第1話:学院見学(1)
第2章も一人称文体を三人称文体に改稿しました。
朝の柔らかな陽光が、冬の終わりを告げていた。
水仙を思わせる清楚な白いドレスに、彼女は袖を通す。
「お嬢様、大変お似合いですよ」
ウルリケの顔に、陽射しで綻ぶ花のように柔らかい微笑みが浮かぶ。
「本当に? 大丈夫かしら?」
ヒルデガルトは姿見の前で、くるくると自分の姿を何度も確認している。
ヒルデガルトはウルリケの言葉を疑っている訳ではない。貴族の服にも慣れた。
だが、新天地に向かう不安で、ヒルデガルトはいつもより入念に自分の姿を確認していた。
そんなヒルデガルトの姿を見て、ウルリケが苦笑を浮かべた。
「お嬢様でも、ナーバスになることがおありなんですね」
鋼の精神が服を着て歩いているようなヒルデガルトである。
当然ウルリケにとって、こんな主人の姿は意外だった。
そんなウルリケの発言に、ヒルデガルトは不満げに文句を言う。
「わたくしだって、ナーバスになることぐらいありますわよ?」
その愛らしいくちびるを尖らせて反論していた。
こうしていれば、可憐な見た目の通り愛らしい少女である。
ウルリケはため息を吐いて、苦笑を浮かべながら主人を諭した。
「本日は、編入前の見学です。まだリハーサルですよ? もっと気持ちを落ち着けてください」
「はーい」
春の部屋に、気の抜けた返事が響いていた。
編入試験も無事終わり、新学期に合わせた編入日を今か今かと待ち侘びるヒルデガルトを見かね、ヴォルフガングが「そんなに待ち遠しいなら、一度、実際にグランツを見てくるといい」と、見学を許可したのだった。
書類上は既に、ヒルデガルトはグランツの生徒になっている。
なので、制服を着用してさえいれば、編入前の彼女でも敷地内に入ることが許される。
グランツの警備は厳しく、原則として部外者の立ち入りは禁止されていた。特に、建物内には生徒と教師以外は一切立ち入りを許されていない。生徒の制服着用は義務のようなものだ。
ヒルデガルトがダイニングに降りていくと、ヴォルフガングが既に彼女を待っていた。
ヒルデガルドの制服姿に目を止めたヴォルフガングは、嬉しそうに頷きながら「とてもよく似合ってるよ」と噛み締めるように伝えた。
可憐なヒルデガルトに、お世辞ではなくグランツの清楚な女子制服はよく似合っていた。
ヴォルフガングはこの制服をデザインした者を褒め称えたくて仕方がない気分になっていたくらいだ。
掛け値のない褒め言葉を受け取ったヒルデガルトも、頬を染めて喜んだ。
「ありがとうございます、お父様!」
彼女は会心の笑みを浮かべてお礼を述べた。
ヴォルフガングは、クラウディア襲撃事件以来、ヒルデガルトに対して酷く過保護になっていた。
以前はヒルデガルトから、「私も寄宿した方が良いのでしょうか?」と提案されても「お前がしたいようにすればいいよ」と優しく応える余裕があった。
それが今では「お父様、寄宿――」「だめだよ?」と被り気味に拒否していた。断固として自分の傍から離す気がない。そんな決意を感じさせていた。
なので、これからも毎日、ヒルデガルトとヴォルフガング親子は仲良く朝の食卓を囲むことができるのだ。
「クラウたちと同じ場所で寝起きする生活も、楽しそうですのに……」
ヒルデガルトが少し拗ねるように残念がっても、ヴォルフガングの意志は変わらなかった。
「お前が寄宿舎に行ってしまったら、私は心配で夜も眠れずグランツを徘徊しなければならなくなるよ?」
いきなりの徘徊老人宣言である。
夜な夜な学院を、ヴォルフガングが娘を求めて彷徨うのだ。
もちろん彼にそんな事をさせるつもりは、ヒルデガルトにはない。
「お父様ったら……まるで、片時も私を手元から離したくないような仰り様ですのね?」
「その通りだからしょうがないね」
(お父様? あれ? お父様ってこんなに束縛がきつい方でしたかしら?)
