第6話「足手まといの誇り」
ヨーロッパを発ってから、まだ6日しか経っていなかった。
飛空戦艦アーク・ノアが、赤茶けた大地の一角に降り立った。かつて「ブラジル」と呼ばれていた土地の、その沿岸に近い一角。旧帝国が築いた植民都市の外縁部だった。
タラップを降りた先に広がっていたのは、想像していたよりも遥かに荒涼とした光景だった。乾いた大地に、朽ちた植生の残骸が点々と転がっている。旧帝国の駐留部隊が築いたという簡易拠点も、今にも崩れそうなほど傷んでいた。
「本当は、もっと内陸まで飛べればよかったんだが」
操縦席から降りてきたヨナスが、苦い顔で山の方角を見やった。
「あの山脈——厄災の源があるという内陸部は、気流が異常に荒れていてな。それに、あまり空から近づきすぎれば、向こうに気取られる恐れもある。安全に降りられるのは、ここが限界だった」
「……つまり、ここから先は、自分の足で行けってことね」
「そういうことだ」
「……思ったより、厳しい状況みたいね」
カサンドラの呟きに、出迎えた駐留部隊の隊長が苦い顔で頷く。
「ここ数ヶ月で、瘴気の濃度が急激に上がっています。物資も半分近くを失いました。……正直、援軍が来るとは思っていませんでした」
「この拠点だけで、どれくらいの人がいるの?」
「この周辺一帯の入植地を合わせれば、およそ30000人。旧帝国が長年かけて築いてきた、南米最大の植民都市です」
カサンドラは目を見張った。想像していたよりも遥かに大きな、守るべきものがそこにあった。
30000人。かつての世界の人口を思えば、あまりに小さな数字だった。今世紀に入ってから続いた異常気象と食糧危機で、世界の人口はすでに大きく目減りしていた。
あの技術も、本を正せば、その危機を打開するための希望だったはずだ。それが、この惨状を生んだ元凶になるとは、誰も予想していなかった。
「援軍というより、道連れかもね」
カサンドラは軽口を叩きながらも、内心では厳しい表情を隠せずにいた。100人を超える技術者と家族、そして10人の子供たち。この荒野を越え、アマゾン奥地の山脈——厄災の大元があるという内陸部まで辿り着かなければならない。
「拠点から目的地まで、どれくらいある?」
「徒歩で、2週間はかかるかと。……道中には、瘴気の濃い地帯もあります」
駐留部隊の隊長は、疲れた表情でそう告げた。長年の孤立した防衛戦で、彼らもまた限界に近づいているのが見て取れた。カサンドラは彼の肩に軽く手を置いた。
「よく、今まで持ちこたえてくれたわね。……ここからは、一緒に戦いましょう」
隊長は驚いたように顔を上げ、それから小さく頭を下げた。
出発の準備が整った頃、ヨナスがタラップの上からカサンドラを呼び止めた。
「俺はここで引き返す。……無事に、務めを果たせよ」
「ええ。ヨーロッパのことも、頼んだわよ」
「言われるまでもない」
ヨナスは短くそれだけ答え、軽く手を上げてアーク・ノアへと乗り込んでいく。巨大な艦体が土煙を巻き上げながら浮上し、来た方角——ヨーロッパへ向けて飛び去っていった。その背中を見送りながら、カサンドラは小さく息を吐く。
もう後戻りはできない。ここから先は、自分たちの足で進むしかなかった。
行軍の準備が進む中、エルフの技術者グループを率いる老齢の男——ウルクが、静かにカサンドラの前に進み出た。彼は魔力観測を専門とする研究者で、常に冷静な佇まいの中に、深い仲間想いを秘めた男だった。
「班長。我々のことは、気にかけずともよい」
「……どういう意味?」
「我らエルフは、足が速いとは言えぬ。荷も多い。もし行軍の足並みが乱れるようなら、迷わず我らを置いていけ」
カサンドラは即座に首を振った。
「そんなこと、させるわけないでしょ! 全員で、絶対に生きて辿り着く」
ウルクは静かに微笑んだだけで、それ以上は何も言わなかった。
行軍が始まる。荒野を進む隊列は、想像以上に長く、そして脆かった。ドワーフの職人たちが重い工具箱を背負い、獣人の家族が幼子の手を引き、翼を持つ天狗の技術者たちが荷を分け合って運ぶ。
誰もが、限界近くまで足を動かし続けていた。
狼の獣人一家の母親が、疲れ切った様子で足を止めた幼子を、そっと背負い上げる。
「もう少しだから、頑張ろうね」
