第九話 灯子さん
志保さんにメッセージを送ったのは、翌朝だった。
短く書いた。
『会いたいです。会える場所を教えてもらえますか』
返信は午前中に来た。
『灯子に伝えます。場所と日時は灯子から直接連絡させます。連絡先を教えてもらえますか』
わたしは電話番号を送った。
その日の午後、知らない番号から電話が来た。
着信音が鳴ったとき、わたしは受付に立っていた。画面を見て、知らない番号だと分かって、少し手が止まった。
おばあちゃんが奥から顔を出して、わたしの顔を見た。何も言わなかった。
わたしは電話に出た。
「はい」
「……ひより?」
声が聞こえた瞬間、胸の奥で何かが動いた。知らない声だった。でも、知っている声だった。記憶の中にある声よりも少し低くなっていたが、抑揚の付け方が似ていた。自分の話し方と、少し似ていた。
「はい」
わたしはもう一度言った。
「私、灯子です」
短い沈黙があった。
「分かった」
わたしの声は思ったより平坦だった。
「会いたいって、志保から聞いて」
「はい」
「……来てくれるの?」
「行きます。場所を教えてください」
翌々日の午前中に来てほしいと、母は言った。
場所は、町から電車で一時間ほど離れた、海辺の小さな市にある写真修復の工房だった。住所をメモして、電話を切った。
切ったあと、しばらく受付に立ったまま動けなかった。
おばあちゃんがカウンターから出てきて、そばに立った。
「行くの?」
「行く」
「一人で?」
「一人で行く」
おばあちゃんは頷いた。それ以上何も言わなかった。
蒼には夜に連絡した。
「一人で行く」と言うと、蒼は「分かった」と言った。
「でも、行く前と後に連絡して」
「する」
「何を話すか、決めてる?」
「決めていない。でも、聞きたいことはある」
「何を聞くの」
「なぜわたしを置いていったのか。それだけ」
「それだけ?」
「それ以外は、会ってから考える」
「そうか」
少し間があった。
「ひより、怒っていいからね」
「分かってる」
「怒らなくてもいいけど、怒りたかったら怒っていい。我慢しなくていい」
「分かってる。ありがとう」
当日の朝、早めに起きた。
着替えて、一階に下りると、おばあちゃんがもう台所にいた。朝食の準備をしていた。いつもよりも少しだけ、おかずの品数が多かった。
「食べていきなさい」
「うん」
「電車の時間は?」
「九時十七分」
「余裕があるから、ゆっくり食べていい」
二人で食卓についた。父は今日は来ていなかった。静かな朝だった。
食べながら、おばあちゃんが「緊張している?」と尋ねた。
「少し」
「そうね。緊張するのが当たり前だよ」
「おばあちゃんは、あの人に会いたい?」
おばあちゃんは少し間を置いて、「会いたいよ」と言った。
「でも、今はあなたの番だから」
「わたしの番?」
「あなたが先に向き合う方がいい。順番がある」
わたしはその言い方を少し考えた。順番がある。おばあちゃんと母の間にも、まだ解決していないことがあるのだろうと思った。でも、今日それを聞く余裕はなかった。
電車に乗ると、窓の外に夏の田んぼが続いた。
海に近づくにつれて、景色が変わってきた。田んぼが減って、低い建物が増えた。潮の匂いが車内にも少し入ってきた。
電車の中でずっと、何を言うか考えていた。でも、言葉が決まらなかった。どれだけ考えても、会う前に決めた言葉は、会ってからは使えない気がした。
決めなくていい、とわたしは思った。その場で、出てくるものを言えばいい。
駅から歩いて十分ほどの場所に、工房はあった。
古い民家を改装したような建物で、白い暖簾が入口に下がっていた。表札のような小さな板に、「写真修復 灯子」と書いてある。
わたしはその板を見て、少し立ち止まった。
灯子、という名前だけが書いてある。藤代、という名字がなかった。
暖簾をくぐって、「すみません」と声をかけた。
中から、足音がした。
引き戸が開いた。
女性が立っていた。
四十代後半で、少し白い髪が交じっている。薄いグレーのエプロンをつけていた。細くて、背が少し高かった。目が、わたしと同じ形をしていた。
その人は、わたしを見て、少し息を止めた。
「……ひより」
わたしは何も言わなかった。
