分たちに襲い掛かってくるか分からず恐怖している。既にヒルデガルトは正気ではないのだから。特に体力に不安のあるジュリアスはノルベルトが抑え込んでいる今も決死の思いだ。
そんなヒルデガルトの肩を、ぽん、と優しく誰かが叩いた。
「ねぇヒルダ。お願いだから、こちらを向いて?」
その優しい声に、ヒルデガルトの目線が声の主を捕らえる。
彼女の視界に入ってきたのは、クラウディアの、心からの優しい微笑みだった。
「あなたの気持ちはとても嬉しい。でも、もうこれで十分。これ以上は必要ないわ。だから、落ち着いて?」
クラウディアの両手が、ヒルデガルトの固く握りこんだ拳をそっと包み込む。
その様子を見ていて、ようやくヒルデガルトの思考が戻ってきた。
表情から険が取れていく。
「――クラウ」
「ほら、手が傷ついてしまっているわ。一緒に医務室に行きましょう? ね?」
ヒルデガルトは静かに頷き、ジュリアスとノルベルトに「ごめんなさい、もう大丈夫です」と告げた。二人は恐る恐るヒルデガルトの拘束を解いた。
クラウディアに肩を抱かれ、ヒルデガルトたちは扉に向かい歩き出す――だが思い出したように足を止め、フィル・ブランデンブルクに振り返り、睥睨して告げた。
「――フィル・ブランデンブルク。二度と私に近づくな」
その声は、恐ろしく冷たい響きを持っていた。
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「まったく、無茶をするんだから」
医務室でヒルデガルトの右手に処置を施しながら、クラウディアが笑っていた。ヒルデガルトたちの後を追ってルイーゼたちも来ている。
ヒルデガルトの右手は、強化された筋力で顔面を殴る負荷に耐え切れず、皮が大きく擦り剥けていた。クラウディアに消毒し包帯を巻いてもらったが、しばらくは痛むだろう。
「いやースカッとしたね! 見たかい? あの男の呆然とした様!」
アストリッドは本当におかしそうにお腹を抱えて笑っていた。
「ごめんなさい心配をかけてしまって。みんなが侮辱されたと気づいた瞬間、体が勝手に動いていたの」
ヒルデガルトは肩を落としながら、おとなしく処置を受けていた。包帯を巻き終わったクラウディアは「はい、おしまい」と、優しく彼女の右手を叩いた。
「侮辱だなんて……あんなありきたりな口説き文句、本気で受け取ったら駄目よ?」
ルイーゼがヒルデガルトの肩にそっと手を乗せる。やはり優しい眼差しで彼女を見ていた。
「『こいつは怒らしちゃいけない』ランキング一位は伊達じゃないよねー! クラウが気圧されたのも頷ける迫力だったよ!」
治療具を片付けながら、エミリが笑って言った。
「ですから、なんですかそのランキングは……そんな不名誉な一位はいりませんけど」
そこに、先程の猛獣のような姿はなかった。いつものヒルデガルトがそこに居た。
「自覚がないのも困り者だわね」
クラウディアが苦笑していた。
「ヒルダの気持ちは嬉しいけど、あれはやりすぎよ? 後であの方にも謝罪をしておきなさい?」
「それはできません」
ヒルデガルトは、自分でも驚くほどきっぱりと言い切った。その声からは温度が失われていた。
「なにより、あの男を前にして冷静でいられる自信がありません」
ヒルデガルトの目にまだ怒気が残っているのを見て、クラウディアがため息を吐いた。
「ヒルダ……あなたの為でもあるのよ? 男性の顔面を拳で殴った、だなんて広まったら、あなたの夢がさらに遠のいてしまうわ」
「なんと言われようと、わたくしは譲る気はありません」
意固地なヒルデガルトを見て、四人が苦笑しながらため息をシンクロさせる。
「しょうのない子ね。でも、気持ちが落ち着いたらもう一度考えてみてね?」
そう言うと、クラウディアはヒルデガルトに立つように促し、五人で医務室を後にした。
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「……パネェ。凄い女だなあれは」
