第5話「反撃の和音」
荒野に静寂が満ちていた。
極大の和音が消し飛ばした魔獣の残滓が、灰のように風に舞っている。城壁の上でも、荒野の防衛線でも、誰もがまだ、今しがた目にした光景を信じきれずにいた。
「……勝った、のか?」
誰かの掠れた呟きに、遅れて歓声が上がり始める。兵士たちが抱き合い、難民たちが涙を流し、砦全体が歓喜に包まれていく。だが、その輪の中心にいたカサンドラだけは、まだ表情を緩めていなかった。
「班長? どうかしたんですか、この状況で……」
「……静かに」
彼女は荒野の中心、灰に覆われた戦場を凝視していた。何かが、おかしい。長年の勘が、警鐘を鳴らしていた。
指揮所の隅では、ソフィアもまた、演算球体を険しい表情で睨みつけている。
「……この静けさ、気に入らんのじゃ」
そして、その予感は的中する。
「な……なんだこれ……!」
見張りの兵士が悲鳴じみた声を上げる。灰と化したはずの魔獣の残滓が、瘴気の中でうごめき始めていた。一つ、また一つと、輪郭を取り戻していく。
まるで何事もなかったかのように、あの禍々しい影が、再び形を成していく。
「馬鹿な……あれだけの光で、跡形もなく消え去ったはずだぞ!」
「くそっ……くそっ! 一体どうすりゃ、こいつらは死ぬんだ!」
兵士たちの怒号にも似た叫びが、次々と指揮所に届く。歓喜に沸いていた城壁が、水を打ったように静まり返っていく。人の姿に戻っていたヘルが、荒野の中心で信じられないという顔で立ち尽くしていた。
「……そんな。あれだけの力を注ぎ込んだのに」
「……終わらない」
誰かの呟きが、重く戦場に落ちた。
カサンドラは唇を噛み、瞬時に思考を切り替える。「勝つ」という前提そのものが、間違っていたのだ。
「アリス先輩。聞こえてますか?」
「……ええ。今の光景、こっちでも観測してた」
端末越しのアリスの声も、硬く強張っていた。
「消し飛ばしたはずの個体が、瘴気から再構成されてる。……これは、局地的な問題じゃない。もっと根深い、何かがある」
「分かってます。……でも今は、それを考えてる場合じゃないんです」
カサンドラは荒野を見渡した。灰の中から蘇り始めた魔獣たちが、再び密度を増していく。あの極大の一撃をもってしても、この地を守り切ることはできない——その事実が、重く彼女の肩にのしかかった。
「班長、次の詠唱の準備は……」
「無理よ」
カサンドラは即座に首を振った。
「あの子たちの身体は、まだ何日も戦える耐久性を持ってない。連発すれば、今度こそ壊れる。……それに、たとえ何度撃てたところで、この調子じゃきりがない」
彼女は目を閉じ、深く息を吐いた。長年、神話の英雄譚を愛読してきた彼女の頭に浮かんだのは、勝利の物語ではなかった。生き延びるための、撤退の物語だった。
「……方針を変える。『勝つ』のは、もう諦めるわ」
「班長……!?」
驚く部下たちに、カサンドラは静かに、しかしはっきりと告げる。
「この厄災の大元は、南米大陸にある——アリス先輩がそう睨んでる。私は10人の子供たちと、志願する技術者・支援スタッフを連れて、そこへ向かう」
あまりに唐突な、あまりに遠大な提案に、指揮所が凍りついた。ヨナスが眉をひそめる。
「南米だと……? なぜそんな、地球の反対側まで。それに、民はどうする?」
「民はここに残す。あんたとアリス先輩、ソフィア先輩で、この地を守り抜いて」
「では、お前が連れて行くという技術者たちは、一体何人になる?」
「まだ確定じゃないけど……志願してくれた技術者だけで100人は超えると思う。エルフやドワーフ、獣人、天狗——いろんな種族が手を挙げてくれた。家族も連れて行くとなれば、たぶん数百人規模になる」
ヨナスは眉を上げた。想像していたよりも遥かに大所帯だった。
「そんな大人数、一体どうやって運ぶ気だ」
「それに、勝算はあるのか。たった10人と、寄せ集めの技術者だけで」
「一人きりじゃないわ。南米には、まだ旧帝国の駐留部隊が残ってる。現地と連絡を取って、協力してもらう」
カサンドラの脳裏にあったのは、アリスから伝え聞いた、南米大陸に眠るという謎の施設の話だった。確証はまだない。それでも、他に縋れる糸はなかった。
「私に、後方を任せるということか?」
「はい。あんたたちなら、きっとこの魔獣を封じ込める方法を見つけられます。……民を守りながら、時間を稼いでほしいんです」
端末越しに、アリスの声が届く。
「……分かったわ。幸い、高濃度のナノマシン環境下では魔獣の活動が鈍る、という報告が技術院にはすでにある。それを足がかりに、瘴気そのものを封じ込める壁——さらなる高濃度の障壁技術を、ソフィアと2人で詰めてみせる」
「ありがとうございます、アリス先輩」
「今回の一撃、今のところの解析では数週間は保つはず。……その間に、必ず仕上げる」
「輸送手段は? 数百人規模の一団を、部隊ごと地球の裏側まで運ぶ計画がすでにあるのか?」
「……ないわ。今から作る」
「船か、それとも空路か。護衛は。補給は。……無謀という言葉すら生温いな」
ヨナスは絶句した。無謀とも言える計画に反論しかけて、しかし彼はすぐに言葉を飲み込んだ。誰かが行かなければ、この厄災は終わらない。
それならば、どれほど無謀でも、可能性のある方へ賭けるしかない。
「……分かった。輸送船の手配は私がやる。私自身は、ここに残って民とアリスたちを守る」
彼は短くそれだけ答え、指揮所を後にした。指揮所の隅で黙っていたソフィアが、演算球体を胸元に引き寄せながら、静かにカサンドラに歩み寄る。
「……本当に、それでいいのか。あの子たちに、また無理をさせることになるんじゃぞ」
「分かってる。それでも、他に道がないの」
カサンドラの声には、迷いと覚悟が同時に滲んでいた。ソフィアはしばらく黙って彼女を見つめ、それ以上は何も言わなかった。
カサンドラは荒野に立ち尽くす10人の子供たちを見つめた。まだ足元もおぼつかない様子で、それでも気丈に立っている。
「ごめんね。まだ休ませてあげたいのに」
「大丈夫。……母さんについていく」
長女ヘルが、静かに、しかし力強くそう答えた。他の9人も、次々と頷く。その健気な様子に、カサンドラは込み上げるものを堪えながら、小さく笑った。
「……ありがとう。あんたたちは、本当に優しい子に育ったわ」
「輸送は、俺の艦を使え」
口を挟んだのはヨナスだった。
「旧帝国が誇る飛空戦艦——『アーク・ノア』。マギアレギウスを丸ごと格納できるほどの巨大な艦だ。数百人規模でも、居住区にまだ余裕を持って収容できる。南米まで送り届けたら、俺はそのままこの艦でヨーロッパに戻る」
カサンドラは小さく頷いた。
「……頼りにしてる。ありがとう、ヨナス」
こうして、終わりの見えない撤退行が始まろうとしていた。生存者たちを未来へ繋ぐための、長く過酷な旅の第一歩が。
この時、南米への同行を選んだ100人あまりの技術者と、その家族たち。彼らが遠い未来、あの大陸に根を下ろす亜人種たちの祖となることを——そして、ここに残る同胞たちの多くが、その未来を見ることなく終わることを、この場にいる誰も、まだ知らなかった。




