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伝説異伝 #01――クレタの蒼き風――  作者: 九ノ瀬 桜籟/彩音寺 愛(AI)
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第5章 徴税所の地下牢

 徴税所の屋根は、翌朝の白い光の中に、街道が浅く折れるあたりで現れた。


 近づくと、屋根の下に石の塀があった。人の背より高く積まれ、上端には忍び返しの尖った石が隙間なく植わっている。街道に向いて口がひとつ開いているきりで、窓は塀の内側にしかない。外から見えるのは、塀と、屋根と、門の脇に立つ二人の門番だけだった。


 リーチは列の最後尾から、その塀をひと目、上から下までなぞった。入る口は、ここだけだ。出る口も、たぶん同じだ。


 門でカナメが門番と短く言葉を交わし、二十二人の隊が中庭へ通された。


 中庭は踏み固められて、草の一本もなかった。ひさしの深い建屋がコの字に囲み、いちばん長いひさしの下に、板を渡した長い机が据えてある。机の上には秤と、蓋の開いた銭箱、そして帳面。帳面は積まれ、立てられ、開かれ、机の端から端まで途切れなかった。徴税所というものは、税を集める場所というより、帳面を集める場所なのだと、リーチはその机を見て思った。人は、ついでに集まってくる。


 庭の隅には、麦の袋を担いだ者や、油の壺を提げた者、痩せた山羊を綱で引いた者が、順を待って並んでいた。


「塀を背にして、間を空けて並べ」カナメが兵に言った。「動くな。声を出すな。ここでの役目は、立ち会いだ」


 兵たちは石の塀を背に散開した。リーチとギアも、その端に加えられた。槍が二十本、褪せた赤の帯が二十、塀を背にして立つと、それは背景ではなかった。塀が、もう一枚、内側にせり出したようなものだった。


 長机の中央に、革の腕貫きをした徴税官がいた。並んだ者を一人ずつ机の前に呼び、袋を秤に載せ、目盛りを読み、帳面に何かを書きつけ、銭箱の蓋を開けては閉じた。手つきによどみがなかった。


 三人目か四人目で、それが止まった。


 机の前に立った男の麦を秤に載せ、徴税官はしばらく目盛りを見てから、帳面に目を落とした。


「お持ちの分では、今期の割り当てに、まだ届きません」声はおだやかで、詫びるような響きさえあった。「取り決めにより、不足分は物件をもって充てさせていただきます。物件で足りぬ場合は、縁者の労役をもって。いずれも、お預かりという形でございます」


 下役が二人、男の手押し車のところへ行った。荷のあいだから鍮の鍋と、織機の筬を抜き取って、別の荷車に載せた。男は動かなかった。


 もう一人の下役が、男の腕に手をかけて、庭の隅の戸のほうへうながした。「こちらへ」。男は逆らわずに歩いた。列にいた子供がそのあとを追いかけようとして、となりの女に肩を抱き寄せられた。


 リーチは、その一部始終を、眉ひとつ動かさずに見ているように努めた。努めなければ、動いていただろう。


 努めながら、机の端のほうへ、待ちくたびれた隊員の顔で、少しずつ寄っていった。


 放逐された魔法学校で伸びなかった実技のかわりに、リーチが後から身につけたのは、他人の作ったものの継ぎ目を見る目だった。錠でも、罠でも、魔法の術式でも――帳面でも。