フィル・ブランデンブルクは、壁際に吹き飛ばされたままの姿勢で、呆然とヒルデガルトが去っていった扉を眺めていた。
もっとずっとふわふわとした、可愛らしいイメージを抱いていた。だが見た目と裏腹に、その中身は苛烈な激情型だと思い知っていた。
「フィル・ブランデンブルク、立てますか」
ジュリアスの冷たい声がフィルの頭上から投げつけられる。声はかけるが、手を伸ばそうとはしていない。
「んー、ああ。問題ない」
そう言ってフィルはゆっくりと立ち上がった。血に染まった顔面を、浄化魔術で綺麗にしていく。
「もう鼻血が止まりましたか――いや、それは治癒魔術ですか」
ジュリアスが少し驚いたような声を上げた。治癒魔術は難易度が高く、学院の外を含めても、使えるものはそう多くない。
「鼻を折られたんだぞ? 治癒しなきゃやってられん」
さも大したことがないように言ってのける。だが流麗に施されたその魔術の腕が確かなのは、疑いようがなかった。
「……彼女に言われた通り、これからは教室の隅で、視界に入らないように行動することをお勧めしますよ。可能であればシュテルンを辞退した方がいい。彼女の行動は、時に我々でも制止しきれない」
ジュリアスが冷たく告げる。一応は親切心から出た言葉でもある。
「これからは口説く相手をきちんと選ぶことだな」
ノルベルトも声をかけた。その声にはやはり、温度がない。
「ははは! あんな面白い女、そう簡単に諦められる訳がないだろう! ――これでも俺は本気でね」
フィルは、ジュリアスとノルベルトにウィンクを飛ばした。飛ばされた二人は、心底嫌そうな顔でフィルを見ていた。
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ヒルデガルトたちが教室に戻り、席に座る。そろそろ教師がやってくる時間だ。
「ヒルダ嬢、右手は大丈夫ですか?」
ヒルデガルトは心配そうなノルベルトに右手を見せ、「治療していただきましたから、大丈夫です」と優しく答えた。
その右手を痛ましいものを見る眼差しで見つめた後、ノルベルトは「わかりました。でも、もうあのようなことはしてはいけませんよ」と釘を刺した。
ヒルデガルトは苦笑で返す――釘を刺されても、考える前に体が動いてしまうのだ。ヒルデガルト本人でも、止めようがなかった。
「帰ったらヴォルフガング先生に身体を見てもらった方がいいでしょう。あのような加減なしの肉体強化術は負荷が高いはずだ」
ジュリアスも眉尻を下げてヒルデガルトを見ていた。
(確かに、右腕全体が軋んでいる。よく脱臼しなかったものね)
ヒルデガルトが自嘲の笑みを浮かべた――大怪我に繋がらなかったのは運が良かっただけだろう。一歩間違えば、右腕が一生使い物にならなくなっていた。
皆がようやく落ち着き、講義の準備を整えて教師を待っていると、ふたたびヒルデガルトの耳にフィルの声が届いた。
「ヒルデガルト嬢、謝罪の機会をいただきたいのだがよろしいかな」
少し離れたところから聞こえた声に、だが視線も寄こさずヒルデガルトは答える。
「フィル・ブランデンブルク。二度と近づくな、と言った。お前の頭には脳が詰まっていないのか」
ヒルデガルトの表情から一瞬で温度が抜け落ちた。怒気が目に宿り始める。
「ですから、近づいてはいませんよ。あなたと、あなたの友人に対して謝罪の機会をいただきたい」
ようやくヒルデガルトの視線がフィル・ブランデンブルクを捕らえる。三メートル先に佇むフィルの顔面はどうやったのか、綺麗に元通りになっていた。
「私に謝罪はいらない。お前の声など極力耳に入れたくない。だけど、私の友人たちには謝罪しなさい」
クラウディアの手がヒルデガルトの肩を抑えている。淑女らしくない彼女の態度を嗜めるように「落ち着いて」と声をかけていた。
フィル・ブランデンブルクは苦笑いを浮かべ、恭しく頭を下げた。
「クラウディア嬢、エミリ嬢、アストリッド嬢、ルイーゼ嬢。あなた方を侮辱するような発言をして、申し訳なかった。発言を撤回する。許してほしい」
