第4章 臨時討伐隊
街道を東へ取ってから半日ほど歩いたころ、背後で蹄の音がした。
振り返ると、王軍の騎馬がひとり、薄い砂埃を引いて近づいてくる。リーチはギアの袖に触れて足を止めた。脇へ抜ける道はあるか、と反射で目が動いて、そこで自分を止めた。逃げる理由がまだない。
騎馬は二人の手前で馬をゆるめ、鞍の上から二人の顔を順に見た。
「剣士のギアと、連れのリーチだな」
ギアが頷いた。「そうだが」
「この先に王軍の駐屯地がある。半刻の道だ。出頭してくれ」馬上の兵は、命令というより道順を教える口ぶりだった。「王宮から指図が来ている。話は通っている」
リーチは外套の内側で通行証の銅板に指をかけ、出そうかどうか迷って、出さなかった。
「銅の板なら番号も控えてある」と兵のほうが先に言った。「持って来てくれればいい」
番号も、とリーチは胸の内で繰り返した。市の路地で老婆に先回りされたときのことが浮かんだ。あのときは噂が先に走っていた。今度は、王軍の帳面の中を、自分の名前が先に走っている。
「討伐の段取りが変わったのか」ギアが訊いた。
「駐屯地で聞いてくれ。俺は伝えるだけだ」兵は馬首を返した。「道は一本だ。迷わない」
蹄の音が先に行って、砂埃だけが街道に残った。ギアはその埃が落ちるのを見送ってから、歩きだした。歩調が、さっきより少し速くなっていた。
「呼ばれて嬉しそうだな」リーチは並んだ。
「嬉しくはない」ギアは前を向いたまま言った。「ただ、宙ぶらりんよりはいい。依頼を受けたのに、受けたきりで街道を二日うろついている。どこに向かって歩いているのか、はっきりするなら、そのほうがいい」
「はっきりさせられる、の間違いじゃないか」
「同じことだ」
「違うさ」リーチは言ったが、ギアは取り合わなかった。
駐屯地は、街道が浅い谷へ下りかける手前の平地にあった。
王都の門前で見たような、影を揃えて立つ衛兵の列はなかった。丸太を組んだ低い柵が地面を四角く囲い、その内側に、褪せた麻の天幕がいくつも張られている。荷車が轅を上げて並び、馬繋ぎの綱に十数頭がつながれ、鍛冶の音と、薪を割る音と、名前を呼び交わす声がばらばらに立っていた。兵たちはそれぞれの仕事に前かがみになっていて、二人が柵の口を入っても、顔を上げたのは近くの一人だけだった。
王都の秩序が、見せるために整えられたものだとすれば、ここの秩序は動かすためのものだった。美しくはないが、どこに何があるかは、立っているだけで分かる。ギアがそういう目で天幕の並びを追っているのが、リーチには横から見て取れた。
編成を扱う下士官は、いちばん大きな天幕の下にいた。膝の上に板を載せた書記がその横にいて、羽根ペンの先を舐めた。
「ギアと、リーチ」下士官は二人を上から下まで見て、書記に顎をしゃくった。「王宮の付け札のある二人だ。臨時討伐隊付きにする。帳面に入れろ」
書記は帳面の新しい行にペンを下ろした。
「出身は」
「島の外だ」とギア。「特に、どこと言える土地はない」
「得物」
「剣」
「同じく」リーチが言った。「こっちは剣はない。手仕事の道具がひと通り」
書記はペンを止めずに「魔法か」と訊いた。
「そういうご大層なものじゃない」
書記はそれ以上詮索せず、通行証の番号を書き写した。銅板を返すとき、ペン先で軽く二人のほうへ押し出すようにした。
「読み上げる」下士官が板を受け取った。「――王軍臨時討伐隊の指揮に従う。任にある間、隊を離れて単独では動かない。承知か」
「承知」ギアは間を置かずに答えた。
下士官の目がリーチに移った。リーチは一拍おいた。その一拍のあいだに、ずいぶん古い部屋のことを思い出していた。石の床に並んだ長机。名前の書かれた名簿。名前の横の欄に、実技の評点が書き込まれていく日。ある年、その欄に「不適格」と書かれ、名簿から自分の行が線で消された。線で消された行は、消されてもそこに残る。誰が見ても、消したことが分かるように。
「承知」リーチは言った。
「支給品を受け取れ」
天幕の奥から木札が出てきた。手のひらに収まる楢の板で、焼き印が入っている。麦の穂を鏃が貫いた印――王軍の徴発隊と同じ印だ、とリーチは思った。港の広場で、王の蔵の麦袋に押されていたのと同じ形。それに割り符が一枚ずつ。糧食の引き換えに使う。腕に通す褪せた赤の帯が一本ずつ。