最近ではその溺愛振りに多少の違和感を感じることおあるヒルデガルトだった。
だが、愛される実感は彼女の心にこそばゆい。彼女の愛への渇望は未だ渇いたままだ。厭うことなど、彼女はしない。
「しょうのないお父様ですのね」
思わずクスクスと愛らしい笑みが零れていく。
「それでは、いってまいりますね。お父様」
ヴォルフガングにハグをしてから、ヒルデガルトは馬車に向かっていった。
****
ヴォルフガングは、愛娘の後姿が見えなくなるまで、その姿を追っていた。
我ながら何をしているのか、と自嘲することもある。
だが、あの日、あの事件で、自分がどれほど愛娘を愛おしいと思っているのかを自覚してしまった。
自覚してからは、愛おしさが日々加速していくようだった。実の子供より愛情を注いでいるのではないかとさえ思えた。
思えば、娘を持つのは初めてだった。自分が娘に甘い性格なのか、それがあの子だからなのかは、判断が付かなかった。
「……まったく、私は度し難い親バカになってしまったな」
自嘲の笑みが浮かぶ。
いつかあの子が花嫁として手元を離れるのを想像するだけで胸が張り裂けそうだった――元々、その後押しをするために引き取ったはずだというのに。
「嫁に出すのではなく、婿を取らせればあの子とずっと一緒に居られるな……」
そう独り言ちて、我に返り再び自嘲の笑みを浮かべた。
(我ながら、全く度し難いことだ)
****
グランツ中央魔術学院。通称グランツ。
領地の名を冠するこの学院は、ヴォルフガングが治める領地を代表する施設である。
各地から優れた若者を選抜し、魔術を中心に教養を高め、優秀な人材を輩出することを目的としたエリート養成機関だ。
高い魔力が事実上の必須能力であるため、ほぼ全ての生徒が貴族の子女で占められている。
人材育成に力を入れている王国の要ともいえる。
そこに通う人材を守るため、最高責任者であるヴォルフガングが数々の魔術を駆使した結界を施し、軍が守護する、「ともすれば王宮に忍び込むほうが容易い」とまで言われるほど堅牢な城でもあった。
「噂通りの警備……本当に厳重なんですね」
ヒルデガルトが馬車の中から学院の周辺を見るだけでも、物々しさにびっくりしている。
治安のいい伯爵領内で、グランツ一帯だけが異空間のように浮いていた。まるで戦時中だ。
彼女の精霊眼で見る世界でも、幾重にも魔力で編まれた結界が折り重なる様が解った。これを潜り抜けるのは至難の業だろう。
(ここに通うことになるのかー)
「ねぇウルリケ、通学するとき、帰りはどうしたらいいの?」
覗いていた窓から振り返り、ヒルデガルトがウルリケに質問を投げかけた。
伯爵邸からグランツまで、馬車で一時間足らずの距離だ。彼女なら歩いて帰れなくもないが、今のヴォルフガングがそれを是とする訳もない。
なのでウルリケにどうしたらいいのか尋ねているのだ。
「終業時間に間に合うように馬車を回します。お嬢様を回収するまで待機させますので、陽が落ちるまでに帰宅できる時間であれば、遅れても問題ありません。ですが、あまり遅くなれば旦那様が邸を飛び出して迎えに来てしまいかねませんので、程々にしていただけると助かります」
ウルリケは淡々と述べた。
(確かに、今のお父様なら、そうなりかねないわね)
家の事も執務のことも全て放り投げて、ヒルデガルトを求めて邸を飛び出てくるだろう。
馬車は正門を潜り、正面玄関傍の発着所で止まった。ウルリケに手を取ってもらいヒルデガルトは馬車を下りた。
「待っておりましたわ」
鈴の転がるような声にヒルデガルトが顔を向けると、クラウディアたちいつもの面々が出迎えていた。
クラウディア、ルイーゼ、エミリ、アストリッド。
彼女ら寄宿組が、休日の学院案内を買って出てくれていた。
「クラウ! ……ごめんなさい、お待たせてしまいました?」
ヒルデガルトが上目遣いで恐る恐る伺う――伯爵令嬢が公爵令嬢を待たせるなど、本来有ってはならないだろう。
「それがねー! クラウったら、あなたが待ち遠しくって、三十分も前から待機してたのよ!」
実に楽しそうな笑みを浮かべつつ、エミリが盛大にぶちまけた。
「ちょっとエマ! それは内緒にしてって言ったじゃない!」
