第2章 王宮の依頼
翌朝、二人は宿を出て坂を下り港に向かった。空はよく晴れて、風は南へ抜けている。帆を張るには申し分ない風だ、とギアは思った。船旅の人間の癖で、陸にいても空と波をまず読む。
桟橋の先まで歩いて、その読みが役に立たないことを知った。
防波堤の外は、朝の光を受けて広く開けていた。沖からうねりの筋が幾重にも寄せ、その向こうに水平線がまっすぐ引かれている。船が幾隻か、湾の内側に錨を下ろしていた。どれも帆は畳まれ、甲板に人影はない。防波堤の切れ目――船が出入りするための口には、木を組んだやぐらが新しく立ち、その上に兵がいた。海はどこまでも続いているのに、その一箇所だけが塞がれている。ギアは、外海の広さと、湾の中の動かない水面とを、同じ視界の中に並べて眺めた。昨日はこの静けさを居心地悪く感じただけだった。今日は、その静けさが自分を閉じ込める側に回っている。
港湾管理の詰所の前に、人がひとかたまり、固まっていた。荷を足元に積んだ商人、旅装の男、赤ん坊を抱いた女。みな詰所の窓口へ向かって口々に何か言い、中の下士官は帳面から顔も上げずに同じ言葉を返していた。
「私的な出航の許しは、今朝をもってすべて止めだ。個別の願いは受けん」
「日没までと聞いた」商人が食い下がった。「まだ丸一日以上ある」
「早まった。掲示のとおりだ」下士官は帳面を閉じた。「不服があれば王軍本部へ言え。ここでは受けん」
商人が何か言い返そうとして、やめた。列のうしろで女があやす声だけが続いた。ギアは詰所の壁に貼られた布告に目を走らせた。昨日の触れと同じ文言の下に、新しい墨で一行が足されている。「発効は即日とす」。
「聞いたか」リーチが横で言った。「繰り上げやがった。俺たちを含めて、ここにいる全員を、きれいに島の中へ閉じ込めた」
「たまたまだろう。港が荒れる前に手を打っただけだ」
「たまたまにしては、間がよすぎる」リーチは声を落とし、いちばん端の小舟へ顎をしゃくった。「あれ、見張りがついてないぞ。夜なら、やぐらの下をすり抜けるくらいは――」
「盗むのか」
「借りる、と言ったつもりだが?」
「同じことだ」ギアは首を振った。「それに、やぐらの兵は昨日からずっと立っている。眠ってはいない」
「なら賄賂だ。詰所の男に何枚か握らせれば」
「何を握らせる。護衛の報酬は、ゆうべ船長が宿まで届けてくれたが、この島で船が買えないなら、あれはただの重りだ」ギアは詰所の窓口を見た。「それに、あの男は受け取らない。受け取り慣れた顔じゃない」
リーチは肩をすくめて、それ以上は言わなかった。
そのとき、詰所の人だかりが揺れた。坂の上から来た一人の男が、列には目もくれず、まっすぐ二人のところへ歩いてきたからだ。糊のきいた青灰色の上衣に、腰へ下げた札。兵ではない。物腰は静かで、しかし急いでいた。
「剣士のギア。連れのリーチだな?」男は名を読み上げるように言った。「王宮からの使いだ。王が、じきじきにお二人へお会いになる。ご同道願いたい」
列に並んでいた渡航者たちが、いっせいにこちらを見た。
◇
王都は、港とは別の島のようだった。
坂を上るにつれて道は広く、平らになった。石畳は目地まで掃かれ、家々の壁は白く塗り直されたばかりだ。道の両側に浅い水路が引かれ、澄んだ水が音を立てて流れている。辻ごとに噴水があり、どれも涸れていない。港の広場の、鳩の並んだ涸れ噴水を思い出して、ギアは奇妙な気分になった。市場も開いていた。棚は整い、売り子の声は張っているが、荒れてはいない。ただ、辻という辻の角に、白い外套の兵が立っていた。掃かれた石畳の上に、その影が同じ長さで落ちていた。
「よくできてる」リーチが歩きながら小さく言った。「掃除の行き届いた家ほど、見せたくない部屋があるもんだ」
