第2話「鉄巨人の落日」
第2防壁が破られたという報せから、まだ10分と経っていなかった。
指揮所の奥、司令官席に座っていた男がゆっくりと立ち上がった。ヨナス・グラム大佐。45歳、軍人風に刈り上げた髪、右腕と左目に埋め込まれた鈍い金属光沢——旧帝国軍が誇る空挺師団アークノアを狩る戦闘部隊の長であり、この砦に駐留する全戦力の指揮権を持つ男だった。
窓の外には崩れかけた大聖堂の双塔が、朝靄の向こうにかろうじて輪郭を残していた。かつて『ドイツ』と呼ばれていた土地の中心に何百年もかけて積み上げられたケルンの大聖堂——それは今や、砦の外郭を兼ねる廃墟に過ぎない。
「……皮肉なものじゃな。中世の石塔と、近未来の兵器が並んで戦っておる」
ソフィアが窓の外を見つめながら呟いた。21世紀を生きた人類の誰一人として、あれほどの科学技術を積み重ねた末にこんな光景を目にすることになるとは、想像すらしていなかっただろう。——一体、何が起きているのか。
その答えを知る者は、この砦には誰もいなかった。
「……時間じゃな。ここが最後の賭けじゃ。最後の抵抗をしよう」
ソフィアの呟きに、ヨナスは無言で頷いた。義手が握りしめられ、小さな金属音を立てる。苛立ちか、それとも覚悟か。
おそらくその両方だった。
「本国預かりの主力を出す。第1から第4中隊、総勢62体。……温存する意味はもうない」
その言葉に、周囲の士官たちが息を呑んだ。
「本国預かりの主力を、ですか……本当に、よろしいのですか!?」
これまで前線に出ていたのは、この砦に常駐する中隊規模の駐留部隊に過ぎない。ヨナスが今口にしたのは、旧帝国軍が国家の存亡を賭けて温存していた、正真正銘の主力だった。
端末の前で数字を追っていたアリスも、初めて顔を上げてヨナスを見た。
「……勝算は?」
「3割」
「楽観的すぎるわ」
「分かっている。だが、出さなければ勝算はゼロだ」
ヨナスは短くそれだけ答え、指揮所を後にした。アリスは何も言わなかった。ただ端末に向き直り、62体という数字を、これから流れるであろう被害想定の式へと組み込んでいく。
格納庫の巨大な扉が、軋みながら左右に開いていく。
「おい、見ろよ……あれが本国預かりの主力か!?」
「三年間、一度も投入されなかった連中だ。……頼むぞ」
中から現れたのは、これまで前線で戦っていた機体とは明らかに一線を画す威容だった。両肩に多連装の砲塔を備えた重装型、拳ほどもある弾を連射する速射砲を両腕に据えた制圧型、そして先頭には儀礼用の紋章を纏った指揮官機——ヨナス自身が搭乗するその機体は、右手に据えた巨大な斬鎚をゆっくりと持ち上げた。
「全機、出撃!」
62体の鋼鉄の巨人が、大地を震わせながら荒野へと進軍していく。その足音は、もはや個々の駆動音ではなく、一つの巨大な生き物の心臓の鼓動のように聞こえた。かつて大河が流れていたはずの涸れ川の跡を越え、小山が移動するように、部隊は影の群れへと接近していく。
最初の数分は、圧倒的だった。
「効いてる、効いてるぞ! これなら……!」
斬鎚が影の群れを一薙ぎするたびに、数十体がまとめて吹き飛ぶ。速射砲の弾幕が着弾するたびに、地面が抉れるほどの爆炎が上がる。重装型が肩の砲塔を斉射し、着弾地点を丸ごと更地に変えていく。
制圧型の連射砲が唸りを上げ、群れの密度を薄めていく。3日間、なすすべもなく押され続けていた戦線が、初めて前進を始めていた。指揮所のモニターを見つめる兵士たちの間から、押し殺していた歓声が漏れ始めた。
「押し返しています! このまま第2防壁まで奪還できるかと!」
伝令の声に、指揮所の空気がわずかに緩んだ。ソフィアもまた、演算球体を明滅させながら、期待を隠しきれない表情で戦況を見つめている。
だが、アリスの指先だけは止まらなかった。被害想定の式に、まだ見えない変数が残っている——その勘が、彼女の手を動かし続けさせていた。
果たして、その均衡は長く続かなかった。
「隊長、群れの奥に何か……これまでにない反応です!」
群れの奥、これまで前線に姿を見せなかった一回り大きな影が、のっそりと動き出す。それが放つ瘴気の密度は、これまでの比ではなかった。空気そのものが黒く澱み、周囲の機体の魔導回路が悲鳴のような異音を発し始める。
「第7号機、出力低下! 制御が……」
通信の声が、途中で途切れた。第7号機は、まだ20歳になったばかりの新人搭乗員が任された機体だった。出撃前、緊張した面持ちで敬礼していたその若者の顔を、アリスは覚えていた。
「くそ、動け! 動いてくれ……!」