「許します。この子は男女のやりとりに慣れていないの。不用意な発言をすると、またその綺麗な顔面を殴られますよ。気をつけなさい」
クラウディアが代表するように返事をした。それを受けて、フィル・ブランデンブルクが顔を上げる。
「ヒルデガルト嬢、あなたにも謝罪をさせて欲しい――その右腕で講義を受けるのは辛いでしょう。私に治療をさせては頂けないか」
(治療――治癒魔術か。自分の顔も、それで直したのか)
――確かにヒルデガルトの右腕はしばらく、ろくに使い物にならないだろう。彼から治療を受ければ、その痛みや傷も癒せるのかもしれない。それを頭で理解してもなお、ヒルデガルトは結論が一ミリもぶれなかった。
「不要だ、と言った。右手はクラウに治療してもらった。お前の治療など必要ない。その足りない頭で言葉を理解したなら下がれ」
フィルはしばらく待ったが、ヒルデガルトの意志が変わらないのを理解して「わかりました」と引き下がっていった。
****
喧騒に包まれた食堂――その中に居るヒルデガルトの包帯を巻いた右手に、時折好奇の視線が伸びていた。
既に一部で噂されていたのだ。
”ヒルデガルトが拳でフィルの顔面を殴り抜いた”と伝わっていた。
それを聞いて”やはり下賎な孤児は下品だな”と嗤う者もいた。
それまでのクラウディアに並ぶ淑女振りしか知らない生徒たちは、その噂を聞いても戸惑う者が多かった。”何かの間違いじゃないか?”と耳を疑っていた。
当然、その声はヒルデガルトたちのテーブルにも届いてきている。
(誰が見ていたのかな。耳の早いこと)
「あーあ、やっぱり噂になってるね。せっかく今まで淑女らしく振舞っていたのに、これで一気にイメージが変わっちゃったよ」
アストリッドが定食を口にしながら呆れたように言った。
「わたくしの評判など、大した問題ではありませんわ――でも、せっかくクラウがお膳立てしてくれた対策を台無しにしてしまったことは謝ります。ごめんなさい」
ヒルデガルトはクラウディアに頭を下げた。襲撃事件を誘発してまで自分を庇おうとしてくれたクラウディアに申し訳なかったのだ。
クラウディアは苦笑しながら首を横に振り、ヒルデガルトを諭すように言葉を紡ぐ。
「ねぇヒルダ。”他の女が霞む”という言葉には、”私にはあなたしか目に入らない”という意味もあるの。決して私たちを侮辱する意味で言ったのではないと思うわ。だから、今度からあんな風に怒るのはやめて頂戴?」
それを聞いてヒルデガルトの顔から血の気が一気に引いた。
(侮辱した訳ではなかった?)
「……わたくし、やりすぎてしまったのかしら」
ジュリアスが深いため息を吐く。
「だから、そう言ったでしょう。軽薄な言葉であるのは確かですが、鼻を折るほど殴られるような言葉でもありませんよ」
それを聞いて、ヒルデガルトはがっくりと肩を落とした。
「……後で謝罪に行かなければなりませんね」
そんなヒルデガルトを、クラウディアが優しく抱きしめた。
「あなたはちょっと経験が足りないだけ。大丈夫、わたしたちがついてるわ――それに、あなたが怒ってくれて嬉しかったのも確かよ? あなたが私たちを、どれだけ大切に思ってくれているのかが解ったんだもの」
アストリッドもヒルデガルトを抱きしめた。
「それに、自分が可愛いって自覚もそろそろ持ってもいい頃だよ。あんたはちゃんと、魅力的な淑女だ」
(淑女は男性をグーパンしないと思う……)
見るからにしょぼくれているヒルデガルトと、それを慰める女性陣――その様子を見て、近づいてくる男が居た。
「――そろそろ、私の謝罪を受け入れてくれる気になったかな?」
ヒルデガルトがその声に振り返ると、少し離れたところにフィル・ブランデンブルクが立っていた。
ヒルデガルトが慌てて立ち上がり、頭を下げる。
「その、やりすぎてしまってごめんなさい!」
そこには、先程までの怒気をまき散らしていた猛獣の姿はなかった。可憐な淑女が、そこに居た。
その豹変ぶりに、フィルも一瞬、当惑していた――俺は本当に、先程と同じ人間に話しかけているのか? と。