使者は二人の数歩前を、一度も振り返らずに歩いた。門をいくつもくぐった。そのたびに衛士が使者の札をあらため、ギアの剣にちらと目をやり、預けよとは言わず、代わりに一人が黙って二人の後ろについた。宮殿の奥へ入るころには、二人の背後に、従者と衛士の影が増えていた。誰も話しかけてはこない。島の外から来た護衛が王宮の廊下を歩いているという事実そのものが、収まりの悪いもののように扱われていた。
謁見の間は、天井が高かった。両側に石の柱が等間隔に並び、床は磨かれて、歩くたびに足音が奥のほうまで転がっていく。片側は柱と柱のあいだが大きく開いていて、そこから海が見えた。青が、柱の間隔ぶんずつ、四角く切り取られている。よく整えられた庭の景色のように、海までもがこの部屋の設えの一部に組み込まれていた。
奥に、一段高い席があった。
玉座と呼ぶには、飾りが少なかった。背もたれの縁に古い彫りがあるだけで、金も、張り物もない。だが、広間のすべての柱の並びが、その一点へ向かって引かれていた。磨いた床の目も、天井の梁の走りも、柱間に切り取られた海の四角も、ここから見るために測られたものだと、分かるような造りだった。
その席に、一人の男が静かに座していた。
クレタ王ミノス。島の王であり、島そのものの名のように語られる男だった。港でも、街道の市でも、人は王の名を、天気の話のように口にした。悪くは言わない。良くも言わない。王がいる。それは、海がそこにあるのと同じ種類の事実として、島に据わっていた。
年は、読み取りにくかった。髪は白いが、背は曲がっていない。装いは、広間の設えよりもなお簡素だった。飾りのない外衣。指に輪ひとつない。身につけているもので高さを示す必要が、この男にはなかった。
立ち上がりはしなかった。二人が近づいても、そばに控える従者へ目配せをするでもなく、ただこちらが歩いてくるのを待っていた。従者も、衛士も、誰ひとり先に口を開かなかった。この部屋では、最初に言葉を出す順序まで決まっているらしかった。
座したまま部屋の空気を下へ押さえつけているような、静かな重さがあった。声も、動きも、まだ何ひとつ使っていない。それでも、広間の端にいる兵の呼吸が浅くなるのが、ギアには分かった。
ギアは十歩ほど手前で足を止め、頭を下げた。リーチもそれにならったが、下げ方は浅かった。
「島外の剣士が二人、港で足止めされていると聞いた」ミノスは言った。低い声が、石の広間によく通った。急いでいない声だった。「災難だったな。だが、無駄な足止めにはせぬつもりだ」
「王が直々にお会いになるとは、異例のことと存じます」とギア。
「異例のことが起きているからだ」ミノスは軽く指を動かした。「クレタの大地の下に、古い迷宮がある。先代よりもさらに前から、あそこへ近づく者はない。その奥に、一体、棲みついたものがいる。牛の頭をした、人の背丈の倍ほどのもの。民はそれをミノタウルスと呼ぶ」
「昨日、港で触れを聞きました」とギア。「《蒼き風》という徒党が、その怪物に操られていると」
「操られている、と触れ役は言ったか」ミノスはわずかに顎を引いた。「率いられている、と言うほうが近い。あれらは怪物の名を旗に掲げて、王の蔵を破り、道端で民へ施しを配って回る。施しの裏で本当に配っているものは、受け取る側の目には見えん。恐れだ。王の蔵さえ破られるのだという恐れ。次は港が、その次は市場が破られると民が思いはじめれば、島は内側から傾く」
ミノスは、柱のあいだの四角い海へ、ほんの一瞬だけ目をやった。
「私が港を閉ざしたのは、船のためではない。民が怪物を恐れているうちは、まだ抑えがきく。恐れが怒りに変わり、その怒りが『王では守れぬ』という声に変わったとき、島は割れる。人が何を信じているかで、この島は形を保っている。私は、その形を守っているにすぎん」
リーチは黙っていた。ギアのうしろで頭を軽く傾け、ミノスの言葉がひとつずつ置かれていく、その間合いを聞き取ろうとするように動かない。途中で、その目がわずかに細くなった。ギアの耳にも、ミノスの話には淀みがなかった。淀みがなさすぎる、と感じるほどに。