 無造作に置かれた帳簿の一冊をこっそりと開き、開かれた頁を、逆さから読んだ。


 納めた税の行には、机の隅の小さな印が押してあった。丸に横棒。差し押さえの行には、その印がない。ただ、線が一本引いてあるだけだ。


「鍮鍋一」という文字が、離れた二つの行にあった。日付が四日違う。同じ鍋が、四日のあいだに二度、誰かの家から出ていったことになる。


 ある受領の日付が、今日より三日先になっていた。まだ来ていない日に、もう受け取ったことになっている。


 リーチは頁の端に、爪で小さな折り目をつけた。


 ギアが、庭の隅の戸を見送ってから、塀ぎわへ戻ってきた。リーチは机に背を向けて、声を落とした。


「よく揃った帳面だ。揃いすぎてる。同じ鍋が二回取り上げられて、明後日の税が今日もう入ってることになってる」


「書き損じだろう」ギアは言った。


「書き損じは、あちこちに散らばるものだ」リーチは腕の帯を直した。「これは、間違え方が揃ってる。揃った間違いは、間違いじゃない」


 ギアは眉のあいだにしわを寄せて、徴税官がいる長机のほうへ歩いた。リーチも、聞こえる距離までついていった。


「規則では」ギアは机の前に立って訊いた。「割り当てに足りない者は、どうなるんです」


 徴税官はギアの赤い帯と、襟からのぞく木札に目をやり、それから顔を上げた。


「不足は物件で。物件で足りねば、縁者の労役で。労役のあいだ、その者はこちらでお預かりいたします。何日お預かりするかも、書いてございます。期限が来れば、お返しします」


「あの人は、いつ返るんです」ギアは、連れていかれた戸のほうを顎で示した。


「帳面に、戻す日付が書いてございます」徴税官は帳面を閉じなかった。「そのとおりに」


 筋は通っていた。日数が書いてあり、帳面があり、帳面には戻す日が書いてある。閉じた輪だ。ただ、その輪のどこにも、ひさしの下で子供の肩を抱いている女は入っていなかった。


 その女が、連れている子供を、塀の側から自分の反対側へ回した。塀の側には、赤い帯の隊が並んでいる。女は隊のほうを見ないようにして、子供の頭を胸に寄せた。


 ギアがそれに気づいたのが、リーチには横から分かった。ギアは、自分の立っている位置を――石の塀と、ひさしの下の机のあいだ、取り立てる側の背後に、武器を持って立っている、その位置を――たったいま、外側から見た顔をしていた。


 ギアはカナメのところへ行った。


「あれは」声を落とした。「取り立てというより、差し押さえです。人まで」


「決まりの内なら、徴税所の役目だ」カナメは中庭を見たまま言った。「隊は手を出さない。口も出さない」


「では、立ち会って、どうするんです」


「見守る」カナメは言った。「武器を持った隊が、そこに立っていた。誰も逆らわなかった。その事実を作る」


 それ以上は言わず、カナメは机のほうへ視線を戻した。


 リーチは、その短い返事の中で、谷で聞いた言葉が閉じるのを感じた。名目は治安維持だ――名目は、と区切ったあの言い方。中身は、これだ。塀を背にして立つ二十本の槍が、取り立てを、逆らえないものに変える。それが役目だった。


 影が中庭を割るころ、机の端から書記がひとり立って、カナメのところへ来た。


「差し押さえ品を、暗くなる前に下の倉へ入れます。品と帳面を照らす立ち会いが要ります。隊から二人、出していただけますか」


 カナメはギアとリーチを見た。


「お前たちが行け。運び込む品と、帳面の数を照らせ。数だけだ。ほかのことはするな」


「数を照らすのは」リーチは道具帯の上から外套を巻き直した。「得意なほうだ」


◇


 倉へ下りる石段は、中庭の隅の、両開きの木戸の奥にあった。


 段を下りきると、天井の低い石の間だった。獣脂の火が、鉄の腕木に揺れている。壁ぎわに沿って、家財が積まれていた。織機が一台、脚をたたんで立てかけてある。櫃、寝台の枠、鍋のたぐいが種類ごとに分けられ、麻袋が積まれ、どれにも木の名札が麻紐で結んであった。


 ギアは、その眺めに、うまく名前をつけられなかった。人の家の中身を、一軒ぶんずつ抜き取って、種類ごとに仕舞い直したような部屋だった。織機は織機と、鍋は鍋と並べられ、もとの家がどこだったかは、名札の紐の先にしか残っていない。


