第7話「囮の疾風」
14日目。行軍はついに、死の霧と呼ばれる瘴気地帯の入り口に差しかかっていた。
ウルクたちの防衛戦から2日。犠牲を悼む間もなく、隊列は前進を続けていた。だが、その足取りは、日を追うごとに重くなっていく。
200人を超える一団は、疲労と緊張の限界に近づいていた。
「班長、後方に大規模な反応! 数が、これまでとは桁違いです!」
ロゼの部下の1人が、悲鳴に近い声で報告する。カサンドラは即座に地図と睨めっこしながら、退路を計算する。だが、逃げ場はどこにもなかった。
「……囲まれてる」
背後から迫る数千の影。左右は切り立った崖に阻まれ、進むべき道は1本きり。荷を抱えた技術者や家族連れが、この物量を振り切って先へ進むことなど、到底不可能だった。
「このままじゃ、後方から食い破られます!」
伝令の声に、隊列全体に動揺が走る。ロゼが牙を剥き出しにして叫ぶ。
「私たちが殿を務めるわ! でも、この数は……正直、時間稼ぎにしかならない!」
カサンドラが打開策を必死に探る中、風のように駆け出した影があった。
「兄さん……!」
シューが真っ先に気づき、声を上げる。銀髪の次男——ボレアスは、すでに何かを決めた顔をしていた。彼は荒野の彼方、崖の切れ目の向こうを見据えながら、瞬時に頭の中で計算を終えていた。
この物量を止める方法はない。ならば、引きつけて逸らすしかない。
「母さん、聞いてくれ」
「ボレアス……?」
「俺の足なら、あいつら全部を引きつけられる。数千体だろうが構わない。……逆方向に走って、全員の気を引く」
カサンドラは息を呑んだ。それがどれほど無謀な賭けか、彼女には痛いほど分かっていた。
「駄目よ、そんなの……! 一人で数千体って、正気じゃない!」
「正気じゃなくていい。今、正気の作戦なんて、どこにもないだろ」
ボレアスは、いつもの軽薄な笑みを浮かべた。だが、その目の奥だけは、ひどく真剣だった。
「シュー」
呼ばれた妹が、びくりと肩を震わせる。
「あとは頼んだぜ。……お前なら、みんなを守れる」
「そんなの……そんなの、嫌だよ! 兄さんだけ、行かせられない!」
シューが涙声で叫ぶ。ボレアスは妹の頭を、いつものように乱暴に、しかし優しく撫でた。
「泣くなよ、みっともない。……お前は、俺よりずっと強くなる。だから大丈夫だ」
「待て」
低く重い声で割って入ったのは、漆黒の翼を持つ長女——ヘルだった。周囲の闇がその怒りに呼応するように、一瞬、揺らめいて濃さを増した。
「一人で行かせるつもりか。……それは、兄としての意地か、それとも」
「意地だよ、姉さん。それ以上でも以下でもない」
ボレアスは即座に答える。筋骨隆々の長男スルトも、拳を握りしめながら前に出た。握った拳の隙間から、抑えきれない苛立ちのように、炎の申し子である証の熱が微かに立ち上る。
「なら俺が代わろう。図体だけなら、あいつらを引きつけるには十分だ」
「駄目だ、兄さん。あんたの火が必要なのは、こういう時じゃない。今、要るのは風の速さだ。あんたじゃ、逃げ切れずにすぐ囲まれる」
寡黙な次女テルスも、無言でボレアスの肩に手を置いた。その手が、微かに震えている。踏みしめた足元の土が、彼女の動揺を映すようにわずかに隆起していた。
言葉にならない想いが、そこにはあった。
「兄さん、駄目……! 私も、行く……!」
真紅の髪を振り乱し、アグニが叫ぶ。感情の昂りに呼応して、その髪の先端がちりちりと小さな火の粉を散らしていた。
「駄目だ、アグニ。お前の火は、爆発力はあっても足の速さじゃ俺に敵わない。今は、持久力じゃなく瞬発力が要る」
まだ幼さの残るその声に、儚げなエオスも涙を堪えながら首を振る。彼女の周りだけ淡い光が滲み、まるでその光までもが悲しみに震えているようだった。
「そんなの……そんなの、悲しすぎるよ」
10人の兄弟姉妹、その全員が、初めて経験する「別れ」を前に立ち尽くしていた。ボレアスは一人ひとりの顔を、ゆっくりと見渡す。
「みんな、ありがとよ。……でも、これは俺にしかできない役目だ」
ロゼが険しい表情で口を挟む。
「私たちも一緒に行くわ。1人より、大勢のほうが」
「駄目だ」
ボレアスは即座に首を振った。
「数を分散させれば、引きつけきれない。……それに、あんたたちにはあんたたちの役目がある。ここで、みんなを守ってくれ」
誰も、それ以上は止められなかった。カサンドラは唇を強く噛みしめる。
「……絶対に、生きて戻ってきなさい。それが、命令よ」
