第10話「愛の余白」
山脈への進軍を翌日に控えた夜、カサンドラはテントの中で、眠りについた娘たちの顔を一人ずつ見て回っていた。
傷だらけの頬。土と血にまみれた髪。それでも眠る顔だけは、年相応の幼さを残していた。
末の娘エオスの前で、カサンドラは足を止めた。プラチナブロンドの髪が、月明かりに淡く光っている。彼女は小さな寝息を立てながら、微かに口元を緩めていた。
夢の中で何を見ているのだろう。
「……ごめんね」
声にならない呟きが、闇の中に溶けていく。彼女は端末を取り出し、アリスへの通信を繋いだ。ヨーロッパとの時差はおよそ4時間。
向こうはまだ、夕刻を過ぎたばかりのはずだった。
「アリス先輩、まだお時間大丈夫ですか」
「ええ、平気よ。……そっちは、明日いよいよ本番ね」
「はい。まずは、そちらの状況を聞いてもいいですか」
「本国からの追加増援が、ようやく到着したわ。それと、高濃度環境下での魔獣の鈍化現象を利用した、簡易的な抑制フィールドの目処も立った」
「……よかった。それなら、しばらくは持ちこたえられそうですね」
「ええ、当面はね。……でも、あくまで対症療法よ。根本を絶たない限り、いずれ限界が来る」
アリスの声は、安堵よりも警戒の色が強かった。
「分かってます。だからこそ、私たちがここで結果を出さないと」
「そういうこと。……ヨーロッパの命運も、結局はそっち次第。プレッシャーかけるようで悪いけど」
「今更ですよ、そんなの」
カサンドラは小さく笑った。それから、少し声のトーンを落とす。
「明日、山に入ります。……今度こそ、何人か死ぬかもしれない」
「……分かってる」
「だから、今のうちに言っておきたいことがあって」
カサンドラは、眠る娘たちを見つめながら、ゆっくりと言葉を選んだ。
「あの子たちの体、生殖機能を残したこと、先輩には話したわよね」
「ええ。……戦闘用の設計としては、明らかに不要な機能」
「実はあれ、機能不全のリスクを承知の上で、私が意図的に組み込んだの」
端末の向こうで、アリスが息を呑む気配がした。
「……理由を聞いてもいい?」
「単純よ。あの子たちが、いつか戦いを終えて、人間と同じように誰かを愛して、家族を持てるように。……兵器としては、明らかに無駄な機能。バグと呼んでもいいくらいの」
カサンドラは、震える声を抑えながら続けた。
「私は、あの子たちを守るための盾として作った。それは否定しない。……でも、盾としてしか生きられない命にしたくなかった。いつか戦いが終わったら、ただの一人の生き物として、誰かを好きになって、笑って、泣いて、そういう時間を過ごしてほしかったの」
「……カサンドラ」
「馬鹿な考えだって、分かってる。兵器に、そんな余白を残す必要なんてない。設計者として、失格の判断だったのかもしれない。それでも、どうしても、譲れなかった」
通信の向こうで、しばらく沈黙が続いた。カサンドラは、その沈黙が怖かった。呆れられているのではないか、非効率だと切り捨てられるのではないか――そんな不安が胸を過ぎる。
やがて、アリスが静かに口を開く。
「……馬鹿じゃないわ。合理性だけを突き詰めるなら、確かに不要な設計。でも、その『余白』があったから、あの子たちは人間らしい感情を持てているのかもしれない。悲しむことも、涙を流すことも、誰かを想うことも」
「……そう、思う?」
「ええ。少なくとも私には、そう見える」
カサンドラの目から、堪えきれなかった涙が一筋こぼれた。誰にも見せられなかった弱さを、ようやく誰かと分かち合えた気がした。
「ありがとう、アリス先輩。……聞いてくれて」
「私こそ、話してくれてありがとう。……あなたのその『非合理』、嫌いじゃないわ」
その時、通信の向こうで、もう一つの声が微かに聞こえた。ソフィアだった。彼女はずっと、部屋の隅で黙って耳を傾けていたらしい。
「……愛だの家族だの、感傷的すぎるわ。だが」
ソフィアは、そこで一度言葉を切った。
「それが、あの子たちを人間たらしめている理由なのだとしたら……否定はせん。ただ、その優しさが、いつか誰かを苦しめる刃にもなり得ることは、忘れるでないぞ」
その言葉の真意を、この時のカサンドラはまだ、正確には理解していなかった。
通信が静かに切れる。カサンドラは涙を拭い、もう一度、娘たちの寝顔を見渡した。
スルトの豪快な寝息、ヘルの静かな寝顔、シューの微かに震える睫毛。一人ひとりの顔に、これまでの短い、けれど確かな時間の重みが刻まれていた。
「明日も、みんな無事で。……そしていつか、あんたたちが本当に望む人生を、生きられますように」
祈りにも似た呟きを残し、カサンドラは静かにテントを出た。夜空には、南半球の見慣れぬ星々が、変わらず輝いていた。
この日交わされた言葉が、遠い未来、思いもよらぬ形で意味を持つことになるとは、この時の誰もまだ、知る由もなかった。
通信を終えたアリスは、しばらく端末の前から動けずにいた。
カサンドラの言葉が、頭の中で何度も反響していた。……愛を知るためのバグ。それは、これまでのアリスの人生には存在しなかった発想だった。
「……先輩? お疲れのようですが、コーヒーをお持ちしました」
遠慮がちな声とともに、湯気の立つカップがそっと机に置かれる。助手のセレンだった。人見知りで、大きな物音にもすぐ肩を竦めるような性格をしているが、一度目にしたものはどんな些細な数値でも忘れない、驚くべき記憶力の持ち主だった。
「……ありがとう」
アリスは短く礼を言い、カップに口をつけた。それから、珍しく言葉を選ぶように、ぽつりと呟いた。
「セレン。もし私に何かあったら、託せるものを、今のうちに用意しておきたいの」
「……先輩らしい、慎重さですね」
セレンは驚いた様子も見せず、静かに頷いた。アリスの発言のどんな突飛さにも動じない、静かな胆力を持っているのだと、アリス自身よく知っていた。
「慎重、というより……祈りね。カサンドラの真似をするわけじゃないけど」
アリスは眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら、続けた。
「万が一、この戦いの決着がつかなかった時のために。……次の世代に、希望そのものを託せる仕組みを、作っておきたい」
「……お子さん、ですか」
セレンの問いに、アリスは一瞬だけ手を止めた。それから、小さく笑う。
「まだ名前も決めていない、ただの構想よ。……でも、いつかは」
窓の外では、崩れかけた砦の向こうに、いつもと変わらぬ夜空が広がっていた。
この夜、静かに芽吹いた小さな構想が、遠い未来、2つの命として結実することになるとは、この時のアリスもまだ、正確には知らなかった。




