第9話「東の賢女」
山脈の麓に野営地を張った夜、カサンドラは焚き火の傍らで黒い端末を取り出し、遠く離れたヨーロッパへと通信を繋いだ。頭上には、見慣れない南半球の星々が瞬いている。
「アリス先輩、聞こえますか」
「……ええ、聞こえるわ。そっちの状況は?」
端末越しのアリスの声は、いつも通り抑揚が少なかった。だが、その奥にある疲労を、カサンドラは聞き取っていた。
「ようやく山脈の麓まで来ました。明日には、内部への侵入を試みます」
「分かったわ。……こっちで解析した情報を共有する」
端末の画面に、粗い衛星データを基にした地形図が映し出される。切り立った山肌に、不自然な人工物の輪郭が浮かび上がっていた。
「山の中心部に、巨大な塔状の構造物がある。おそらく、それがマスターコンピュータの本体。この2週間で観測された瘴気の変動パターンから見て、間違いないと思う」
塔の輪郭は、自然の造形とは明らかに異質だった。幾何学的に整った稜線が、山肌に不気味に食い込んでいる。カサンドラは画面を見つめながら、背筋に冷たいものを感じた。
「……随分あっさり突き止めたのね」
「あっさりじゃないわよ! ソフィアと2人がかりで、寝る間も惜しんで解析した結果」
アリスの声に、微かな苛立ちが滲む。カサンドラは小さく笑った。久しぶりに聞く、人間らしい感情の乗った声だった。
「ありがとうございます、アリス先輩。……それで、そっちの状況は? 例の障壁技術の開発は」
「まだ実用段階には遠いわ。理論上の目処は立ったけど、実際に展開できる規模のプラントを作るには、最低でもあと数ヶ月かかる」
「数ヶ月……」
「それに、民の避難と防衛で手一杯なのが正直なところ。ヨナスも、砦の再建に追われてる」
カサンドラは唇を噛んだ。自分たちが山を登る間も、ヨーロッパでは別の戦いが続いている。誰も、休む暇などないのだ。
「……分かりました。とにかく、こっちはこっちで、元凶を絶ちます」
「ええ。……くれぐれも、無茶はしないで」
「無茶しかしてないですけどね、ここまで」
カサンドラの軽口に、アリスは通信の向こうで小さく息を吐いた。それが笑いなのか呆れなのか、判然としなかった。
「一つ、気になることがあるの」
「何ですか」
「そのマスターコンピュータ——設計者の名前が、断片的なログに残っていた。ファウスト・アイゼングリムという名前に、心当たりは?」
カサンドラは記憶を辿る。旧帝国の研究者名簿のどこかで、その名前を見た覚えがあった。
「……確か、生命科学の分野で名を馳せてた研究者よ。数年前に、消息を絶ったと聞いてる」
「消息を絶ったんじゃない。……たぶん、自分からここに来たのよ」
アリスの声が、僅かに低くなる。
「進化至上主義。倫理観の完全な欠如。……もしその男が、今もこの塔の中で生きているとしたら、相手取るのは単なる機械じゃないかもしれない」
カサンドラの背筋に、冷たいものが走った。
「……了解。警戒レベル、上げておくわ」
その時、テントの外から声がかかった。ヘルだった。
「班長。斥候から報告がある」
「……ちょっと待って、アリス先輩」
カサンドラは端末を保留にし、テントの外に出る。夜風が冷たく頬を撫でた。ロゼの部下が持ち帰った偵察情報によれば、山の中腹に、複数の見張りらしき魔獣の集団が確認されたという。
無秩序な徘徊ではなく、まるで訓練された歩哨のように、規則的な間隔で配置されているとの報告だった。
「……偶然じゃ、ないみたいね」
カサンドラは呟き、再び端末を手に取った。
「アリス先輩、聞きました? 今の」
「ええ。……やっぱり、ただの暴走システムじゃなさそうね」