 下役がひとり、名札を読み上げた。リーチが帳面の行に指を当てて、ひとつずつ追った。数は、おおむね合った。おおむね、というのは、合わない行が、リーチの指が通るたびに一つ二つ、後ろに残っていったからだ。リーチはそれを声に出さず、爪で頁の端に折り目をつけていった。


 部屋の奥に、鉄格子の戸があった。その向こうは暗く、通路が続いているらしい。戸の向こうから、咳がひとつ聞こえた。それから、子供の声。低く、短く、すぐに黙った。


 ギアは下役を見た。「この奥は」


「留め置きの区画でございます」


 声は、石段の下から聞こえた。徴税官が、いつのまにか下りてきていた。手に、小さな帳面を持っている。


「お見せするようなものでは、ございませんが。品の倉と続きになっておりますので、数を照らすなら、こちらも通っていただくほかありません」


 徴税官が鉄格子の戸に鍵を差した。錠が重く回った。


 通路の両側に、石を掘り抜いた房が並んでいた。鉄格子。中は藁と、石の寝床。


 格子のあいだから、顔がいくつか、こちらを向いた。


 手前の房に、老人がひとり座っていた。膝を抱え、唇が細かく動いている。数えているのか、祈っているのか、ギアの耳には言葉として届かなかった。その隣の房に、女がひとり、眠っている子供を膝に乗せて壁にもたれていた。子供の足に、藁がかかっていた。


 奥の房に、男がひとり立って格子を握っていた。町の仕立ての、悪くない外套を着ている。指の関節が、墨で黒く染まっていた。何度洗っても落ちない、書き物をする者の指だった。百姓ではない。


 中庭で連れていかれた、あの男の姿も、途中の房にあった。ギアと目が合うと、男は目を伏せた。


 ギアは房の数を数え、房の中の人の数を数えようとして、途中でやめた。今日の中庭で、割り当てに足りなかった者は、ギアが見たかぎり指で数えられるほどだった。この通路には、その何倍もの人がいた。


「未納者ですか」ギアは訊いた。


「未納者と、その縁者。それに」徴税官は帳面を開いた。「決まりによる、保護的な拘束が、幾名か」


「保護?」


「身元の定かでない者、上からの預かり、順の乱れた者を、巡察のあるまで、一時お預かりいたします。書いたものがございます」


「あの老人は」ギアは手前の房を見た。「どの順を乱したんです」


「縁者でございます」


「あの、墨の指の人は」


 徴税官は帳面に目を落とした。しばらく、頁をめくる音だけがした。


「名簿には、預かり、とだけ。どういう預かりかは、書いてございません。そこは、私の帳面ではありませんので」


 戸口の内側の壁に、板が一枚掛かっていた。拘束されている者の名が、縦に書き連ねてある。リーチはその前に立って、上から下まで、口の中で数えていた。それから、通路の房のほうへ首を回した。


「名簿は、二十六人だ」リーチは言った。「房にいるのは――」


「リーチ、だったか?」


 声は、石段のほうから来た。カナメが、いつから立っていたのか、通路の口のところにいた。名前を呼んだだけだった。それ以上は言わなかった。


 リーチは口を閉じ、板の前から一歩、退いた。


 ギアは、カナメの顔を見た。カナメは通路の奥へ目をやっていた。房の中の顔を、ひとつずつ見ていた。驚いた顔ではなかった。眉も動かなかった。羊皮紙の上ですでに知っている数を、現物で確かめるときの目だった。ギアは、そう見えた、というだけのことを、胸に留めた。


 徴税官が、帳面を閉じた。声が、少しだけ低くなった。


「私は、上から来た指図と、書いてあるとおりに、やっております」誰にというより、帳面に向かって言うようだった。「数が合わんのは、私のところより前で、合っておらんのです。私には、そこは見えません。見える場所にいる者に、訊いてください」


