第11話「旋律の芽吹き」
山脈内部への進軍が、翌朝早くに再開された。
この山のどこかに、すべての元凶――ファウストという男が、今もマスターコンピュータを操っている。衛星画像で捉えたあの塔が、その中枢であることは、もはや疑いようがなかった。魔獣という名の災厄も、瘴気に沈んだ大地も、元をたどればすべてこの山に行き着く。
カサンドラは行軍を再開する前、一同を集めてそのことを改めて言葉にした。
「みんな、忘れないで。あたしたちが今から登るこの山に、すべての諸悪の根源がいる。……ここを絶たない限り、何度でも同じ地獄が繰り返される」
「殺すのか」
誰かの問いに、カサンドラは一瞬、言葉を切った。
「……できるなら、生きて捕らえたい。何百万、何千万人を巻き込んだ責任を、あの男自身の口から語らせてやりたいの。……甘い考えかもしれないけどね」
世界中を恐怖に叩き落とした災厄の正体が、たった一人の男の暴走だった――その事実だけでも、皮肉な話だった。しかも、その男が振るった力は、かつて世界を救うはずだったナノマシン技術、そのものの応用に過ぎない。人類を救う希望として生まれた技術が、たった一人の手で、人類を滅ぼしかけている。
カサンドラの声には、怒りとも憐れみともつかない、複雑な響きがあった。誰も、その言葉に異を唱えなかった。夜通し祈るように空を見上げていた者たちも、日が昇ると同時に隊列を組み直し、黙々と斜面を登り始める。
前日までの死の霧地帯とは違い、空気そのものは澄んでいた。それでも、誰の表情にも安堵の色はない。むしろ、澄んだ空気の向こうに何が潜んでいるか分からない不気味さが、隊列全体を静かに包んでいた。
先導するロゼが、時折足を止めては地形を確認する。獣人特有の鋭敏な鼻が、微かな異臭を捉えているようだった。少し離れた岩場では、シューが我慢できずに大きな岩によじ登り、周囲を見渡していた。
高いところに登るのが、昔からの癖だった。
「……あんまり、いい匂いのしない山だね」
軽口めかしたその声にも、いつもの張りはなかった。
行軍が中腹に差しかかった時、隊列は一度足を止めた。カサンドラは地図を広げ、これから先の隊形を改めて確認する。
「ここから先は視界が悪くなる。ヘルとパチャママは本隊の護衛、セドナは後方で難民たちの誘導。ウルクは引き続き魔力観測。……シュー、アグニ、エオスの3人は、右手の尾根から側面警戒。何かあったら、無理せず本隊に合流して」
「了解」
3人は短く頷き、それぞれの持ち場へ散っていく。何度も繰り返してきたやり取りだった。誰も、これがいつもと違う1日になるとは思っていなかった。
だが、行軍が再開してすぐ、ロゼの報告通りの光景が視界に飛び込んできた。
切り立った岩肌に、等間隔で並ぶ黒い人影。魔獣特有の唸り声も、獲物を見つけた際の興奮した動きもない。ただ、微動だにせず、こちらを見下ろしている。
「……本当に、見張りだ」
誰かが呟いた声が、やけに大きく響いた。
「あんな配置、自然発生した個体にできるわけがない……」
セドナが険しい表情で呟く。ウルクは目を細めながら、魔力観測器を構えた。
「……魔獣にしては、統率が取れすぎている。あれが本当に、ただの野生の個体だとしたら――」
言葉の続きを、誰も口にしなかった。誰もが、同じ不安を抱えていた。隊列全体が、無言のまま息を潜めて進み始める。
その静寂を破るように、見張りの影がついに動いた。合図でも送るように一斉に姿勢を変えたかと思うと、岩の合間という合間から、魔獣の群れが堰を切ったように溢れ出した。
「来る! 各自、持ち場を死守!」
カサンドラの号令が響く。ヘルとパチャママが本隊の前面に立ちはだかり、セドナが難民たちを後方へ誘導する。当初の隊形通りに、誰もが動いた。
だが、側面警戒に回っていたシュー、アグニ、エオスの3人には、想定以上の数が押し寄せていた。まるで、最初からその3人だけを狙い澄ましたかのように。
「……本隊と分断されてる!?」
シューが振り返るが、後方の尾根はすでに崩れた岩と魔獣の壁に塞がれていた。合流しようにも、道そのものが失われている。
「無理に戻ろうとしたら、全滅する。ここで凌ぐしかない!」
アグニの叫びに、シューとエオスが息を呑む。3人だけで抱えるには、あまりに数が多すぎた。じりじりと後退しながら、エオスの背が岩肌に触れる。
もう、後がなかった。
「……こうなったら」
シューが低く呟いた。
「竜化するしかない。それしか、この数を捌く方法がない」
