第4話「六柱の祈り」
救出された難民たちの間に、束の間の安堵が広がっていた。だが、その安堵は長くは続かなかった。
「班長、倒したはずの魔獣が……また動き出しています」
報告を受けたカサンドラの表情が、みるみる険しくなる。瘴気の底から、切り裂かれたはずの影が再び蠢き始めていた。倒しても倒しても、数は一向に減らない。
「……やっぱり、あれだけじゃ足りないか?」
カサンドラは端末を叩き、温めていた秘策を呼び出す。
「『六柱の祈り』の準備に入るわ。あんたたちの力を全部合わせた、最大出力の一撃よ」
10人の子供たちが顔を見合わせる。まだ実戦に出て1日と経っていない体に、更なる無理を強いることになる。それでも、誰も否とは言わなかった。
だが、準備を進める中で、研究チームから衝撃の報告が上がる。
「班長……男性体の子たちが、詠唱の共鳴に一切反応しません」
「……どういうこと?」
カサンドラ自身が、険しい表情で研究データに目を通す。彼女の指が、遺伝子設計図の一部で止まった。
「……共鳴器官は、女性体にしか実装していない。男女で、体の設計思想そのものを変えてあるの」
「……どうして、そんな風に?」
誰かの問いに、カサンドラは一瞬、言葉を選ぶように黙り込んだ。
「いつか、この子たちが人間と同じように、家族を持てるように。……そのために、あえて男女の身体を違う形に設計したの。まさか、それが戦闘の場でこんな形に響くとは、正直、想定してなかった」
重い沈黙が場を満たす。青みがかった深い髪を結い上げた四女——セドナが、指先で規則的なリズムを刻みながら、静かに補足した。
「六柱というのは、6つの属性のこと。水と土だけは、姉妹2人がかりで1本の柱を担うの。……つまり今回は、わたしたち8人全員での総力戦になる」
その場にいた誰もが、言葉を失った。生体構造上、男性体は和音の共鳴そのものに参加できない——それは、命を懸けて前線を支えてきたスルトやボレアスたちにとって、あまりにも残酷な事実だった。生まれてまだ1日の彼らに、早くも突きつけられた「役割の線引き」だった。
重い沈黙を破ったのは、筋骨隆々の長男——スルトの豪快な笑い声だった。
「はっ……そうかよ。なら話は簡単だ」
「兄さん……」
燃えるような真紅の髪を持つ七女、アグニが心配そうに兄を見上げる。スルトはその頭を乱暴に、しかし優しく撫でた。
「俺たちは、お前らを守り抜くだけだ。それだけの話だろうが」
「……ああ。俺も異存はない」
鋭い目つきの銀髪の次男——ボレアスが肩をすくめながら頷く。誰に強制されたわけでもなく、10人の兄弟姉妹は、この瞬間に己の役割を静かに、そして完全に受け入れていた。カサンドラはその様子を、複雑な表情で見つめていた。
まだ何も知らないはずの子供たちが、当然のように運命を背負おうとしている。その健気さが、彼女の胸を締め付けた。
「……ごめんね。ごめん」
「謝るなよ、母さん」
スルトが軽く笑って返す。「母さん」——まだ誰にも呼ばせたことのなかったその一言に、カサンドラは思わず目を伏せた。
「ねえ、母さん。わたしたちの名前って、どういう意味があるの?」
儚げなプラチナブロンドの末っ子、エオスがふと尋ねる。カサンドラは少し照れたように笑った。
「……この世界のあちこちに伝わる神話から取ったの。ヘルは北の国の、死者の国を治める女神。スルトは、その国の伝承にある炎の巨人。ボレアスは、遥か南の国の北風の神様。アグニは、また別の国で崇められた火の神。セドナは、氷の海を統べる女神……みんな違う土地の、違う時代の神様の名前よ」
「……なんで、そんなにバラバラなの?」
銀髪の次男ボレアスが不思議そうに尋ねる。カサンドラは荒野の彼方を見つめながら、静かに答えた。
「一つの国、一つの神話だけに頼りたくなかったの。あんたたちには、世界中のあらゆる場所の、あらゆる時代の人たちの願いを背負ってほしかった。……あんたたちが、特定の誰かのものじゃなく、みんなのものであるように」
その言葉に、10人の子供たちはしばし黙り込んだ。燃えるような真紅の髪のアグニが、ぽつりと呟く。
「……悪くない、名前だね」
カサンドラは小さく笑って頷いた。それぞれの名前に込められた願いを、この子たちがいつか自分の言葉で語れる日が来ることを、彼女は静かに祈っていた。
やがて、荒野の向こうから新たな地響きが近づいてくる。休む間もなく、戦いの時が迫っていた。
「詠唱には数分かかる。……この子たちを、絶対に死なせるな」
カサンドラの声に、ヨナスが低く応える。
「残存のマギアレギウスも投入する。……たった2体で支えきれる敵じゃない」
傷ついた鋼鉄の巨人たちが、再び戦線に立つ。城壁の砲兵連隊も弾薬をかき集め、砲列を敷き直していく。
「隊列を組め! 何か途轍もないことが始まる……今度こそ、守り抜くぞ!」
誰に言われたわけでもなく、兵士たちはそう悟っていた。8人の姉妹が、荒野の中心に円陣を組んで座り込む。漆黒の長髪に血のような赤い瞳を持つ長女——ヘルを先頭に、詠唱の座が静かに整えられていく。
円陣を組む直前、寡黙な次女テルスが、腰を下ろす場所の土を、無意識に足先でそっと平らに均していた。誰に教わったわけでもない、彼女だけの小さな儀式めいた仕草だった。その隣で、蜂蜜色の癖毛を持つ五女パチャママが、少し不安げに両手で自分の頬を包み込む。