十年ぶりだった。でも、顔を見た瞬間に、分かった。写真の中で薄くなっていた輪郭が、今は目の前にある。
「入って」
母は言った。声が少し震えていた。
わたしは頷いて、中に入った。
工房の中は、静かだった。
古い写真が壁に並んでいた。修復前と修復後の写真が対になって展示されている。色あせたものが鮮やかになり、破れたものが補われている。小さな作業台があって、ルーペやブラシが並んでいた。
母はわたしを作業台の横の椅子に案内して、自分も向かいに座った。
お茶を出そうとしたが、わたしは「いいです」と断った。
沈黙があった。
お互いに、何か言おうとしていた。でも、どちらも口を開けなかった。
先に口を開いたのは、わたしだった。
「十年ぶりですね」
「そうね。大きくなった」
「二十歳です」
「知ってる。毎年、誕生日は覚えていた」
その言葉が、少しだけ引っかかった。覚えていた。覚えていても、何もしなかった。でも今は、そこに踏み込まない方がいいと思った。
「お母さんとは、呼ばない方がいい? ……ひよりさん、と呼んだ方がいい?」
その問いかけが、思ったより痛かった。母が自分から距離を測っている。遠慮しながら距離を測っている。
「やめて、気持ち悪い」
母は少し目を伏せた。
「ごめんなさい」
母はそう言った。
十年間、どこかで待っていた言葉だった。
でも、聞いた瞬間、胸の中が軽くなることはなかった。
「それで終わりにしないで」
思ったより低い声が出た。
母が顔を上げた。
「謝ってほしかった。ずっと。でも、謝られたから、もういいよって言えるほど、わたしの十年は短くなかった」
母の顔が、少し歪んだ。
わたしは目をそらさなかった。
「あなたが怖かったことは分かった。自分がいると家族が壊れると思ったことも、分かった。でも、わたしも怖かった」
「ひより」
「朝起きたら、あなたがいなかった。誰もちゃんと説明してくれなかった。おばあちゃんも、お父さんも、わたしを守るみたいな顔をして、何も言わなかった」
言葉にすると、胸の奥に残っていたものが、少しずつ形を持った。
「あなただけじゃない。みんなが、わたしに何も聞かなかった。傷つかないようにって言いながら、わたしが何に傷つくかを、誰もわたしに聞かなかった」
母は何も言わなかった。
言い返してほしかったのかもしれない。
でも、言い返してほしくなかったのかもしれない。
自分でも分からなかった。
「だから、今ここで、全部許すとは言えない」
母の指が、膝の上で小さく震えた。
「うん」
母は小さく頷いた。
「許さなくていい」
「そういう言い方も、少しずるい」
母が息を止めた。
「許さなくていいって言えば、またあなただけが悪者になれば済むみたいに聞こえる。そうじゃなくて、わたしの前にいて。許されるかどうかを、わたしの前で待って」
母は、今度こそ何も言えなくなった。
わたしも、それ以上は言えなかった。
でも、初めて、十年前の玄関に立っていたわたしが、少しだけ声を出せた気がした。
「灯子さん、と呼びます。今は」
「……分かった」
灯子さん、と心の中でもう一度呼んだ。
母ではなく、名前で呼ぶのは、初めてだった。
「聞きたいことがある」
「うん」
「なぜ、わたしを置いていったの」
直接聞いた。前置きなしに。
母はしばらく黙っていた。目を伏せて、エプロンの端を少し触っていた。逃げているわけではないように見えた。言葉を選んでいる顔だった。
「写真から、自分が消え始めていたから。家族写真の中で、私だけが薄くなっていた。それを見て、自分がこの家族の中で居場所を失いかけていると思った」
「それで出ていくの?」
「居場所がなくなる前に、自分から出た方がいいと思った」
「なぜ」
「いなくなるなら、急に消えるよりも、自分の意思で出ていく方が、まだましだと思った。そうすれば、ひよりが傷つかずに済むかもしれないと」
「傷ついた」
わたしは声が、少し硬くなった。
「傷ついたよ。いなくなったことで、傷ついた」
「……そうね。分かってる」
「分かっていて、出ていったの?」
「分かっていなかった。あのときは。傷つかずに済むと、本当に思っていた。でも、それは間違いだった。今は分かっている」
「今分かっても、遅い」
「そうね」
母は否定しなかった。遅い、という言葉を、そのまま受け取った。