少しして、ヒルデガルトの頭の上から軽妙な笑い声が響き、足音が彼女に近づいていった。
ヒルデガルトが顔を上げると、微笑んでいるフィルがいた。
「あなたは本当に面白い方だ。あれは私の失敗なのだから、あなたは謝らなくていいですよ――右手を診せていただきますね」
そう言ってヒルデガルトの右手を取る。次いで肘や肩も確認していった――かなりのダメージだとフィルは判断した。自然治癒で全治一、二か月といったところだろう。骨や腱にもダメージが見られた。こんな腕でよく授業を受けたものだと感心した。
「……午前中、かなり痛んだでしょうに。我慢強いのですね」
そういうと術式を展開して治癒を始めた。フィルの魔力がヒルデガルトの右腕を包み込んだ。
(なんて無駄のない魔力制御……お父様が”合格を認めざるを得ない”と言うだけはあるわ)
フィルの魔力が肉体を修復していくのがヒルデガルトには解った。痛みが瞬く間に引いていくのだ。
(なるほど……魔力同調してからの肉体の治癒力強化……送り込んだ自分の魔力を治癒力の促進に変えてるのね)
特等級のヒルデガルトの魔力に同調するのは相当難しい。それを難なくこなした。
「……さぁ、これで包帯を取っても大丈夫ですよ」
ヒルデガルトが包帯を取ると、その下から現れたのは、傷一つない右手だった。
「治療していただき、感謝いたします。ありがとうございます」
ヒルデガルトが再び頭を下げた。またもや軽妙な笑い声が彼女の頭上から降り注ぐ――よく聞いてみれば中々の美声だ、とヒルデガルトは思った――人は悪印象から好印象に振れた時、実際より大きく好感度を高く感じるという。或いはヒルデガルトはそういう状態だったのかもしれない。。
「言ったでしょう? これは私からの謝罪だ。感謝する必要などありませんよ」
ヒルデガルトが顔を上げると、微笑んでいるフィルがいた。やはり綺麗な顔をしていた。
(私はこの綺麗な顔面に拳を叩きこんだのか……)
ヒルデガルトは自己嫌悪で、また肩を落とす。
しょんぼりしているヒルデガルトを見かねて、フィルが提案をしてきた。
「そんなに気に病んでしまうのであれば、謝罪の代わりに私に一日下さいませんか? 次の休日、二人で街を散策しましょう。それで貸し借りなし。どうですか?」
ヒルデガルトは顔を上げてフィルを見つめる。どうしようか、と僅かに迷っているようだ――そのフィルの言葉の真意に、ヒルデガルトは気が付いていない。彼はこれを口実にデートに誘っているだけなのだ。そこにヒルデガルトを思いやる心などない。
「それでフィル様の気が済むのであれば、喜んで」
ヒルデガルトがそう答えた瞬間、彼女の背後から「お待ちなさい」とクラウディアが声をかけた。
「二人きり、というのは看過できません。わたくしも同伴いたします。文句はありませんね?」
有無を言わさぬ冷たい微笑がフィルに叩きつけられていた。クラウディアはもちろん、フィルの真意を見抜いている。
しかしフィルは、寒風を受け流した微笑みで「ええ、もちろん構いません」と答えた。
フィルは「では、休日にお迎えに上がります」と告げると颯爽とその場を立ち去った。
ヒルデガルトは席に戻り、昼食を再開した。
「あのように人の良い方を殴ってしまうだなんて……自己嫌悪ですわ……」
ヒルデガルトは肩を落としながらサンドイッチをちまちまと食べていく――殴った私が悪いのに、私が気に病まないように気を使ってくれたのだ。
申し訳なさで地面に埋まりそうだ。表情がそう物語っていた。
やはり、ヒルデガルトのフィルに対する好感度が上がっていた。
経験不足のヒルデガルトに、真意を見抜け、という方が酷なのだろう。
周囲の女子たちがその様子を確認して相談を始めた。
「……本当に何もわかってないのね」
「これはあたしらもついていった方がよさそうだね」
「目を離したら危ないね」
エミリたちの声が彼女の耳に届いた。だがその意味までは、ヒルデガルトには理解できなかった。
****
午後の魔術講義が始まり、教師が姿を現す。
(――お父様?!)