「隊長、隣の13号機が応答しません! 誰か、誰か応答してくれ!」
「膝が……膝が言うことを聞かない、逃げられ……」
悲鳴じみた通信が、次々と重なって指揮所に流れ込んでくる。一体、また一体と、鋼鉄の巨人たちが糸の切れた人形のように膝を折っていく。あれほど圧倒的だった斬撃も砲撃も、瘴気に触れた端から力を失い、ただの鉄塊へと変わっていく。
指揮官機だけは辛うじて機能を保っていたが、周囲を固めていたはずの部隊が次々と沈黙していく光景を、ヨナスは歯を食いしばって見つめるしかなかった。
「……嘘でしょう」
ソフィアの声が震えていた。演算球体の明滅が、赤く点滅する警告色に染まっていく。彼女の赤銅色の瞳が、荒野に転がっていく鋼鉄の巨躯を、一体、また一体と数えるように追っていた。
「私たちの技術は……何のためにあったの?」
誰も、その問いに答えられなかった。
「隊長……我々は、何と戦っているんですか!?」
若い士官の問いにも、ヨナスは答えられなかった。何十年もかけて磨き上げてきた科学と技術の粋が、理解不能な脅威の前に、なすすべもなく崩れ落ちていく。それは単なる敗北以上の、何か根源的なものを引き裂くような光景だった。
アリスの端末に、更新された数字が表示される。生存率、4割を切った。彼女は唇を噛み、通信を開いた。
「ヨナス、退きなさい! これ以上は損失が想定を超えるわ」
通信の向こうで、ヨナスが長い沈黙の後、震える声で命じた。
「……全機、退却。残存部隊は指揮官機を中心に、防御陣形を維持しつつ後退せよ」
「ですが、まだ半数近くが……!」
「これ以上は、無駄死にだ!!」
ヨナスの声には、これまでにない苦さが滲んでいた。国家の存続を何よりも優先してきた男が、初めて「守れなかった」という事実と向き合わされた瞬間だった。義手が、これまでで一番大きな金属音を立てた。
生き残った機体が、仲間の残骸を踏み越えながら砦へと引き返してくる。その歩みは、出撃した時とは比べ物にならないほど重く、遅かった。
だが、退却する巨人たちを見捨てまいと、城壁に残っていた砲兵連隊が一斉に支援砲撃を開始する。レールガンの斉射が退路を切り開き、歩兵部隊が対魔獣用の擲弾を投げ込みながら援護に走る。一瞬、指揮所にわずかな希望の色が戻った。
「このまま第2防壁まで、部隊を収容できます!」
「まだだ、気を抜くな。……嫌な予感がする」
だがその声も、長くは続かなかった。砲撃で怯んだはずの影の群れが、まるで痛みを感じないかのように、再び密度を増して押し寄せてくる。砲兵連隊の弾薬も、間もなく底を突いた。
歩兵たちの盾列が、次々と呑み込まれていく。
希望が積み上がった分だけ、その崩壊は指揮所の空気をより重く沈めた。
「本国からの増援は……!」
誰かが叫んだ問いに、ヨナスは答えなかった。答えられなかった、というほうが正しい。本国預かりの主力は、今しがた失われたばかりだった。
次の増援があるとすれば、それは早くとも半月後——今、この砦にとっては、永遠にも等しい時間だった。
城門の外には、逃げ込む場所を失った民が溢れていた。第2防壁の向こうはもう安全ではなく、かといって荒野へ逃げ出せば魔獣の餌食になるだけだ。行くも地獄、留まるも地獄——そのどちらかしか、もう選べなかった。
指揮所に、深い沈黙が落ちた。
人類が積み上げてきた科学と技術の粋を尽くした兵器が、理解不能な脅威の前に完全敗北を喫した瞬間だった。生き残った兵士たちの顔に、これまでとは違う種類の絶望が広がっていく——もはや、自分たちの手には有効な一手が残されていないという絶望が。
この壊滅的な敗北は、3日前にすでに動き出していたカサンドラの決断が間違っていなかったことを、皮肉にも裏付けていた。だが、それを知る者はこの場にはまだ、誰もいない。
アリスは端末の画面に映る、70パーセントを超えた損耗率の数字を、ただ静かに見つめていた。数字は嘘をつかない。だが、その数字の一つ一つが、名前を持つ誰かの命だったという事実だけは、どれだけ計算を重ねても消えてはくれなかった。
窓の外、崩れかけた大聖堂の双塔の向こうから、それまで誰も気に留めていなかった重低音が、地の底を這うようにして響いてきた。規則正しい、いくつもの足音のような響き。
「……今の音、何だ?」
「敵の増援でしょうか。それとも……」
誰もその正体を言い当てられなかった。ただ、確かに何かがこの砦へ近づいてきている——その予感だけが、疲れ切った指揮所の空気に、新たな緊張をもたらしていた。