ギアのほうは、別のことに気を取られていた。王が、島へ着いたばかりの冒険者風情を広間へ呼び、じきじきに島の危難を語っている。この状況そのものが、こちらへ何かの役割を差し出そうとしている――そういう手触りがあった。
◇
「そこで、お前たちだ」ミノスは言った。
「島の兵は、この件には使えん。白い外套が隊を組んで迷宮へ向かえば、民は『王がついに怪物を恐れた』と読む。恐れは、旗のように伝わる。島の者を潜らせても同じことだ。あれらは怪物の名の下で生まれ育ち、その名に膝を折る。震える者は、怪物には近づけん」ミノスは軽く手を上げた。「外の人間がいる。顔も名も島に知られておらず、迷宮の伝説に膝を折らぬ剣士が、いま二人、港にいる」
「討伐の依頼、ということですか」とギア。
「そうだ。果たせば、封鎖を越える通行証を出す。次の船だけではない、どの船にでも乗れる証だ。金は、二人が数年遊んで暮らせるだけ積む」ミノスは間を置いた。「剣士のほうには、もう一つある」
ミノスの目がギアへ向いた。
「討伐を果たした者を、私はクレタの守護者として正式に認める。王の名において、記録に残す。お前はもう誰かに雇われた護衛ではない。王が任じた守護者として、この島を出ることになる」
ギアは、すぐには声が出なかった。守護者、という言葉が、思っていたよりも深いところに触れた。父も衛兵だった。ギアも同じ門を志し、その道は途中で断たれた。誰かを守る仕事を、誰かに正式に任される――それは、旅のあいだずっと口に出さずに脇へ置いてきた望みだった。
リーチがギアの袖に触れた。「少し、二人で話をさせてください」
ミノスは従者へ短く何か言い、席の脇に立つ男と低く話しはじめた。二人は柱の陰へ寄った。
「乗り気だな」リーチが小声で言った。責める調子ではなかった。
「お前は反対か」
「筋の通った話ほど、俺は疑う。港で見たものと、さっきの話は、まだ噛み合ってない」リーチは肩をすくめた。「あの荷台の連中は、操られてる人間の動きじゃなかった。それはお前も見ただろう。だが――ここで断って、どうする。宿へ戻って、封鎖が解けるのを干からびながら待つか。船は盗めない。お前がそう言った」
「それで、受けろと」
「受けて、島の中へ入る。王の隣は、この島でいちばん多くのものが見える場所だ。迷宮の話が本当かどうかも、外から眺めているより、内側からのほうが確かめられる」リーチはミノスのほうへ小さく顎をしゃくった。「言っておくが、あいつを信じたわけじゃないぞ。信じていないから、近くで見る」
ギアは柱のあいだの四角い青を見た。港のやぐらと、その下に立ち続けている兵のことを思った。ここで意地を張っても、封鎖は動かない。動くのはこちらの足だけだ。
「分かった」とギアは言った。「受ける」
二人は席の前へ戻った。ギアが引き受けると告げると、ミノスは満足とも安堵ともつかない、ごくわずかな動きで頷いた。
「支度のことですが」とギア。「怪物の名は、俺たちは昨日はじめて聞きました。迷宮の場所も、これまで潜って戻らなかった者のことも、何も知らない。備えなしには向かえません」
「調べるがいい」ミノスは言った。「島の中は、通行証があればどこでも通れるようにしておく。徴税所も、街道も、辺境の村もだ。数日かけて島を検分し、それから向かえ。備えのない討伐は、討伐ではない。ただの無駄死にだ」
広間を出ると、来たときと同じ従者がついた。門のところで、二人ぶんの通行証が渡された。木の札ではなく、王家の印を焼き込んだ銅の板だった。ギアの手のひらの上で、それは陽を鈍く照り返した。
外はまだ昼で、王都の水路は行きと同じようにまっすぐ流れていた。
「どこから見る」とギアは訊いた。
「街道沿いだな」リーチが銅の板を陽にかざした。「人とものが集まる場所には、話も集まる。徴税所がいくつかあるらしい。怪物を見たという奴を探すなら、そのうち島の外れの村まで足を延ばすことになる」
ギアは王宮を振り返った。柱のあいだの海は、そこからはもう見えなかった。二人は坂を下りはじめた。