これまで極力抑えてきた完全竜化。姿を晒せば、山肌の見張りにも位置を悟られる。それでも、選べる道は他になかった。
「――やるよ」
シューが動きやすさ優先の斥候装束の襟元を握りしめ、短く告げる。金髪のショートヘアが逆立つように揺れたかと思うと、彼女の輪郭が淡い銀白の光に包まれた。装束が弾け飛ぶように解け、代わって現れたのは、細く俊敏な体軀を持つ竜の姿。
全身を覆う鱗は、風にそよぐ雲のような、淡い銀と水色の光沢を帯びていた。
「あたしも……!」
アグニの真紅の長髪が、燃え上がる炎そのもののように逆立つ。彼女の輪郭が深紅の光に包まれると、より大柄で逞しい竜へと姿を変えていく。鱗の1枚1枚が、まるで熾火のように橙と深紅の光を明滅させていた。
最後にエオスが、震える手で自分の肩を抱いた。儚げなプラチナブロンドの髪が、淡い金色の光に溶けるように輝きだす。ほっそりとした体軀の竜へと変わったその鱗は、真珠のような乳白色に、微かな虹色の光を宿していた。
竜の姿になってなお、魔獣の群れは怯まなかった。牙が、爪が、次々と鱗を掠める。防戦一方の中、体力も魔力も、確実に削られていく。
「……ダメ、押し切れない」
エオスの声が掠れる。絶体絶命の中、彼女の喉の奥から、あの夜口ずさんだ旋律が、無意識のうちにこぼれ出た。
「……歌えば、いいの?」
誰に問うでもない呟きだった。だが、その旋律に、アグニがふと反応する。
「――知らねえよ。けど、やってみるしかねえだろ」
アグニが声を重ねる。深紅の鱗を震わせるその咆哮は、腹の底に響くラッパの旋律のようだった。シューもまた、戸惑いながらも声を合わせる。
銀白の鱗から放たれる音色は、まるで笛のように高く澄んで響いた。そこに、乳白色の鱗を持つエオスの澄んだ声が重なる。誰かに教わったわけではない、3人だけの即興の合唱だった。
最初は不協和音にしか聞こえなかったそれが、次第に一つの調べへと収斂していく。3体の喉の奥で練り上げられた光が、それぞれの色を保ったまま渦を巻き始めた。深紅と銀白と乳白色――3つの色が絡み合いながら混じり合い、やがて淡い虹色を帯びた一筋の奔流へと編み上がっていく。
放たれたブレスが目の前の魔獣の群れを吹き飛ばした瞬間、荒野に、これまで誰も見たことのない色の光が咲いた。奔流はそのまま尾根を這い上がり、周辺の岩肌に張り付いていた見張りの影ごと、まとめて薙ぎ払っていく。等間隔に並んでいたはずの黒い人影が、次々と光に呑まれて崩れ落ちていった。
静寂が戻る。
「……今の、何?」
呆然と呟くシューに、アグニも困惑気味に自分の手を見つめた。
「わかんねえ。けど……悪くない、気分だ」
「……まあ、うまくいったから、よしとしよ?」
シューが誤魔化すように片目を瞑ってみせる。誤魔化す時に出る、彼女の癖だった。
そこへ、崩れた岩を乗り越えて、ヘルとパチャママが駆けつけた。
「無事か!?」
ヘルの声に、3人はへたり込みそうになりながらも頷く。パチャママが妹たちの体を抱きしめるように確かめた。
「馬鹿。無茶しすぎ……でも、よく持ちこたえたね」
姉たちの姿に、張り詰めていたものが、ようやく緩む。エオスだけが、まだ胸を押さえながら、小さく息を弾ませていた。3人の中で、何かが確かに繋がった感覚――言葉にできないその余韻を、誰もすぐには口にできなかった。
駆けつけたカサンドラが、周囲を見渡す。先ほどまで不気味に立ち尽くしていた見張りの影は、この一帯からは一つ残らず消え去っていた。
「……周辺の見張りは、一掃できたみたいね」
安堵と緊張の入り混じった声で、カサンドラは呟いた。だが、視線を山の頂へ向けた瞬間、その表情がわずかに硬くなる。遥か遠く、塔へと続く稜線の彼方に、まだいくつかの小さな影が、微動だにせず佇んでいるのが見えた。
この一帯を守っていた分だけが、今、排除できたに過ぎない。
それでも、目の前の道は開けた。
「――全員、隊列を整えて。ここからは突入態勢を組むわよ」
カサンドラの号令に、隊列が一斉に動き出す。装備を確認し合う声、頷き合う視線。恐怖はまだ拭えなくとも、確かな手応えが、隊列全体に新しい熱を灯していた。
「あんたたち、今の力、覚えておきなさい。無意識にできたことを、今度は意識してやれるようにする。きっと、これから先も必要になる」
シュー、アグニ、エオスの3人は顔を見合わせ、それぞれに小さく頷いた。開かれた道の先、塔はまだ遠く、山の奥へと一行は力強く歩を進めていく。