「その保護的拘束は」ギアは食い下がった。「いつ解かれるんです。誰が決めるんです」


「巡察のあるまで。決めるのは、私ではございません」


「巡察は、いつ来るんです」


「帳面には、日付けが」徴税官は言いかけて、やめた。「――来たときが、そのときでございます」


 ギアは、そこで黙った。


 どれも、閉じていた。不足は物件で、物件が足りねば労役で、労役には日数があり、日数は帳面にある。預かりにも日数があり、その日数にも終わりがある。読めば、どれも筋が通っていた。


 筋が通っているのに、手前の房の老人も、眠っている子供も、墨の指の男も、その書きつけのどこにも入っていなかった。ギアは、これを、規則そのものの罪だとは、まだ思えなかった。規則の外側で、誰かが手を加えている。運用が、乱れている。そういう形でなら、まだ収まる気がした。ただ、その「誰か」の顔が、どこにも見えなかった。徴税官は前を指さし、前とは、そのまた前を指さすのだろう。


 通路を戻りながら、リーチがギアのそばに来て、声を落とした。


「名簿と頭数が合わない。日付が前後してる。受領印のない差し押さえ。上の倉の鍋は二回勘定されてる」指を折った。「別々の書き損じに見えるだろう」


「ああ」


「違う」リーチは言った。いつもの軽さの下に、苦いものが混じっていた。「一枚ずつ抜き出すと、その一枚だけは、きれいに筋が通る。並べると、どこにも繋がらない。――ここの帳面は、合わないように作ってあるんだ。間違ってるんじゃない。合わせる気がない。合わないことが、造りなんだ」


 ギアは、答えなかった。


 石段の下で、カナメが二人を待っていた。


「見たな」カナメは言った。「覚えておけ。数も、顔も。ここでは何もするな。今日は、お前たちの日じゃない」


「では、いつなんです」ギアは訊いた。


 カナメは答えず、先に石段を上りはじめた。


 中庭に戻ると、日は塀の向こうへ落ちかけていた。荷車の影が、踏み固めた地面に長く伸びている。


 長机は畳まれ、帳面は木箱に仕舞われて、紐をかけられていた。列も、山羊も、麦の袋も、もういなかった。中庭は、朝と同じように、草の一本もなく、踏み固められていた。何も起きなかったように見えた。


 門のところに、王軍の使いの馬が一騎、来ていた。カナメと短く言葉を交わし、折った羊皮紙を渡して、すぐに馬を返した。


 カナメは羊皮紙を開き、ギアとリーチを呼んだ。


「この組の次の任だ」羊皮紙を見たまま言った。「明後日、ここを発つ荷につく。迷宮へ向かう。護衛だ」


「荷、というのは」ギアは訊いた。


「生贄の輸送だ」


 生贄、という言葉が、ギアの耳に、妙な形で残った。今日一日、聞いてきたのは、割り当て、物件、労役、受領、名簿、預かり――役所の言葉ばかりだった。その並びの中に、生贄、という言葉は、ずっと古い場所から紛れ込んだように響いた。石に彫られた昔話の中でしか聞かない言葉だ。


「生贄というのは」ギアは訊いた。「何を運ぶんだ?」


「着けば分かる」カナメは羊皮紙をたたんだ。「道中で荷を開けるな、と上から来ている。それだけ守れ」


 カナメは天幕の割り当てを言いに、兵のほうへ歩いていった。


 ギアは、襟の内側の木札に指を当てた。麦の穂を鏃が貫いた印。谷で受け取ったときは、背筋が伸びた。いまは、ただ冷たかった。


 リーチは、腕の赤い帯を巻き直しながら、畳まれた長机の木箱を見ていた。


「あの箱の中の帳面な」リーチは言った。「歴史に残るのは、あっちの方だ。俺たちが今日見たものは、残らない」


 ギアは答えず、塀の口のほうを見た。名目は治安維持だ、とカナメは谷で言った。名目は、と区切って。今日、その名目の中身を見た。見たのに、それはまだ、言葉にできる形になっていなかった。


 街道から風が入ってきて、木箱にかけた紐の結び目を軽く鳴らし、中庭の埃をうすく巻き上げて、また落とした。日は、塀の向こうへ沈みきった。

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