幼子は小さく頷き、母の背中にしがみついた。その光景を横目に見ながら、カサンドラは拳を握りしめる。この一人ひとりの重みを、自分は背負っているのだと、改めて思い知らされていた。
その夜、初めての野営の焚き火を囲みながら、シューがふと思い出したように尋ねた。
「そういえば母さん、まだ全員の名前の由来、聞いてなかったよね」
「……ああ、そうだったわね」
カサンドラは、懐かしむように目を細めた。神話の話になると、つい饒舌になってしまうのは、彼女の昔からの癖だった。
「テフヌトは、潤いと水を司る女神。テルスは、大地の女神そのものの名前。パチャママは、遥か南の大陸で崇められてきた大地母神――母なる大地、っていう意味そのままの名前よ」
「……なんか、私とテルス姉様、2人とも土の神様、被ってない?」
パチャママが首を傾げる。
「被ってるように見えて、実は違うの。テルスは大地そのものの力強さ、パチャママは大地の恵み、母としての優しさ。同じ属性でも、体現するものが少しずつ違う――それも、狙って選んだのよ」
その説明に、テルスとパチャママは顔を見合わせ、小さく笑った。
「エオス、あんたの名前は、夜明けを告げる女神。誰よりも先に、新しい1日の光を連れてくる存在」
「……夜明け。素敵な名前だね」
エオスが、はにかむように微笑む。
「シューは、古い国の空気の神様。目には見えないけど、あらゆる場所に満ちてる風そのもの、っていう意味があるの」
「……空気そのもの? なんか、地味じゃない?」
「地味なんかじゃないわよ! 空気がなきゃ、誰も生きられないでしょ。一番地味に見えて、一番欠かせないものなの」
ムッとした顔のシューに構わず、カサンドラは10人全員の顔を、焚き火越しにゆっくりと見渡した。
「一つ一つ、ちゃんと意味を選んだの。……あんたたちが、自分の名前を好きになってくれたら、それだけで嬉しい」
「へえ、母さんって、こういうの語り出すと止まらないよね」
アグニが、からかうように笑う。
「うるさいわね。乙女の趣味に口を出さないの」
カサンドラが唇を尖らせると、兄弟姉妹たちの間に、束の間の笑い声が広がった。長い行軍の疲れを、その夜だけは、少しだけ忘れることができた。
3日目の夜、最初の襲撃があった。
瘴気に紛れて忍び寄っていた小型の魔獣の群れが、寝ずの番の警戒網に突っ込んでくる。ボレアスとシューが即座に応戦し、大事には至らなかったものの、荷馬車が1台失われた。
「大丈夫、誰も死んでない。……それだけで、今日は良しとしよう」
カサンドラは自分に言い聞かせるように呟いた。
7日目、瘴気の濃い湿地帯に差しかかると、行軍速度が一気に落ちた。呼吸器を傷めた者が続出し、テフヌトが結界で空気を清浄化しながら進むしかなかった。
その中に、ひときわ苦しそうな咳を繰り返す親子がいた。母親は、幼い娘を背負いながら、自分の足取りもおぼつかない様子だった。
「……大丈夫?」
テフヌトが歩み寄り、そっと親子の周りにも清浄な空気の薄膜を広げる。娘の咳が、少しずつ収まっていった。
「ありがとうございます……本当に」
「無理しないで。辛くなったら、いつでも呼んで。……お嬢ちゃん、名前は?」
「……ミナ」
消え入りそうな声で答える少女に、テフヌトは柔らかく目を細めた。
「ミナちゃんね。私はテフヌト。何かあったら、いつでも私を頼っていいから」
少女は少しだけ、安心したような表情を見せた。それから行軍が終わるまでの数日、テフヌトは何かと理由をつけては、その親子の様子を見に行くようになっていた。誰に頼まれたわけでもない、彼女自身の選んだ役目だった。
「このペースじゃ、2週間じゃ済まないかもしれません」
技術者の1人が疲れた声で報告する。カサンドラは唇を噛みながら、地図を睨み続けた。
10日目、今度は大型の個体を含む群れが、隊列の側面から奇襲をかけてきた。アグニとスルトが前線で食い止めるが、支援スタッフの中から怪我人が出る。
誰もが、限界に近づいていた。奇襲の後、負傷者を担架で運ぶ列の最後尾を、スルトが黙々と支えていた。誰よりも力自慢の彼は、疲れ果てた技術者や、怪我をした難民を、代わる代わる背負って歩いていた。
「兄さん、無理しないでよ。少しは休んで」