クラウディアは真っ赤になってエミリを責め立てているが、エミリは「えー?」とか「しらないなー」などとぼけて躱していた。
その光景に戸惑いつつ、余計に待たせてしまったという事実に責任を感じたヒルデガルトの肩が落ちた。
「えっと、それなら、なおさらお待たせてしまいましたわね。もっと早く出発すればよかったですわ」
「気にしないでいいわよ。こちらが勝手に早く来てただけなんですもの――ほら、約束の時間丁度よ?」
ルイーゼが正面玄関傍にある時計を指さした。時刻は、十時を示している。
「そーそー。あたしらはクラウをからかって時間を潰してたから、別に退屈もしてないしね」
アストリッドがクラウディアの肩を抱きしめながら笑っていた。
クラウディア襲撃事件以来、五人の中はずっと深まっていた。
特にクラウディアが、四人に深く心を開くようになっていた。
四人も、それを歓迎していたのだ。
そんなクラウディアたちの様子を見てヒルデガルトが笑みを零していると、背後のウルリケから声がかけられた。
「ではお嬢様、予定通り、午後三時頃には馬車を待機させておきます。それまで存分に学院をお楽しみください」
ヒルデガルトが振り向き、ウルリケに応えた。
「わかりました! ありがとうウルリケ! 帰りもよろしくね!」
ウルリケは頭を下げた後、馬車に乗り込み邸へ戻っていった。
****
休日の学院は人気がなく、閑散としていた。
寄宿生とみられる人影が、時折目に入るくらいだ。
「こうしてヒルダもグランツの制服を着てると、いよいよ楽しみになってくるわね」
ルイーゼがヒルデガルトの制服姿を、しげしげと眺めていた。
今、彼女たち全員がお揃いの制服を着ている。
校舎内に立ち入るときは、制服の着用を義務付けられているからだ。
部外者をシャットアウトするのに、衣服で区別するのは簡単かつ確実な方法の一つだ。
「ヒルダ、あなた学院内で凄い噂になってるわよ?」
アストリッドとエミリがにやにやと笑いあっている。
それに対してヒルデガルトがきょとんと小首を傾げた。
「凄い噂? ですか?」
(そりゃあ、本来、あの夜会は私の交友関係を全力で知らしめるという目的だったわけだから、噂になっててもおかしくないと思うけれど……)
困惑しているヒルデガルトに、ルイーゼが語った。
「”とんでもない精霊眼持ちの子が編入してくるぞー”って、最近の学院内の話題はそればかりよ?」
(とんでもない?)
やはりきょとんとしたヒルデガルトが尋ね返した。
「クラウや殿下の友人で、クラウたちのお父様達とも親しい、くらいは予定通りですわよね?」
四人はニヤニヤと顔を見合わせている。
クラウディアは頬を染めて、恥ずかしそうに他の三人に隠れようとする素振りすら見せていた。
その様子にヒルデガルトは困惑していた。
「あんた、あの夜自分がした事、もう忘れちゃったのかい?」
アストリッドが少し呆れたように笑っている。
ヒルデガルトは再び小首を傾げるが、思い当る節はないようだ。
エミリが「しょーがないなー」と指折り説明を始め、他の三人も追従する。
「まーずー。腹黒クラウの目論見をいち早く看破して、私たちに的確な指示を飛ばして会場を掌握したでしょー?」
「在校生の中ではジュリアス様しか使えなかった索敵魔術も使ってたしー」
「大魔術師ヴォルフガング様にしか使えないファルケンシュタイン家の魔法『蜃気楼』も使って見せたわね」
「不意を突かれてクラウが絶体絶命だった時、己の危険も顧みずに身を挺して庇っても見せたわ」
「”学院の女王・クラウディア・フォン・ヴィンケルマン”を叱りつけても見せたよねー。最後は泣いて謝らせてたし」
「他人に興味を持たない事で有名なジュリアス様が、必死の形相で倒れたヒルダに駆け寄ってたのも目撃者多数だね」
「温厚な紳士で通ってるノルベルト様が、ヒルダを襲う暴漢に鬼の形相で殴りかかってたしー」
「いつも笑っているヴォルフガング様が、ヒルダのピンチに大激怒してるのを見たって人も何人かいるわね」
ヒルデガルトが慌てて両手で制止した。
「わたくしが直接関係ないものも混じってませんか?! というかあの日の結果は、みなさまの力を合わせたからこそ成し遂げられた快挙でしてよ?!」
(それに、私たちしか知らないようなことまでなんで噂に?!)