2人の間に、重い沈黙が落ちる。単なる自然発生した災害であれば、まだ理解の余地があった。だが、明確な意志を持った何者かが、この惨劇の背後にいるとしたら——その可能性は、これまでの戦いの意味合いすら塗り替えかねなかった。
通信が切れた後も、カサンドラはしばらく端末の画面を見つめていた。山の奥に潜む何かが、ただの暴走したシステムではないかもしれない——その可能性が、これまでとは違う種類の緊張を彼女の胸に宿していた。
テントの外では、9人の兄弟姉妹が、それぞれの持ち場で静かに夜を過ごしていた。明日から始まる戦いに向けて、誰もが自分なりの覚悟を固めている。
焚き火の一角では、年長組のヘルとスルトが、静かに水筒を傾けていた。
「……妙な話だな。俺たちの頭には、旧帝国の戦術教本も、化学式も、歴史書の中身も、ひと通り入ってる。なのに、こういう夜、何を話せばいいのか、いまいち分からねえ」
「知識と経験は、別物ということだろう」
ヘルは短く答え、遠くの星を見上げた。生まれてまだ半月足らず。知っていることは山ほどあっても、実際に生きた時間はあまりに短い。
焚き火を囲んでいた頃、テフヌトは長女のヘルに呼び止められていた。
「テフヌト」
「……何、ヘル姉さん」
「シューたちのこと、頼んだわよ。……私やスルトじゃ、ああいう夜の話し相手には向かない」
ヘルにしては珍しく、言葉を選ぶような間があった。テフヌトは小さく笑う。
「分かってる。任せて」
「お前がいると、あの子たちは落ち着く。……昔から、そうだった」
「昔からって、ヘル姉さんも私も、目覚めたのはほとんど同じ時期でしょ」
テフヌトがくすりと笑うと、ヘルは珍しく、ほんの少しだけ口の端を緩めた。
「……そうだったわね。それでも、あんたは最初から、そういう役回りだった」
それだけ言うと、ヘルはいつも通りの無表情に戻り、水筒に口をつけた。だが、その一言だけで、テフヌトには十分だった。目覚めたその日から、気づけば自分は、そういう役目を担っていた。
少し離れた場所では、中組のテフヌトとセドナ、テルスとパチャママが、荷の点検をしながら言葉を交わしていた。
「明日の水の消費量、計算上はこれで足りるはずだけど……初めての高地だから、少し余裕を見ておいたほうがいいかしら」
「セドナ姉さんの計算、いつも合ってるから大丈夫」
パチャママが屈託なく笑う。テルスは無言のまま、黙々と荷を縛り直していた。知識の上では完璧な計画も、実際にやってみなければ分からないことばかりだと、4人とも薄々気づき始めていた。
セドナは指先で机代わりの岩を規則的に叩きながら、水の消費量を再計算していた。テルスは相変わらず無言のまま、荷を縛る合間に、足元の土を靴先で平らに均している。2人にとっては、ごく自然な、いつもの仕草だった。
中組の荷の点検を終えた後、テフヌトはテルスの隣に腰を下ろした。土の申し子である彼女とは、歳が近いこともあり、昔からとりわけ気心が知れていた。
「今日も、黙々と縛ってたわね」
「……お前こそ、また誰かの世話を焼いてたんだろう」
テルスが、口数少なく、それでいて確かな親しみを込めて返す。2人の間には、多くの言葉を必要としない、長年培われた信頼があった。
「明日からは、もっと大変になる。……お互い、無理はしないようにしましょ」
「珍しいな、お前がそんなことを言うのは」
「たまにはね」
軽口を交わしながら、2人は並んで星を見上げた。何も言わずとも通じ合える相手が傍にいる――それだけで、テフヌトにとっては、十分すぎる心の支えだった。
年少組のシュー、アグニ、エオスは、少し離れた岩陰で身を寄せ合っていた。
「……ねえ、人間の子供って、こういう時、何して気を紛らわせるのかな」
「知らない。誰も、そんなこと教えてくれなかった」
