第1章 蒼き島への到着
海は嘘をつかない、とギアは船の上でよく考えた。
凪いでいれば凪いでいるように見え、荒れていれば誰の目にも荒れて見える。
風向きも、雲の高さも、隠しようがない。
だからこそ剣を握るより先に、船旅をする冒険者はまず空と波を読むことを覚える。
今回の目的地のクレタ島が水平線から立ち上がってきたのは、その朝の風がちょうど北へ回ったころだった。
白っぽい岩肌の上に段々と町が積み重なり、いちばん高いところに王宮らしき石造りの塊が陽を照り返している。船首に立ったギアは、片手を額にかざしてそれを眺めた。
「絵に描いたような島だな」
隣で欄干に肘を預けた相棒のリーチが、目を細めて言った。声には、感心とも皮肉ともつかない抑揚がある。
「絵に描いたような、というのは褒めているのか?」
「さあ。絵ってのは、描いた奴が見せたいものしか描かないだろ」
ギアは答えなかった。
この船の護衛の仕事はこの入港で終わる。船倉には東方の織物と油、それに封をした木箱。航路の途中で何度か海賊まがいの小舟に追われたが、いずれも近づく前に諦めた。剣を抜くまでもなかったのは幸いだ。
報酬を受け取ったら、次の港へ向かう船を探す。
そういう段取りが、ギアの頭の中では潮の満ち引きのように決まっていた。
船が湾へ入ると、風が急に弱まった。両腕を広げるように突き出した防波堤が、外海のうねりをせき止めている。その内側の水面は油を流したように動かず、朝の光をべったりと張りつけていた。ギアはその静けさを、なぜか居心地悪く感じた。港というのはもっと、艀の櫓の音や、荷揚げの怒鳴り声で満ちているものだ。
「静かだ」とギアは言った。
「ああ」リーチも同じ方を見ていた。「妙にな」
接岸の綱が桟橋へ投げられ、水夫たちが慌ただしく走り回る。船長が甲板を横切りながら、誰にともなく舌打ちをした。
「あらためが厳しいと聞いてたが、これほどとはな」
桟橋の先、石畳の広がる荷降ろし場に、王軍らしき兵が並んでいた。革の胸当てに白い外套、槍の穂先が朝日に揃って光っている。数が多い。ギアが以前寄った他の港では、税吏と、退屈そうな門番がいれば足りていた。ここでは、荷をあらためる机の後ろにも、桟橋の付け根にも、倉庫の屋根の上にさえ人影がある。
上陸する者は一列に並ばされ、木箱はひとつずつ蓋を開けられていた。列は桟橋の上で長く折れ曲がり、ほとんど進まない。並んでいるのは商人や漁師、子ども連れの女たちだが、誰も口をきかない。順番を待つあいだ、ただ足元を見ている。兵が荷の中身を床にぶちまけても、持ち主は黙ってそれを拾い集めた。
「規律は取れているな」ギアは、自分に言い聞かせるように言った。「乱れた警備よりはいい。ちゃんと指図が通っている」
「規律ね」リーチが鼻で笑った。「あの婆さんの籠、三回目だぞ。同じ籠を三回ひっくり返して、何が出てくると思ってるんだ」
ギアは列の中ほどに目をやった。腰の曲がった老女が、干した無花果の入った籠を兵の前に差し出している。兵は無花果を一粒ずつ指で転がし、籠の底布をめくり、それからもう一度最初からやり直した。老女は抗議しなかった。手を前に組んで、ただ待っていた。その従順さのほうが、ギアには槍の列よりも重く感じられた。
船長が上陸許可の書きつけを兵に見せ、護衛二人ぶんの名を告げた。兵はギアとリーチの顔を順に見比べ、剣と、リーチの外套の下の道具帯にしばらく目を留めてから、粗末な木製の通行証を突き出した。
「島の用向きは」
「次の船を探すだけだ」とギア。「長居はしない」
「そうしろ」兵はそれだけ言った。感情のこもらない、繰り返し言い慣れた声だった。
桟橋を渡りきると、足の裏が久しぶりに揺れない地面を踏んだ。ギアは大きく息を吸った。潮の匂いに、焦げた匂いが混じっている。どこかで何かを燃やしている匂いだ。振り返ると、湾の外から入ってきた風が、防波堤を越えて町のほうへ抜けていくのが、旗の動きで分かった。頬に触れるその風だけが、まだ外海の匂いを失っておらず、この港で誰にもあらためられずにいた。
「報酬をもらったら、すぐ次の船だ」とギアは言った。
「賛成だね」リーチが通行証を指で弾いた。「ただし、次の船があればの話だが」