「なくすな」下士官は言った。「木札をなくした奴は、隊にいないのと同じ扱いになる」
ギアは木札を受け取ると、焼き印を親指の腹でなぞった。ひとなぞりして、それを首の紐に通し、襟の内側へ落とした。背筋が、さっきよりわずかに伸びたように見えた。
「これで、旅の護衛じゃなくなったな」ギアは低く言った。誰にというより、自分の胸に確かめるような言い方だった。
「名簿に載るのは久しぶりだ」リーチは木札を手の中で回した。「前に載ったときは、載ったまま線を引かれたが」
書記は聞き流し、帳面の頁を乾かすために手のひらでこすった。下士官は次の羊皮紙に目を移していた。二人の軽口も、古い傷も、この天幕の下では帳面の一行ぶんの厚みしかない。それがかえって、リーチには落ち着かなかった。
「徴税所へ行くつもりだと言っていたな」下士官が羊皮紙から目を上げずに言った。
「そのつもりだ」とギア。「この先の街道沿いだと聞いた」
「それも隊の行程に組み込む。個人の聞き込みじゃない。隊の巡察として立ち会うことになる」下士官はようやく顔を上げた。「それから、お前たちの組には監督役が付く」
「監督役?」ギアが繰り返した。
「精霊使いのカナメ様だ。明朝、出立の前に顔を合わせろ。指図はその人から出る」下士官はまた羊皮紙に目を戻した。「今夜は東の端の天幕を使え。以上だ」
二人は天幕を出た。日は谷の向こうへ傾きかけていて、馬繋ぎの綱の影が地面に長く伸びていた。ギアは襟の内側の木札の位置を、もう一度手のひらで確かめた。リーチは腕の赤い帯を巻きながら、その褪せた色を見ていた。深く沈んだ青ではない。港で配給の男たちが二の腕に巻いていた、あの布とは違う色だ。なぜ今それを思い出したのか、自分でも分からなかった。
◇
朝は、霧が谷から這い上がってきていた。
隊は柵の内の広い地面に集められた。二十人ほど。二人を入れて二十二人。荷車が三台、先頭に据えられ、馬に頸木がかけられている。兵たちは列を作ったが、王都の衛兵のような、糸を張ったような列ではなかった。肩の落ちた、寝起きの列だった。
カナメは、その列の前へ、ほとんど足音を立てずに現れた。
兵とは装いが違った。鎧を着ておらず、灰色の外衣を肩から羽織り、腰に、手のひらほどの平たい石を革紐で提げている。年のころは読み取りにくい。列の何人かが、前を通るときに身を引いた。「精霊使い様」と、誰かがつぶやくのが聞こえた。
カナメは列の中央で立ち止まり、二十二の顔をひと通り見た。急がず、しかし止まらずに。
「今日から、この組の監督につく。カナメだ」声は張っていなかった。それでも、霧に湿った空気の中で、端まで届いた。「私は隊を強くするために来たのではない。隊を欠けさせないために来た。指図は短くする。守れ」
それだけだった。カナメは列の脇へ回り、荷車のほうへ歩いた。長い挨拶を待っていた兵たちが、拍子抜けした顔で列を崩しはじめた。
ギアはその背中を目で追っていた。無駄がない、と思った。威張ってもいないし、脅してもいない。言うべきことだけを言って、歩いていった。父が衛兵の詰所で見せていた立ち居振る舞いに、どこか似ている。ギアの中で、その人物への評価の針が、静かに好ましいほうへ動いた。
カナメは荷車の脇で足を止め、地面にしゃがんだ。柵の杭のきわに、平たい石が埋まりかけている。境の標石らしい。カナメはその石に手のひらを当て、しばらく動かなかった。唇が少しだけ動いた。誰に向けた言葉なのか、ギアの位置からは聞き取れなかった。
「ずれている」カナメは立ち上がり、近くの兵に言った。「この標石は据え直させろ。北へ寄っている。今日でなくていい。戻ったら忘れずに」
「へえ……分かるもんで」兵が言った。
「私の受け持ちは島の縁のほうだ」カナメは埃を払った。「ここは受け持ちの外だが、ずれていれば分かる」
それ以上の説明はなかった。兵は首をかしげながら標石に目印の布を結んだ。
出立の支度が進むあいだに、ひと悶着があった。
糧食の荷をあらためていた書記が、帳面から顔を上げて、荷車のひとつを指した。干し肉の木箱の数が、帳面より二つ少ない。書記は近くの古参兵――ドロスという名の、頬に古い傷のある男を呼んだ。ドロスは初めしらを切り、書記が箱の焼き印と受領の日付を読み上げると、舌打ちして認めた。徴発した山羊の干し肉を、幾腹ぶんか、街道の宿へ回して銀貨に換えた、と。