声をかけたアグニに、スルトはにやりと笑ってみせる。
「馬鹿言え。俺の取り柄は、この馬鹿力だけだ。頭のいい奴らみたいに、繊細な仕事はできねえ。……なら、こういう時くらい、目一杯働かなきゃ割に合わねえだろ」
「……兄さんらしい」
アグニは呆れたように笑いながらも、その背中を頼もしく見つめていた。難民の1人が、スルトの背に負われながら、消え入りそうな声で礼を言う。
「……ありがとう、ございます」
「気にすんな。俺にできることなんて、これくらいのもんだ」
豪快な笑い声とは裏腹に、その足取りは誰よりも堅実で、誰よりも重い荷を背負い続けていた。誰かを守るという行為に、難しい理屈は要らない――それが、スルトなりの生き方だった。
「班長、後方の荷運び班、また遅れてる! このままだと隊列が分断されるよ!」
「くっ……いったん停止! 全体で速度を合わせて!」
だが、立ち止まればその分、目的地への到着は遅れる。速度を落とせば、足の遅い者たちを守れる。速度を上げれば、より早く安全な拠点に辿り着ける。
どちらを選んでも、何かを犠牲にする決断を迫られていた。
「隊列が伸びすぎています! 後方との距離が……!」
伝令の声に、カサンドラの表情が険しくなる。
「くそっ……」
12日目の夜、これまでで最大の危機が訪れた。瘴気の濃い地帯から、影の群れがこちらへ向かっているという報告が届いたのだ。
「数は……相当な数です! 隊列の後方、荷運びの一団に接触する恐れがあります!」
カサンドラが飛び出そうとした、その時だった。
「わしが行く」
声を上げたのは、ウルクだった。彼はドワーフの職人たちを数人引き連れ、静かに武具を手に取る。
「班長、お願いだ。あんたと子供たちは、先を急いでくれ。我らはここで、影を食い止める」
「駄目よ、そんなの……!」
カサンドラは即座に首を振り、荒野へ視線を走らせる。全員を切り捨てる選択肢だけは、絶対に取りたくなかった。
「ヘル、パチャママ! ウルクたちについて、後方の防衛に回って!」
「承知した」
漆黒の翼を広げたヘルと、蜂蜜色の髪を揺らすパチャママが、即座に後方へと駆けていく。ウルクが驚いたように振り返った。
「班長……こんな戦力を、我らのために割いてくれるのか」
「あんたたちを見捨てる選択肢は、最初からないの。……だから、絶対に死なないで」
ウルクは一瞬、言葉を失い、それから深く頭を下げた。
後方に駆けつけた2人が影の群れへ切り込もうとした、その時だった。荒野の奥、月明かりの中から、獣のような影の集団が猛然と駆けてくる。
「な……何だ、あれは! 敵の増援か!?」
「いや……違う! あれは……!」
先頭を駆けていたのは、鋭い金色の瞳を持つ狼の獣人の女——ロゼだった。その背後には、30人ほどの獣人の戦士たちが続いている。彼らは本隊より一足早く南米入りし、現地の環境に適応しながら偵察と地ならしを進めていた先遣隊だった。
爪と牙で影を切り裂きながら、ロゼが叫ぶ。
「遅くなってごめんなさい! 気配を辿ってきたわ!」
ヘルとパチャママ、そしてロゼたちの連携によって、影の群れは瞬く間に押し返されていく。それでも、押し寄せる数は多く、隊列の最後尾を守っていた技術者の何人かが、守り切れずに倒れていった。カサンドラのもとに届いた報告には、いくつかの犠牲の名が刻まれていた。
それでも、ウルクをはじめとした大多数は、無事に隊列へと帰還を果たした。
「……すまない。全員は、守り切れなかった」
ウルクが肩を落として詫びる。カサンドラは静かに首を振った。
「あんたのせいじゃない。……みんな、よく戻ってきてくれた」
彼女はロゼへと向き直り、深く頭を下げた。
「助かったわ、ロゼ。……先遣隊としての仕事、完璧よ」
「完璧じゃないわよ。何人か、守れなかった。……でも、これ以上は死なせない。約束する」
ロゼは唇を噛みながら、それでも真っ直ぐにカサンドラを見つめた。30人の獣人戦士たちが加わり、遠征隊はついに200人を超える規模となっていた。頼もしい仲間が、また一つの群れとして加わった瞬間だった。
失われた命への悲しみと、それでも守り抜けた者たちへの安堵。相反する2つの感情を抱えたまま、隊列は再び、暗い荒野を進み始めた。