◇
港から石段を上がったところに、海に面した広場があった。倉庫の壁が一方を塞ぎ、向かいに宿屋と居酒屋が並ぶ。真ん中に涸れかけた噴水があって、その縁に鳩が並んでいる。ギアとリーチは、宿の看板を探しながらそこを横切ろうとした。
広場の北の隅に、人が集まっていた。
はじめギアは、それを喧嘩か、大道芸の人だかりだと思った。だが近づくにつれ、動きの質が違うと分かった。人々は輪になっているのではなく、一方向へ、静かに列をつくっている。列の先に荷車が寄せてある。荷台の上に立った数人が、麻袋から穀物をすくい、差し出される器や布へ手早く注いでいた。
「配ってるのか」ギアは足を止めた。
小麦だった。挽く前の、粒のままの小麦。受け取る側は、欠けた壺や、頭巾を外して広げた布や、両手の窪みでそれを受けた。子どもを肩車した男が順番を待ち、その後ろに、桟橋で無花果の籠をひっくり返されていたあの老女がいた。
ギアが引っかかったのは、その静けさだった。飢えた人間が食い物に群がるときの、あの浅ましい押し合いがない。列は乱れず、すくう手と受ける手のあいだで、短い言葉だけが交わされる。次。ありがとう。もう一人ぶん。落ち着いた、と言ってもいいほどの秩序が、そこにはあった。
「見ろよ」リーチが声を低くした。「あの袋」
荷台に積まれた麻袋の口に、焼き印が押されていた。麦の穂を組み合わせた印。同じ印が、広場の反対側の倉庫の扉にも、大きく描かれている。
「王の蔵の印・・・か?」とリーチ。「あの倉庫から出した麦を、あそこで配ってる」
「王軍が配っているのか?」
「兵はいないだろ。一人も」
ギアはもう一度、荷台の上の数人を見た。兵ではない。胸当ても外套もなく、袖をまくった腕や、汗で貼りついた麻の服。年格好はばらばらで、若い女もいれば、白髪の男もいる。そのうちの幾人か――全員ではない――が、左の二の腕に布を巻いていた。
染めの布だった。深い、沈んだ青。海の、いちばん深いところの色に近い。巻き方はぞんざいで、端がほつれて垂れているものもある。揃いの制服の一部というふうではなく、めいめいが自分で結んだように見えた。ギアはその青を、なぜか長く目で追った。理由は自分でも分からなかった。
「あれは何の印だ」とギアは訊いた。
「知るかよ」リーチは肩をすくめた。「訊いてくるか? 『すみません、その腕のやつ何ですか』って」
そのとき、広場の南から足音が来た。揃った、重い足音。王軍らしき一隊が石段を駆け上がってくる。
荷台の上の一人が、短く何か言った。叫んだのではない。ただ、通る声で一言。それだけで列が解けた。麦を受けた者は布の端を握って散り、荷台の数人は袋の口を縛りもせず飛び降りて、倉庫の裏の路地へ、宿の脇の隙間へ、それぞれ別の方向へ消えた。荷車だけが、噴水のそばに二台、口の開いた麻袋を載せたまま残された。
兵が広場になだれ込んできたときには、そこにいるのは順番を待っていたふりをして立ち尽くす貧民と、鳩と、ギアとリーチだけだった。指揮官らしい男が荷車を見て、部下に何か指示し、二人の兵が路地へ走った。残りは広場の人々を壁際へ寄せはじめた。
「行くぞ」リーチがギアの袖を引いた。「関わると面倒だ」
ギアは動かなかった。壁際へ追われていく老女の、麦を包んだ布を胸に抱えた手を見ていた。兵はその布を取り上げなかった。取り上げる手間より、広場を空けるほうが先だと判断したらしい。それにも、ある種の理屈が通っている、とギアは思った。通ってはいる。
「ギア」
「ああ」
二人は宿屋の軒下へ下がり、それから壁伝いに広場を出た。背中で、指揮官が住民に向かって何か告げる声がした。言葉は途切れ途切れにしか届かなかった。「……この麦は……蔵から……盗まれた……」。それきり、石壁の角を曲がると声は聞こえなくなった。
歩きながら、ギアは何度か振り返った。めいめいが手ずから結んだような、あのぞんざいな結び目の、深く沈んだ青が、目の裏から離れなかった。
◇
今回の雇い主から紹介された宿は港から二本入った坂道にあった。名前もない、ただ「宿」と板に書いてあるだけの家で、女将はリーチが取り出した金貨を見てから部屋を見せた。二階の、海の見えない側の狭い部屋。それでも、床が揺れないというだけでギアには十分だった。