「善処するよ、母さん」
ボレアスは肩をすくめておどけてみせると、誰にも相談する間も与えず、荒野の逆方向へと疾走を始めた。風のようなその速さに、追跡していた影の群れが次々と進路を変え、彼の背中に食いついていく。
隊列から遠ざかっていく兄の姿を、9人の兄弟姉妹は、ただ震えながら見送ることしかできなかった。
「兄さん……」
その呟きは、誰にも届かないまま、荒れた風にさらわれて消えていった。
カサンドラは奥歯を噛みしめ、隊列に向き直った。
「全員、前進を続けるわよ! ボレアスの覚悟を、無駄にしない!」
誰も、涙を拭う暇すら与えられなかった。ただ前へ進むことだけが、今、彼らにできる唯一の弔いだった。
——荒野を単身で駆けるボレアスの背後には、見渡す限りの影の大群が続いていた。数千、いや、それ以上かもしれない。彼は歯を食いしばりながら、さらに加速する。
「はっ……生まれて10日そこらで、こんなに人気者になるとはな。贅沢な話だ」
軽口を叩く余裕すら、もう演技だった。息はとうに上がり、脚は鉛のように重い。それでも止まれば、そこで終わりだった。
やがて、隊列との距離が十分に開いたことを確認すると、ボレアスは足を止め、荒野の中心で振り返った。逃げ場のない、四方を囲まれた場所を、彼は自ら選んでいた。
「……ここまで来れば、十分だろ」
彼の体が淡く輝き始める。人の形を捨て、翼と鱗を持つ本来の竜の姿へ——18メートルを超える巨躯へと変貌していく。銀色の鱗が月光を反射し、荒野に一瞬、美しい光の柱が立った。
「さあ、来いよ。全部、俺が引き受けてやる」
押し寄せる影の大群へ向け、ボレアスは喉の奥から風の咆哮を解き放つ。竜巻のような暴風が荒野を薙ぎ払い、数百体の影が一瞬で塵と化した。だが、それでも群れは止まらない。
次々と押し寄せる影が、彼の巨躯に爪を立て、牙を突き立てていく。
1体を吹き飛ばせば、3体が群がる。3体を薙ぎ払えば、10体が群がる。それでもボレアスは、笑うことをやめなかった。
「まだだ……まだ、足りねえよ!」
傷だらけの巨躯から、ボレアスはさらに力を引き出していく。もはや個としての姿を保つことすら惜しむように、彼は自らの輪郭を解き放った。羽ばたきが加速するたびに、周囲の大気が唸りを上げて渦を巻き、荒野そのものが暴風域へと変わっていく。
彼はもう、風を操る竜ではなく、風そのものと化していた。
巨大な竜巻が荒野の中心に生まれ、周囲の影を次々と吸い込んでは引き裂いていく。土煙と塵が渦の中で舞い上がり、月明かりに照らされたその光景は、まるで荒れ狂う神話の一場面のようだった。遠く離れた隊列からも、その暴風の唸りが微かに聞こえていた。
嵐は、しばらくの間、荒野に君臨し続けた。
だが、時間が経つにつれ、その勢いは少しずつ、確かに弱まっていく。渦の直径が縮み、風切り音が低くなり、土煙の舞い上がる高さが下がっていく。それでも嵐は、最後の意地を張るように吹き荒れ続けた。
「まだ、だ……まだ、俺は……」
声にならない呟きが、風の唸りに紛れて消えていく。全身から血を流しながら、それでも彼は前へ、前へと風を吐き続けた。妹の顔を、育ての母の声を、隊列の誰かの笑顔を、脳裏に思い浮かべながら。
やがて、幾重にも重なった影の重みに、渦の勢いがゆっくりと衰えていく。それでも、最後の力を振り絞るように、風はもう一度だけ強く吹き荒れた。
「……上出来だろ、これくらい」
その一言を最後に、荒野を支配していた暴風が、潮が引くように静かに収まっていく。渦が消え、土煙が晴れ、やがて完全な静寂が戻った時——そこにはもう、何も残っていなかった。
風のような命は、嵐が止んだその瞬間に、静かに尽きていた。彼が稼いだ時間は、隊列を確実に安全な場所まで導くのに十分なものだった。
遠く離れた場所で、シューは不意に膝から崩れ落ちた。
風の申し子である彼女には、大気に満ちる風の流れを肌で感じ取る力がある。その流れの中に、ずっと感じ続けていた兄の気配——せわしなく荒野を駆け巡る、あの独特の風の乱れが、今、ふっと掻き消えたのが分かった。
「……兄さん?」
呼びかけても、答えはなかった。二度と、返ってくることのない呼びかけだった。
——お前を置いていったりしない。
あの日の約束が、脳裏を過る。守れなかった、その約束の重さに、シューは声もなく泣き崩れた。誰にも聞こえない呟きが、荒野の風に溶けていく。
始原の竜たちが迎える、最初の兄弟の死だった。




