第3話「母の呼び声」
3日前。
誰にも告げず、カサンドラは秘密裏に動き始めていた。
安全靴を鳴らして駆け込んだ地下施設の奥、まだ調整の途中だった10基のカプセルを前に、彼女は震える指先で起動端末を叩いた。
「……ごめんね。本当は、あと半年は寝かせてあげたかった」
赤茶けた無造作な髪をかき上げ、カサンドラは苦く笑う。
「班長、まだ承認が下りていません! せめて上に一報だけでも……」
「時間がないのよ。この数日の戦況、あんたも見たでしょ」
「……はい。このままじゃ、東の地は」
「もう保たない。規則を待ってたら、間に合わなくなる。神話の英雄だって、いつも規則の外側で世界を救ってきたのよ」
「起きて。まだ完璧じゃないあんたたちに、無理を言うのは分かってる。それでも、あんたたちしか、この地を救えない」
10基のカプセルが、順に淡い光を灯し始める。培養液の中で眠っていた幼い顔立ちが、微かに眉を寄せる。まだ名付けたばかりの名前を呼ぶたび、カサンドラの声は少しずつ震えを増していった。
「スルト、アグニ、テルス、パチャママ、テフヌト、セドナ、シュー、ボレアス、ヘル、エオス……ごめんね。もう少しだけ、力を貸して」
命令書もなく承認もなく、たった一人の女の独断で、人類最後の切り札が目を覚まそうとしていた。
装甲車両に押し込まれるようにして運ばれる10人の子供たちを見送りながら、カサンドラは自分の判断が正しいのか、最後まで確信を持てずにいた。それでも、他に選べる道はなかった。
——そして今。
ヨナスの部隊が壊滅的な撤退を続ける中、指揮所には絶望だけが積み上がっていた。
「城門の外はもう民で溢れています! これ以上は収容しきれません……!」
「砲弾も尽きた。増援も来ない。……いったい、どうしろというんだ?」
誰かの呟きに、誰も答えられなかった。誰もが、もうこの地に打つ手はないと悟り始めていた。
その時だった。
地の底を這うような重低音——3日前から途切れ途切れに聞こえていたあの足音が、ついに城壁のすぐ外まで迫っていた。
「な、何だ、あれは……!」
見張り台の兵士が声を上げる。荒野の向こうから土煙を巻き上げて駆けてくるのは、鋼鉄の巨人ではなかった。見た目はほとんど人と変わらない、ただ背に一対の翼と、腰から伸びる尾だけを持つ10人の男女。
先頭を駆ける漆黒の長髪の女——ヘルが、影のような速さで魔獣の群れへ躍りかかる。
「隊列を崩すな! これは……敵か、味方か!?」
誰かが叫んだ、その答えを示すように、ヘルの爪が魔獣の1体を一閃した。裂けた影が瘴気となって崩れ、二度と再生しない。
10人の若者たちが、翼と尾だけを竜に残した姿のまま、荒野を縦横に駆け巡る。単騎の力だけで見ても鋼鉄の巨人に劣らぬ、あるいはそれを上回る膂力だった。だが真に恐ろしいのは、その連携だった。
「パチャママ、そっちに30体流す! 受けてくれ!」
「任せて、お兄ちゃん!」
赤髪の大男——スルトが拳を地に叩きつけると同時に、褐色の肌の少女が両手を大地に押し当てる。土が唸りを上げて隆起し、瞬く間に鉄壁の防壁が築き上がった。押し寄せていた影の群れが、まとめて壁に叩きつけられて動きを止める。
「隙あり!」
その脇を、銀髪の青年が風を纏って駆け抜けていく。ボレアスの姿がぶれたかと思うと、進路上の影がまとめて薄く切り裂かれ、瘴気となって崩れ落ちた。
「テフヌト姉さん、こっちお願い!」
「ええ——エオス、力を貸して!」
青い髪の少女が放った水の奔流に、光を帯びた末の少女の力が重なる。絡みつく瘴気ごと敵を押し流すその一撃に、逃げ惑っていた民衆から驚きの声が上がった。