荷を置き、日が傾いてから、二人はもう一度港へ下りた。次の出航のことを確かめなければならない。桟橋の付け根に、船の発着を書き出す掲示板がある。ギアはそこの前に立ち、木炭で書かれた文字を目で追った。
出航の予定は、三日先まで一隻も書かれていなかった。通常は消しては書き直した跡で真っ黒になっているような板だ。それが、いやに白い。
「妙だな」
「妙なことばかりの島だ」リーチが板の隅を指でこすった。「昨日までの分は消されてる。わざわざな」
掲示板の少し先、道の交わる辻に、人だかりができていた。今度は列ではない。ただ立ち止まって、一方を見上げている。台の上に王軍の男が立ち、羊皮紙を片手に、声を張り上げていた。触れ役だった。
ギアとリーチは人だかりの後ろに立った。触れ役の声は、風と、住民のざわめきに切れ切れに削られて届いた。
「……本日昼過ぎ、港広場において……王の蔵より穀物を奪い……」
前のほうで誰かが低く何か言い、周りの数人がそちらを向いた。
「……これを行いしは、反逆徒党《蒼き風》の者どもであり……」
「聞いたか」リーチがギアの耳元で言った。「《蒼き風》。名前がついてるってことは、王軍はとっくに知ってる相手だ」
「……かの者どもは、迷宮の怪物ミノタウルスの……その意のままに操られ……島の秩序を乱し……」
ざわめきが変わった。小さくなった、と言うべきか。近くにいた女が子どもの手を引いて、人だかりから抜けていった。老人が二人、顔を見合わせて、何も言わずに別々の方向へ歩き出した。「怪物」という言葉のあとで、人々は聞くのをやめたがっているように見えた。
「……よって、明後日日没をもって、港を閉ざす。船の出入りはすべて王軍の許しを要する。荷も、人も……秩序が回復するまで……」
そこから先は、住民のあいだから上がったざわめきに完全に飲まれた。誰かが「いつまでだ」と声を上げ、触れ役は答えず、羊皮紙を巻き直して台を降りた。それだけだった。兵が二人、台のそばに残って、散らない住民を見張った。
ギアは辻を離れながら、聞いた言葉を頭の中で並べ直した。蔵から穀物を奪った。反逆の徒党。怪物に操られている。港を閉ざす。
「明後日の日没」とギアは言った。「それまでに船を見つけないと、島から出られなくなる」
「見つかると思うか。三日先まで一隻も書いてない掲示板を見ただろ」
ギアは黙って坂を上った。宿の前まで来て、ようやく口を開いた。
「王軍の言い分は筋が通っている。蔵の麦が、王の許しなく持ち出されて、道端で配られていた。あれは事実だ。俺たちも見た。放っておけば港はもっと荒れる。封鎖も、乱れる前に手を打つという意味なら――」
「操られてるって顔じゃなかったぞ」
リーチが遮った。軽い口調のままだったが、言葉の置き方は静かだった。
「あの荷台の上の連中だよ。麦をすくってた手つき、覚えてるか。慣れてた。何度もやってる手つきだ。誰かに操られて暴れてる人間は、あんなに落ち着いて『もう一人ぶん』なんて言わない。逃げ方も見ただろ。ばらばらの方向に、迷わず消えた。段取りができてた。あれは正気の人間の動きだ」
ギアは答えようとして、言葉が出てこなかった。青い布の、ほつれた端が、また目の裏をよぎった。
「怪物のことは分からない」とリーチは続けた。「迷宮も、ミノタウルスとやらも、俺は今日はじめて名前を聞いた。だがな、ギア。俺が今日この目で見たものと、あの台の上の男が言ったことは、同じ出来事のはずなのに、噛み合ってない。どちらかが嘘か、少なくとも、全部は言ってない」
海のほうから風が上がってきて、坂道の埃を巻いた。宿の軒に吊るした洗い物が鳴った。ギアはその風の来た方向を、港のほうを、振り返った。防波堤の内側の水面は、朝と同じように動かず、暮れかけた空をべったりと映していた。外から来た風だけが、相変わらず、この島の上を自由に通り抜けていった。
「明日、もう少し港を見る」とギアは言った。「船のことも。話は、それからだ」
リーチは何も言わず、先に宿の戸をくぐった。ギアはもうしばらく、坂の上に立っていた。