呆然としているヒルデガルトに、エミリがニヤニヤと追撃をかけてきた。
「あの夜の話題以外もあるよー」
「他にもあるんですの?!」
「編入試験は満点だしー」
それに対してヒルデガルトは反論した。
「え、それは……勉強すれば当然なのでは?! あれってそんなに難しくありませんわよ?!」
編入試験というのは、授業についてこれるか否かを判断するためのものなので、難易度は高くない。その学年を履修するのに問題なければ満点を取るくらいはよくある話だ。
ルイーゼがまた呆れた顔で指摘した。
「あなた、自分が学院入学前ってわかってる? いきなり最終学年に編入してきて満点を取るなんて、簡単にできることじゃないのよ?」
そう、ヒルデガルトはグランツ入学前である。最終学年のカリキュラム手前の編入試験を満点突破できる時点で異常なのだ。
ここまでがスパルタ教育過ぎて、ヒルデガルトの感覚は完全に麻痺していた。
既に基準が、遥か彼方に吹き飛んでいた。
もちろん、本人にその自覚はない。困惑した表情で皆の話を聞いている。
「ヴォルフガング様の弟子の中で一番優れてるって話だしー」
「現時点では僅差でそうかもしれませんけども?!」
ここでもヒルデガルトは反論した。
現時点では確かに一番かもしれないが、ジュリアスが猛追撃を見せている。
直に魔術師としてはジュリアスの方が腕は上になるだろう。
ヴォルフガングが魔術の天才と称えるだけあって、幅広い知識と魔術のレパートリーはヒルデガルドの比ではない。
ヒルデガルドは一芸にだけ特に秀でる、歪なタイプだ。
「編入にあわせてヴォルフガング様がグランツの結界を無茶苦茶強化してたしー」
「お父様なにしてらっしゃるの?!」
ヒルデガルドは思わず突っ込んだ。
過保護になったヴォルフガングは当然、愛娘の編入に備えて侵入者防止の結界をそれまでの倍ほど用意していた。
確実に王宮以上の魔法防御結界網が張られているのはグランツ内だけの秘密である。
「ノルベルト様はヒルダに貸したハンカチに保存魔術をかけて肌身離さず持ち歩いてるって話だしー」
「ちょっ?! ベルト様まで何してらっしゃるの?!」
(それってあの時のハンカチ?! そういえば、洗わずに返しちゃった……うっかりしてたな)
当然、ヒルデガルドの涙を吸ったハンカチである。
彼はそれに保存魔術をかけ、ヒルデガルドの気配が失われないようにしつつ大切に持ち歩いているという噂だった。
もちろん、年頃の乙女としてヒルデガルトは断固としてやめてもらう所存だ。
「クラウがヒルダの事を話すとき、頬を染めてとても嬉しそうにしてるって話もあるしー」
「クラウ?!」
ぐりんっ、とクラウディアが真っ赤になってそっぽを向いた。
(どういうこと?! 私たち、確かに仲が良いと思ってるけど、なんで頬を染めるの?!)
クラウディアは襲撃事件以来、すっかりヒルデガルドに懐いていた。
これはグランツに通う者だけが知る秘密である。
「うっかりヒルダの事を悪く言った生徒が、クラウ親衛隊にタコ殴りにあってたしー」
「クラウーッ?!」
クラウディアがルイーゼの陰に隠れた。
(タコ殴りはやりすぎじゃない?)
実はそれ以上もやっているのだが、闇に葬られているだけである。
ヒルデガルドはあまりの自分に関する噂の多さに眩暈を覚えていた。ふらついて壁に手をついている。
「ちょ、ちょっと情報過多じゃありませんこと……?」
学院編入前から相当、面白おかしく噂が流れている事を自覚した。
事実無根じゃないのも質が悪い。いや、むしろ事実の割合が非常に高い。
ここから噂が派生したらどうなるか――ヒルデガルトは考えたくもなかった。
エミリがヒルデガルドの肩をつんつん、とつついて尋ねた。
「ねぇねぇ、”肉体強化をしている殿下やノルベルト様を腕相撲で倒した”ってのも、本当?」
「……ええ、まぁ、嘘ではありませんが」
ヒルデガルドは意味のない嘘を言わない主義だ。どんな条件であろうとその二人に腕相撲で勝ったことがあるのは事実。
不本意だが、げんなりしながらも正直に答えた。
それを聞いたエミリの表情が、満面の笑みに代わった。
「これで明日の噂がまたひとつ増えたね!」
すかさずヒルデガルドが止めに入った。
「エマが噂をばらまいてたの?! 変なイメージが付くからやめていただけません?!」
エマはもう一度にっこり笑うと「殿下やノルベルト様がもう自分で言ってたよ?」とヒルデガルドに死刑宣告をした。
敗者自らの暴露である。説得力が高すぎる。
ヒルデガルドの身体は、がっくりと床に頽れていた。
(なんだか”可愛いお嫁さん”の夢が、遥か彼方にランナウェイしてる気がします……)
ヒルデガルドの目には、空の彼方へ逃げていく自分の花嫁姿が見えていた。
こんな噂がついた女にまともな相手が近寄ってくるかは甚だ怪しい。
グランツは貴族社会に通じている。この噂はそのまま社交界にも伝わっているだろう。
社交界の噂は、平民の世界にも降りてくる。
実に前途多難である。
「ほらほら、だいじょうぶ? ――人の噂なんて、そう長く続くものじゃないわ。等身大のヒルダを見れば、変な噂の方は忘れられていくわよ」
ルイーゼがヒルデガルドを助け起こしながら慰めていた。
「うう……ルイズー!」
ヒルデガルドはルイーゼに抱き着きながら泣いていた。
(私の学院生活、どうなっちゃうんだろう)