まだ調整の終わっていない体は、時折ぎこちなく軋んだ。それでも彼らの息の合った連携は、これまで見たどんな兵器よりも圧倒的だった。
逃げ惑っていた難民の列に迫っていた影の一団を、褐色の肌の少女——パチャママが両腕で薙ぎ払う。母親に庇われていた幼子が、呆然とその背中を見上げた。
「大丈夫、もう平気だから」
少女は振り返ることなく、短くそれだけ言い残して次の敵へと駆けていく。
その傍らでは、風のような速さで駆ける少年——ボレアスが、逃げ遅れた老人を片腕で抱え上げながら、笑い混じりに叫んでいた。
「危なっかしいなぁ、爺さん! しっかり掴まってろよ!」
冗談めかした声とは裏腹に、彼の足取りに一切の迷いはなかった。
「兄さん、また無茶して……」
「無茶のうちに入らねえよ、これくらい」
すぐ隣を並走する妹のシューが、呆れたように、それでいて誇らしげに兄を見つめている。
指揮所に駆け込んできたカサンドラが、震える息を吐きながら通信端末を握りしめる。
「……起きてくれたのね。ありがとう、みんな」
彼女の声に応えるように、荒野の中心でヘルが両腕を広げた。その体が淡く輝き、みるみるうちに膨れ上がっていく。人の形を捨て、20メートルを超える竜へと変貌する巨躯。
続いて、他の9人も次々と同じ変化を遂げていく。
城壁の上から見上げる兵士たちが、言葉を失って立ち尽くした。
「……あれが、本当に人間だったのか?」
ヨナスが呆然と呟く。義手を握る手から、いつもの苛立ちの金属音は聞こえなかった。
10体の巨竜が、それぞれの喉から光を紡ぎ始める。炎、氷、雷、風——各々の色を帯びた息吹が、束になって影の大群へと叩き込まれた。荒野が眩い光に包まれ、押し寄せていた魔獣の先鋒が、まとめて塵と化していく。
歓声というには弱々しい、掠れた声が城壁のあちこちから上がった。3日間、誰も上げることのなかった声だった。
カサンドラは端末の向こうのアリスへ、震える声で告げた。
「見ましたか、アリス先輩。これが、私の子供たちです」
通信の向こうで、アリスがしばらく沈黙した。
「……無許可の起動よ、カサンドラ。上が知ったら、あなた降格じゃ済まないわ」
「分かってます。それでも、あの子たちがいなきゃ、今頃この街は全滅でした」
「……ええ。見たわ」
アリスの声には、咎める響きはもうなかった。
まだ調整不十分な体で、まだ名前を呼ばれる回数さえ数えるほどしかない子供たちが、この日、人類が初めて目にする希望の形として荒野に立っていた。彼らはまだ、自分たちがこれから何と戦い、何を背負っていくことになるのかを知らない。ただ育ての親の声に応え、目の前の命を救うことだけを、体が覚えたばかりの本能のままに実行していた。
だが、その光景を誰よりも複雑な表情で見つめていた者がいた。城壁の隅、演算球体を静かに漂わせたまま、ソフィアはただ黙って、その巨大な影たちを見上げていた。
「……あの子たち、まだ何も知らんじゃろうに」
傍らを通りかかったアリスが、その呟きに気づいて足を止めた。
「何が言いたいの、ソフィア?」
「……何でもない。ただの独り言じゃ」
ソフィアはそれ以上を語らず、演算球体を胸元に引き寄せた。まだ調整の終わっていない体で、まだ物心もつかぬうちに戦場へ引きずり出された10人の子供たち。その事実に想いを馳せる者は、この場にはソフィア以外、誰もいなかった。
荒野に立ち尽くす10体の巨竜と、その足元で泣きながら抱き合う難民たち。歓喜に沸く城壁の上で、ソフィアの赤銅色の瞳だけが、まだ何かを憂うように、遠い戦場を見つめ続けていた。