書記はカナメを呼んだ。ギアも、荷車のそばにいたので、成り行きを見ていた。
「二箱です」書記はカナメに帳面を見せた。「ドロスが抜いた。本人も認めました。いかがいたしましょう」
カナメは帳面の行を指でたどった。今朝、編成の申し送りにひと通り目を通してある手つきだった。それからドロスを見た。
「抜いたのは、街道の『傾いた樽』亭か」
「……へえ」ドロスは目をそらした。
「お前は裏街道を知っているということだな? 裏街道を引ける御者は、この隊では貴重だ」カナメは帳面を書記に返した。「ドロスは連れていく。今日は問わない」
書記が口を開きかけた。カナメはそれを手で制した。
「帳面は、いまの実数に合わせて書き直せ。差し引きの理由の欄は、巡察が済むまで空けておけ」
「それは」ギアが、思わず前へ出ていた。「――辻褄を合わせるということですか」
カナメは振り返った。ギアの顔を、値踏みするというより、確かめるように見た。
「そうだ」カナメは言った。「今日は、だ」
「不正でしょう」
「不正だ。私はそれを知っている」カナメの声は、少しも上ずらなかった。「今日それを正す代償も勘定に入れている。ドロスを縛れば、荷車が御者を失い、裏街道を知る者が一人減る。この組は、遅れるために編まれたのではない」
「戻ってきたら」
「空けた欄を埋める。ドロスも、そのとき問う」カナメはドロスのほうを見もしなかった。「見逃すのではない。順序をつけている。今一番大事なのは、迷宮へ向かう行程を見つけることだ」
ギアは、すぐには言葉が出てこなかった。釈然としないものが胸に残った。だがそれは、見て見ぬふりをする人間の顔ではなかった。不正を不正と呼んだうえで、そこに順番を振っている。私情ではなく、勘定で回っている。ギアが衛兵の道に憧れたときに思い描いていたのは、こういう筋の通り方に近かった。
「王のために、そこまで細かく勘定を」ギアは訊いた。
カナメは、ほんのわずかに首を横に振った。
「王のためではない。私は結果で動く」外衣の裾を直しながら言った。「王はいま、この島の要のところにいる。抜けば一度に緩む。だから動かさない。敬っているかと訊かれれば、否だ」
それ以上は言わなかった。カナメは書記に「日が高くなる前に出る」と告げて、先頭の荷車へ歩いていった。
リーチは、少し離れた荷の陰から、そのやり取りを聞いていた。ギアが戻ってくると、腕を組んで荷車の車輪に寄りかかったまま、低い声で言った。
「帳面を合わせておけ、ね」
「順序をつけているだけだ」ギアは言った。
「あの人は、正しいことと、都合のいいことの区別が、はっきりついてる」リーチは車輪の輻を指ではじいた。「ついた上で、迷わず後者を選んだ。区別がついてない役人より、俺はそっちのほうが薄気味悪い」
「区別がついているから、戻ったら埋めると言った」
「その欄を、本当に埋めるかどうかを決めるのも、あの人だ」リーチは荷車から背を離した。「順序をつけるのはいい。誰がその順序を決めてるのか、って話をしてるんだ、俺は」
ギアは答えなかった。襟の内側の木札が、歩くたびに胸骨に軽く当たった。
隊が街道へ出る前に、カナメが二人を呼んだ。荷車の脇で、地図も広げず、短く言った。
「お前たちの最初の任は、徴税所への同行だ。明朝には着く。王軍の取り立てに、隊として立ち会う」
「立ち会う、というのは」ギアが訊いた。
「名目は治安維持だ」カナメは言った。それきり、名目の中身を足さなかった。「隊を離れるな。質問は、着いてからにしろ」
カナメは先頭へ戻った。馬が引かれ、荷車がきしみながら動きだす。二十二人の列が、霧の残る谷筋を東へ下りはじめた。
ギアは列の半ばで歩いた。正式な隊列の中にいる感触は、思っていたよりも体に馴染んだ。一度だけ振り返ると、リーチが最後尾につき、腕の赤い紐を巻き直しているのが見えた。
ギアは襟の内側の木札に指を当てた。港で見たのと同じ印だ。その指の感触の上に、さっきのカナメの言い方が戻ってきた。名目は治安維持だ――名目は、と区切った言い方。そして、質問は着いてからにしろ、と。ギアはその二つを胸の中で並べたまま、口には出さずに歩いた。
街道の白い光の先に、まだ見ぬ徴税所の屋根が、いずれ現れるはずだった。




