第3章 老婆の警告
王宮を辞してから、二人は幾日かかけて島の内側を歩いた。街道は王都から離れるにつれて石畳が土に変わり、辻の水路も、揃った噴水も、いつのまにか消えていた。二日目の昼、王都と港のちょうど中ほどで、道幅がふくらんだ一角に市が立っているのに出くわした。
王都の市場と同じ言葉で呼ぶのは、ためらわれた。ここには掃かれた目地も、高さの揃った棚もない。葦で葺いた日除けが思い思いに張り出し、その下に干し魚と野菜と古着と鍋が、境目もなく並んでいる。売り子は座ったまま客を呼び、犬が台の下を抜けていく。足元はぬかるみ、その上を踏んだ跡がそのまま乾いて固まっていた。辻には兵がいたが、王都のように二人ずつ影を揃えて立つのではなく、一人が槍を杖にして、退屈そうに人の流れを眺めているだけだった。
「こっちのほうが息がしやすい」リーチが言った。「王都の市場は、客より先に王が通る道みたいだった」
二人は通行証を出さなかった。銅の板を見せれば話が早く終わってしまう、とリーチが言った。世間話は、相手が誰に向かって喋っているのか分からないうちが、いちばんよく回る、と。
干し魚を積んだ台の前で、ギアは水を一杯買い、ついでのように迷宮のことを訊いた。商人は手を止めずに答えた。
「岩の下の穴だろう。近づかんことだ。潜った奴は戻らん」
「戻らなかった人を、知っているのか」
「知らんよ。誰も知らん。知っている奴がいたら、そいつは戻ってきたってことだろう」商人は笑わなかった。「昔からそう言う。それだけだ」
古着を掛けた縄の下では、痩せた女が同じことを別の言葉で言った。牛の頭をしている。夜になると岩のあいだから唸り声がのぼる。漁師が沖から見ると、迷宮のあたりだけ鳥が飛ばない。――どれも、ギアが二日前に謁見の間で聞いた像の、輪郭をなぞるものだった。人の背丈の倍。牛の頭。近づく者はない。新しい線は一本も足されなかった。
桶を売る老人に《蒼き風》のことを向けると、老人は急に手元の桶を並べ替えはじめた。
「知らんね」
「港で麦を配っていたと聞いた。この市にも来るのか」
老人は答えず、辻のほうへ目をやった。槍を杖にした兵は、こちらに背を向けたまま欠伸をしている。それでも老人は口を開かず、桶の底を意味もなく指で拭った。ギアがもう一度訊こうとすると、リーチが袖を引いた。
市の外れまで来て、二人は壁の影に寄った。
「集まったか」ギアは訊いた。
「山ほどな。中身は空っぽだ」リーチは指を折った。「牛の頭。倍の背丈。唸り声。戻らない。――全部、王が謁見の間で言ったことだ。誰も、それに何も足さなかった」
「町の噂だ。そんなものだろう」
「そうじゃない」リーチは首を振った。「妙なんだよ。これだけ人がいて、これだけ長く言い伝えられていて、誰ひとり『俺は見た』と言わない。みんな、見た奴から聞いたんじゃなく、聞いた奴から聞いてる。伝えている奴の顔はいるのに、大元の顔がない」
ギアは、借りた水の椀を返しに行く途中だった。手の中で椀は軽かった。
「王の話と、食い違ってはいない」
「食い違っていたら、まだ調べようがある。何もかも一致しているほうが、俺は気持ちが悪い」
市を抜けて街道へ戻るには、家と家のあいだの細い道を通るのが近かった。
◇
路地は、市のざわめきがひと足で遠のくほど暗かった。
両側の家の壁が迫り、上のひさしが頭の上でほとんど触れ合っていた。日は真上にあるはずなのに、足元まで届かない。壁の裾を、濁った水が音もなく這っている。王都では水路の水が音を立てて流れていた。ここでは水は流れることも忘れて、ただ低いほうへ溜まっていた。リーチは、こういう道のほうが性に合っていた。掃除の行き届いた場所より、こういう場所のほうが、人は本当のことを言う。
道の半ばに、開いた戸口があった。その内側の暗がりに、老婆がひとり、低い椅子に腰かけていた。膝に籠を抱え、乾いた豆のさやを割っては、中身を椀に落としている。
二人が前を通り過ぎようとしたとき、老婆が顔を上げた。
「よその人だね」
ギアは足を止め、頭を軽く下げた。「この道は街道へ抜けますか」
「抜けるよ。まっすぐお行き」老婆はさやを割る手を止めなかった。「剣を提げて、市で穴のことを訊いて回っていた二人だね」
リーチは戸口の暗がりを見直した。市からここまで、話のほうが先に走っていた。
「岩の下の穴へ行くのかい」老婆は訊いた。
「行くかもしれない」とリーチは言った。「行くなら、何か知っておくべきことでも?」
老婆はしばらくさやを割っていた。豆が椀に当たる乾いた音が、狭い路地に小さく響いた。それから、手を止めないまま言った。
「怪物を見るなら、顔じゃなく手を見なさい」
ギアは眉を寄せた。
「手、というと」
「言ったとおりさ」
「顔を見るな、というのは、どういう意味です」
老婆は椀を膝の上で軽く揺すり、さやの屑を選り分けた。答えなかった。リーチがもう一度、声を落として訊いた。
「婆さん。誰かに聞いたのか。それとも――」
老婆は籐の籠を床に置き、椅子から立った。思っていたより時間のかかる動きだった。そして、こちらへ背を向けたまま戸口の内へ入り、木の戸を引いた。建てつけの悪い戸が石の敷居をこすって鳴り、閉じた。あとには、割られなかった豆のさやが、敷居の外に転がっていた。
二人はしばらく、閉じた戸を見ていた。
「老いた人の口ぐせだ」ギアが先に歩きだした。「この島には、岩の下の穴にまつわる言い伝えが、掃いて捨てるほどあるんだろう。さっきの市で聞いたのと変わらない。顔じゃなく手を見ろ、なんてのは――暗がりで年寄りが子どもを脅すための文句だ」
「かもな」
「気にするな」
「気にしてない」
リーチはそう言いながら、口の中で老婆の言葉をもう一度なぞった。声には出さなかった。怪物を見るなら、顔じゃなく手を見なさい。区切りも、語の順も、そのままに。もう一度だけ頭からなぞって、それきりにした。
路地を抜けると、街道の白い光が戻ってきた。ギアは徴税所の話をはじめた。この先にあるはずだ、人と帳面の集まる場所には話も集まる、と。次の行程のことを口にしながら、しかし途中で言葉が切れた。
「さっきの婆さんだが」ギアは言った。「最後まで手を止めなかったな。さやを割りながら、よその人間に忠告して、戸を閉めた」
「気にしてないんじゃなかったのか」
「気にしてない。妙に律儀だと思っただけだ」ギアは前を向いた。「老いた人の繰り言だ。それ以上のものじゃない」
リーチは一度だけ振り返った。路地はもう市のざわめきの奥に沈んで、どの戸口が老婆のものだったかも見分けられなかった。彼は歩調を速め、ギアに並んだ。
二人は街道を東へ取った。ギアはもう徴税所の話に戻っていた。リーチには、老婆の言葉の意味は掴めないままだった。




