緊急事態につき
それまで楽しかった動物園の雰囲気が、そこから先は一変する。
たった今、コンクリート製の囲いの中へ、男性が転落したのだ。
手すりから大きく身を乗り出して、ふざけていての転落だった。およそ十メートル下へと真っ逆さまだ。
その正面にいるのは、大きなサイが一頭。
転落時の衝撃に加え、男性がパニックになって大騒ぎしているのが、サイの関心を引いた。自分の縄張りに、部外者が入り込んでいる。
サイは草食だ。ライオンやトラのような肉食ではない。が、だからといって、転落した男性が安全とは限らなかった。
サイの体は、人間よりも大きいのだ。鼻の先には、角という武器もついている。突進でもしてきたら、人間なんて、ひとたまりもない。
限定された空間にいる、大きな動物と人間。まるで古代ローマのコロッセオのような状況だ。これから惨劇が始まる?
周囲にいたお客さんたちは青ざめた。
ところが、この場に居合わせた高校生が突然、ある行動を起こす。
彼が手に持っていたのは、動物園の地図だ。それを素早く丸めると、囲いの中、サイのすぐ近くへと投げ込んだ。
そして、仲間に向かって叫ぶ。
「サイの気を引くんだ!」
彼は高校で野球部に所属している。今日はチームメイトたちと、動物園に遊びに来ていた。
即座に、他の高校生たちも続く。
絶対に当てるわけにはいかない。そうすることでサイが興奮し、暴れ出すかもしれないのだ。
とはいえ、野球部なので普段から、ボールを投げる練習をしている。サイに当てないように投げ込むのは、彼らにとって難しいことではなかった。
それぞれが持っていた地図を丸めると、サイの近くに投げ込んでいく。
本来なら、この「動物のいる場所に、物を投げ込む」という行為、動物園では禁止している。しかし今は、緊急事態だ。人の命がかかっている。
「これを使って!」
野球部のマネージャーが、何かを大量に抱えてやって来る。
近くの無人販売所にあった「ハトのエサ」だ。
布袋入りのエサは、まるでお手玉のよう。これなら、丸めた紙よりも投げやすい。
高校生たちは投球を続ける。みんなで力を合わせて、サイの気を引くのだ。
そこに、動物園のスタッフが駆けつけてくる。
高校生たちの行動に驚いたが、すぐに彼らの真意に気づいて、
「そのまま続けて!」
そう言うと、転落した男性の救助を開始する。
一方、サイはきょろきょろしていた。こんなことは初めてだ。いくつもの布袋が、自分の周囲に降り注いできている。
しかし、縄張りに入り込んだ部外者のことを、忘れるまでには至らなかった。
なにせ大声で叫んでいるのだ。うるさくてたまらない。
黙らせようと、サイが前進を開始する。
転落した男性の救助は、まだ完了していない。高校生たちはあきらめずに、投球を続ける。
その時だった。
上空から何かが突撃してくる。
ハトの大軍だ。大量のエサを狙って降下してくる。
まさかの事態に、サイは激しく動揺した。いくら体が大きくても、多勢に無勢。向きを変えて逃げていく。
しばらくして、男性の救助が完了した。
高校生たちのお手柄だ。もしも彼らが行動を起こしていなければ、大惨事になっていたかもしれない。
「野球をやっていて、本当に良かったな」
口々に喜ぶ高校生たち。野球の練習で身につけた技術が、人命救助につながったのだ。
めでたし、めでたし。
次回は「深夜の新聞社」のお話です。