アグニが素っ気なく答える。頭の中には旧帝国の全戦術体系が詰め込まれているのに、こんな夜の過ごし方一つ、誰も教えてくれなかった。エオスが、膝を抱えたまま小さく呟いた。
「……ねえ、私たちって、最後はどうなるのかな」
シューの肩が、びくりと震えた。
「そんなの、考えなくていいよ」
「でも、ボレアス兄さんは……」
誰も、その先を言葉にできなかった。自分たちは戦うために生み出された道具なのだろうか。使い潰されて、それで終わりなのだろうか——インプットされた膨大な知識のどこにも、その答えは書かれていなかった。
沈黙を破ったのは、エオスの小さな手のひらだった。彼女がそっと指先に力を込めると、淡い光の粒が集まり、掌の上でふわりと小さな蝶の形を作る。まだ誰も名付けていない、ナノマシンの流れをほんの僅かに操っただけの、ささやかな戯れだった。
「見て。……こういうの、教科書にはなかったけど、できるよ」
光の蝶が、ひらひらと2人の間を舞う。アグニも指先に小さな炎を灯し、蛍のように瞬かせてみせた。
「ふふ、私にもできる」
誰に教わったわけでもない、自分たちだけの小さな魔法。それは、知識にはない、彼女たち自身の手で見つけた、初めての「経験」だった。
「歌とか、歌ってみようかな。……知らない歌でも、今作っちゃえばいいんだよね」
3人は顔を見合わせ、誰からともなく、たどたどしい旋律を口ずさみ始めた。上手くはない。誰かに教わった歌でもない。
それでも、それは彼女たちなりの、生きた時間の証だった。
光の蝶が、ひらひらと2人の間を舞う光景を、少し離れた場所から見つめる影があった。テフヌトだった。
中組との荷の点検を終えた彼女は、静かに年少組の岩陰へと歩み寄る。
「……楽しそうね」
声をかけられ、3人ははっと顔を上げた。エオスが慌てて光の蝶を消そうとするのを、テフヌトはそっと手で制した。
「隠さなくていいのよ。……いいものを見せてもらったわ」
「テフヌト姉さん……」
エオスの声が、少しだけ揺れる。無意識に、隣に座るテフヌトの服の裾を、指先でそっと摘んでいた。不安な時に出る、彼女の小さな癖だった。
テフヌトは3人の傍らに腰を下ろし、まだたどたどしい旋律の残響に耳を傾けた。
「教科書にないことを、自分たちで見つける。それって、きっとすごく大事なことよ。……知識だけじゃ足りない部分を、あなたたちは今、自分の力で埋めてるんだから」
「でも……私たち、ちゃんと役に立ててるのかな。ボレアス兄さんみたいに」
シューの声に滲む不安を、テフヌトは見逃さなかった。
「役に立つかどうかより先に、あなたたちが、ちゃんと生きてるかどうかの方が、私にはずっと大事」
その一言に、3人は顔を見合わせた。テフヌトは立ち上がりながら、最後にもう一言付け加える。
「怖い夜は、いつでも私を頼っていいから。……あなたたちの姉なんだから、それくらい、当然でしょ」
「……でも、姉さんも私たちも、生まれたのは同じ日じゃなかった?」
エオスがきょとんと首を傾げる。テフヌトは一瞬固まり、それから悪戯っぽく笑った。
「あら、バレた? まあ、細かいことはいいのよ。数時間でも先に目覚めたら、もう立派な姉なんだから」
その茶目っ気のある返しに、シューとアグニも思わず噴き出す。張り詰めていた空気が、ふっと緩んだ。
踵を返して戻っていく背中を見送りながら、エオスはそっと呟いた。
「……テフヌト姉さんがいると、なんか、安心する」
シューとアグニも、小さく頷いた。誰に言われるでもなく、3人にとってテフヌトは、いつしか特別な存在になっていた。
カサンドラは端末を閉じ、夜空を見上げた。ヨーロッパの空も、今頃同じ星を映しているはずだった。遠く離れていても、確かに繋がっている——その事実だけが、今の彼女を支えていた。