「……大丈夫かな、うまくできるかな」
「大丈夫。あんたたちなら、できる」
姉のテルスが、短くそれだけ言って頷いた。パチャママは、その一言に少しだけ表情を緩めた。
「上等だ。……行くぞ、ボレアス!」
「ああ!」
筋骨隆々のスルトと、鋭い目つきの銀髪の次男ボレアス。前線に立てるのは、この2人だけだった。彼らの左右に、修復されたマギアレギウスの残存部隊と、砲兵連隊、歩兵の盾列が展開していく。
押し寄せる魔獣の大群を前に、人と竜が入り混じった最後の防衛線が敷かれた。
スルトの拳が地を割り、マギアレギウスの斬鎚がそれに続く。ボレアスが風のように駆け抜け、紙のように影を斬り伏せていく隙間を、レールガンの斉射が埋めていく。円陣の中心では、8人の声が徐々に重なり合っていく。
「まだだ……まだ終わらせるかよ!」
傷つき、血を流しながらも、誰一人として持ち場を離れなかった。円陣の中では、常に冷静な三女テフヌトが浄化の障壁を張り続け、共に座る姉妹たちを瘴気から守っている。
「もう少し……もう少しだから、耐えて!」
テフヌトの声に、円陣の中の少女たちが小さく頷く。浄化の障壁を張り続けながら、テフヌトはふと眉間に指を当てた。ストレスがかかると無意識に出る、彼女の癖だった。
だが、それもほんの一瞬のこと。すぐにその手を結界の維持へと戻し、表情を引き締め直す。詠唱の座では、エオスが震える声で旋律を紡ぎ続けていた。
「……怖い。でも、やめない」
隣に座るセドナが、その手をそっと握った。8人の喉から紡がれていたのは、言葉と呼ぶには美しすぎる、澄んだ歌声だった。一人一人の声が少しずつ重なり合い、いつしか一つの旋律へと編み上げられていく。
そして、ついにその時が訪れる。
「……完成した」
ヘルの短い一言と共に、円陣の中心から光の柱が立ち上る。8人の体が輝きに包まれ、人の形を捨てて膨れ上がっていく。翼が広がり、鱗が煌めき、20メートルを超える巨躯へと姿を変えていく——それでも、歌はやまなかった。
完全な竜となった8体の喉から、それぞれの色を帯びたブレスが吐き出される。ヘルの闇は低く沈むような重低音、アグニの炎は駆け上がるような高らかな咆哮、テルスとパチャママの土は大地を震わせる太い旋律、テフヌトとセドナの水は澄み渡る旋回する調べ、シューの風は鋭く裂ける高音、そしてエオスの光は、それら全てを一つに束ねる柔らかな残響として重なっていく。
不協和音のようにぶつかり合っていたはずの6つの音色が、エオスの光に導かれるように少しずつ溶け合い、やがて一つの荘厳な和音へと収斂していく。まるであらゆる楽器が一斉に鳴り響く終曲のような、重く、美しく、それでいて有無を言わせぬ響きだった。
空が裂けたかと思うほどの光が、天から地上へと降り注ぐ。極大の奔流が、押し寄せていた魔獣の大群を、文字通り一瞬にして消し飛ばした。
「な……何なんだ、これは……」
城壁の上で見ていた兵士の1人が、声にならない声を漏らす。轟音と閃光が去った後、荒野に広がっていたのは、見渡す限りの静寂だった。あれほど埋め尽くしていた影の群れが、跡形もなく消え去っている。
それでも、和音の残響だけが、しばらく耳の奥に木霊し続けていた。
指揮所のモニター越しにその光景を見つめていたヨナスも、しばし言葉を失っていた。
「……我々が何十年もかけて開発した兵器が、あの子たちの前では児戯に等しいということか?」
自嘲めいた呟きが、彼の口からこぼれ落ちる。隣に立つアリスは、何も答えなかった。ただその瞳には、安堵と、そしてかすかな恐れが同時に宿っていた。
誰も、言葉を発せなかった。歓喜すら、この光景の前では追いつかなかった。ただ呆然と、その圧倒的な光の残滓を見つめることしかできなかった。
「……勝った、のか?」
誰かの掠れた呟きが、静まり返った荒野に小さく溶けていった。指揮所の隅、ソフィアだけが、その光景をどこか複雑な表情で見つめ続けていた。
「……恐ろしい力じゃな。あれだけの出力を、まだ生まれて間もない体で……」
誰に聞かせるでもない呟きが、演算球体の明滅にだけ拾われて消えていった。荒野の中心に立ち尽くす8人の少女たちの姿を、ソフィアの赤銅色の瞳は、いつまでも追い続けていた。
少し離れた場所で、シューが自分の名前を、何度も小さく呟いていた。
「シュー……風の神様、なんだ、私」
「気に入らないのか?」
声をかけたのは、ボレアスだった。同じ風属性を持つ兄妹として、2人はどこか気安い空気を纏っていた。
「ううん、逆。……気に入りすぎて、ちゃんと名前に負けないようにできるか、ちょっと不安になっただけ」
「贅沢な悩みだな」
ボレアスは、シューの頭を軽く小突いた。
「まあ、心配すんな。俺とお前、同じ風属性だ。困ったことがあったら、いつでも兄貴に頼れ」
「……兄さんこそ、無茶ばっかりしないでよ。さっきだって、老人庇って危なかったじゃない」
「あれくらい、どうってことねえよ」
ボレアスは軽く笑い飛ばしたが、シューは納得のいかない顔で、その袖をきゅっと掴んだ。
「約束して。……無茶しすぎて、私を置いていったりしないって」
その真剣な声に、ボレアスは一瞬だけ言葉に詰まった。それから、いつもの飄々とした調子で頷く。
「――ああ、約束だ」




