第8話「風の止む時」
ボレアスの気配が消えてから、隊列に言葉はほとんどなかった。
誰もが、黙々と足を動かし続けていた。悲しみを口にする余裕さえ、この行軍は与えてくれなかった。
「班長、次の水場まで、あとどれくらいですか?」
技術者の1人が、疲れた声で尋ねる。カサンドラは地図から顔を上げないまま答えた。
「半日ってところね。……休憩は、そこまで我慢して」
声には、いつもの張りがなかった。それでも彼女は歩みを止めなかった。止まれば、悲しみに飲み込まれてしまいそうだったからだ。
隊列の中では、獣人の家族が小さな声で祈りを捧げていた。狼の獣人の母親が、幼子の手を握りながら囁く。
「あの風のお兄ちゃんが、私たちを守ってくれたのよ。忘れないであげてね」
幼子は分からないなりに、こくりと頷いた。誰もが、それぞれの形でボレアスを悼んでいた。だが、悲しみに立ち止まる時間は、この行軍には残されていなかった。
ウルクもまた、静かにカサンドラの傍らに歩み寄った。
「班長。あの若者の犠牲を、無駄にしてはならぬ」
「分かってる。……分かってるつもりよ」
カサンドラの声には、隠しきれない疲労が滲んでいた。ウルクはしばし沈黙し、それから静かに続けた。
「班長は、生命工学の専門家だったな。……ならば、我らエルフが元をたどれば人の手によって設計された存在だということも、当然ご存知だろう」
「ええ。魔力観測と環境適応のために作られた、って記録は読んだことがある」
「多くは語らぬ話だ。だが、我らの中には、作られた者としての自覚がある。それでも」
ウルクは、遠く山脈の稜線を見つめた。
「それでも、こうして誰かのために涙を流し、誰かの死を悼む心が、我らにはある。……いつか、我らエルフが人の枠を超えて、独りの生き物として立つ日が来るとしたら、それはきっと、今日のような夜の記憶から始まるのだろう」
カサンドラは、その言葉を静かに受け止めた。竜たちを設計した自分自身の手も、いつか同じ問いに向き合う日が来るのだろうか——そんな想いが、胸をよぎる。
「……そうなったらいいと、私も思う。作られた命だろうと何だろうと、心があるなら、その心の行く先まで縛る権利は、誰にもないもの」
ウルクは静かに微笑み、それ以上は何も言わなかった。ただ静かに寄り添うことだけが、今の彼にできることだった。
シューは、隊列の後方をずっと一人で歩いていた。誰も、彼女に声をかけられずにいた。
「シュー」
声をかけたのは、蜂蜜色の癖毛を揺らす土の申し子——パチャママだった。
「……無理に、笑わなくていいのよ」
「分かってる。分かってるけど……体が、勝手に前に進んじゃうの。止まったら、兄さんが本当にいなくなった気がして、怖いから」
シューは涙を拭いながら、それでも足を止めなかった。パチャママは何も言わず、ただ隣を並んで歩き続けた。
夜、野営地の隅で、カサンドラはヘルに声をかけられた。
「……無理をしているのは、お主だけではない」
闇の申し子である長女は、感情を表に出さない性質だった。それでも、その声には確かな気遣いが滲んでいた。彼女は無骨な仕草で、カサンドラの隣にそっと腰を下ろす。
「分かってる。でも、私が崩れたら、みんなが崩れる」
「だからといって、独りで抱え込む必要はない。……母さんが倒れたら、今度は私たちが困る」
珍しくその一言に、少しだけ体温のようなものが滲んでいた。ヘルはそれだけ言うと、静かに闇の中へ戻っていった。カサンドラは一人、焚き火を見つめながら、拳を強く握りしめる。
「……ごめんね、ボレアス。ちゃんと、悲しんであげる時間さえ、あげられなくて」
誰にも届かない呟きが、夜風に溶けていった。近くのテントでは、水の姉妹——テフヌトとセドナが、並んで静かに祈りの言葉を唱えている声が聞こえた。その傍らには、儚げなプラチナブロンドの末っ子——光の申し子エオスも寄り添うように座り、淡い光を灯しながら共に祈りを捧げている。
水は浄化と鎮魂を、光は魂を導く力を持つ。3人にとって、それは兄への手向けであると同時に、自分たちにできる唯一の弔いの形だった。
翌朝、セドナが淡々とした口調で、部隊全体に新しい指針を告げた。
「昨日の教訓を踏まえて、行軍規則を更新するわ。今後、単独での突出行動は禁止。どんな緊急時でも、必ず2人以上で対応すること」
「……ボレアスみたいな真似は、もうさせないってことね」
誰かが小さく呟いた。セドナは表情を変えないまま、それでも僅かに声を落として答える。
「英雄的な犠牲は、称賛されるべきものかもしれない。……でも、二度目はいらないの。私たちは、感傷じゃなく仕組みで、これ以上の喪失を防ぐわ」
「……冷たい言い方するのね」
ロゼが横から口を挟む。セドナは一瞬だけ視線を落とし、静かに答えた。
「冷たくしていないと、今は保たないの。悲しみは、あとでいくらでも流せるわ。今は、生き延びる方法を考える番よ」
その言葉に、カサンドラは静かに頷いた。悲しみを悲しみのままにせず、次への備えに変えていく。それが、これから彼女たちが歩む道だった。
行軍は、なおも続いた。
16日目、隊列はついに死の霧地帯を抜け、遠くに山脈の影を望む高台へと辿り着いた。切り立った稜線が、朝靄の向こうにぼんやりと浮かび上がっている。
「……あれが、目的地?」
シューが、震える声で呟いた。かつては兄と並んで見たであろう景色を、今は一人で見つめている。
「そうよ。あの山の奥に、この厄災の全ての元凶がある」
カサンドラは山脈を見据えながら、静かに答えた。彼女の胸の内には、悲しみと、それを上回る強い決意が同居していた。
「ボレアスの分まで、絶対に終わらせる」
その言葉に、シューが小さく頷く。9人の兄弟姉妹も、それぞれの覚悟を胸に、山脈を見上げていた。
漆黒の髪のヘルが、静かに口を開いた。
「……あの山を越えれば、いよいよ本番か」
「そういうことね。ここまでの犠牲を、絶対に無駄にはしない」
カサンドラの言葉に、ロゼも力強く頷く。
「私たち先遣隊も、道案内は完璧にこなすわ。任せて」
人間は使命のために、エルフは託された役目の意味を問い直しながら、竜は失った兄弟の分まで、ドワーフや獣人はそれぞれの誇りをかけて、同じ山を見上げていた。種としての在り方も、抱く想いの形もまるで違う。それでも今、彼らは同じ一つの方角を目指していた。
風のない、静かな朝だった。誰もが、それぞれの想いを抱えたまま、山脈へと続く道を見つめていた。まだ見ぬ脅威が、その奥に潜んでいることを、この時の彼らはまだ、正確には知らなかった。