ヴォルフガングは人の良さそうな笑みを浮かべてヒルデガルトを見ている。
「おや、どうしたね? 鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして」
「だって、聞いてませんわ? お父様が直々に教えるんですの?!」
ヴォルフガングが直接教える、ということは弟子入りするに等しい。滅多に弟子を取らない大魔術師に弟子入りを認められた時点で、高い魔術の腕前を持つ、と太鼓判を押されるようなものだった。
(なるほど、だからシュテルンの試験は難易度が高かったのか)
ヴォルフガングは「初日だから、まずは簡単なものからはじめよう」と、魔力制御鍛錬を指示し、それぞれに指導を開始した。
難易度が高いものではなかったので、ヒルデガルトたちは鍛錬をしながらおしゃべりをしている――グランツでは講義中の雑談も、結果を残せるなら看過されていた。それはヴォルフガングの講義でも変わらない。
「これでみなさまも、お父様の弟子を名乗れますわね」
「プレッシャーきついって!」
アストリッドの笑いは引きつっている。今後、シュテルンの生徒はヴォルフガングの弟子として見られるということだ。かけられる期待は大きいだろう。
「そういえばディーターはどうしたのかしら」
あれほどヒルデガルトに懐いていたのだ。同じクラスになればすぐに近寄ってきそうなものなのだが、ここまで姿を見せていない。
「ああ、それなら、あなたの剣幕を見て萎縮したのか、クラスの隅っこに座っていましたよ。今も――ほら、あそこ」
ジュリアスが指し示す方向には確かにディーターが居た。ヒルデガルトたちからだいぶ離れている。
「あの軟弱者には刺激が強すぎたのかもしれないわね。近寄ってこないのは都合がいいわ」
クラウディアが冷たく言い放った。
やっぱりクラウディアはディーターを受け入れがたい人物と見ていた。シュテルン合格は結果の内に見做していないのだろう。
ヒルデガルトがふと思い出して辺りを見回すと、固まって鍛錬をしている彼女たちから離れたところにフィルともう一人――ハーディ・ドレフニオクと思われる人物が並んで鍛錬していた。
「あの方、フィル様と親しそうですわね」
クラウディアは”野蛮な人間”と評したが、少なくともシュテルンに認められるくらいは魔術に長けた人物、ということになる。
(なんだか、ちぐはぐな印象ね……)
「あの二人につながりがあるのね……意外だわ」
クラウディアがぽつりと呟いた。
「クラウにも交友関係が解らない方なの?」
クラウディアは苦笑いを浮かべて応える。
「そうね。フィル・ブランデンブルクの噂は乏しいわ。親しい人間の話も聞いたことがない。解っているのは、彼が顔を出した夜会は、彼の周囲に婦女子が集まる、ということだけよ。彼に恋い焦がれる女性はいても、彼に泣かされた女性がいる、という噂はないわね」
(女遊びをしている形跡はない、ということかな)
「あの美貌ですもの。望まなくても女性が集まってしまうのはしょうがないのではなくて?」
やはり、ヒルデガルトのフィルに対する好感度はかなり高いようだった。女子たちの目が、さらに心配に染まる。
クラウディアはそんなヒルデガルトの様子を見て「ノルベルト様、ジュリアス様。少し危機感をお持ちになってもよろしいのではなくて?」と言った。言われた二人は、神妙な顔持ちでフィルを見ている。
二人とて、それが解らぬ朴念仁でもない。
(危機感? どういう意味かな。危険な方ではないと思うのだけれど)
解っていないのは獲物である本人だけだ。実に危なっかしいと周囲は思ったことだろう。