「もう一つ聞く。写真館の現象のことが怖かった、というのは本当? 自分がシャッターを切ることで、誰かの居場所を奪っていると思っていた、というのは」
母は少し驚いた顔をした。
「志保から聞いた?」
「はい」
「そうね。本当のこと。でも、それだけが理由ではなかった。写真が怖かったのは本当。でも、文乃さん、あなたのおばあちゃんに言われた言葉も、航平さんの沈黙も、関係していた。全部が重なっていた」
「おばあちゃんに何を言われたの」
母は少し間を置いた。
「継げない人間に写真館の価値は分からないと言われた」
わたしは黙った。
「一度だけ。でも、それがあのとき一番、刺さった」
「それで、出ていく理由になったの?」
「理由の一つになった。でも、それで出ていったとしたら、お母さんを恨んでいるということになる。そうは思いたくない。わたしが弱かったことも、本当だから」
そういう人だ、と志保さんは言っていた。自分が傷つくより、誰かに恨まれる方を選ぶ人。でも今、目の前の母は、誰かを一方的に悪者にしなかった。弱かったと、自分で言った。
それが少しだけ、予想と違った。
「守るためだったって言ってるけど。逃げたんじゃないの」
「逃げた部分もある」
母は間を置かずに言った。
「全部が誰かのためじゃなかった。自分が怖くて、逃げた部分もある。志保にも同じことを言われた。否定できない」
「正直だね」
「今更、嘘をついても意味がない」
「十年前も、そう思えたらよかったのに」
「そうね。そう思えなかったのが、あのときの私だった」
工房の外で、波の音がした。遠くから来る、低い音。この場所は海のそばにあるのだと、そのとき初めて気づいた。
「一つだけ言いたいことがある」
「聞く」
「勝手にわたしの中から消えようとしないで」
母の顔が、少し変わった。
「あなたが写真から薄くなっているのは、わたしの中であなたの居場所がなくなりかけているからかもしれない。でも、それを理由に、あなたが一人で消えていいことにはならない」
母は黙っていた。
「消えていいとは思っていない。今は、そう思っている」
「……ありがとう」
母の声が、低くなっていた。
「感謝されたくて言ったわけじゃない」
「分かってる。でも、言わないといられない」
わたしは少し間を置いた。
「すぐには許せない。今日会って、話を聞いて、少し分かったこともある。でも、すぐには無理」
「許してほしいとは言わない」
「写真館には戻れる?」
母は少し間を置いた。
「今すぐは、無理」
「なぜ」
「お母さんに謝りたい。でも、まだその準備ができていない。謝る言葉が、まだ言葉になっていない」
「逃げてる」
「そうかもしれない」
母は否定しなかった。
わたしは立ち上がった。まだ話し足りない気もしたが、今日はここまでだと思った。これ以上続けると、言いたくないことまで言ってしまう気がした。
「また来るかもしれない」
「いつでも来ていい」
「来ないかもしれない」
「それでも構わない。でも、来てくれた方が、私は嬉しい」
わたしは返事をしなかった。
工房を出ると、海風が来た。さっきより強かった。
歩きながら、胸の中に何かが残っているのを感じた。怒りではなかった。解決でもなかった。何かが少しだけ動いた感じだけが、あった。
スマホが震えた。
蒼からだった。
『会えた?』
短いメッセージだった。
わたしは少し迷ってから、返信した。
『会えた。怒った』
すぐに返事が来た。
『よかった』
よかった、という言葉が意外で、足が止まった。
『怒ったのに?』
『怒れたなら、よかったと思う。前のひよりなら、たぶん平気なふりして帰ってきたから』
わたしは画面を見たまま、しばらく動けなかった。
『平気じゃなかった』
『うん。知ってる』
それだけだった。
でも、その短さに救われることがあるのだと、そのとき少しだけ分かった。
わたしはスマホをポケットに入れた。
電車に乗って、窓の外を見た。
海が、見えた。光の中に、夏の海が広がっていた。
灯子さん、とわたしは心の中で呼んだ。まだ、お母さんとは呼べなかった。でも、灯子さん、という言葉が、少し前よりも近い場所にある気がした。
電車が動き出した。
海が遠ざかっていった。
写真館に戻ると、おばあちゃんが入口のそばに立っていた。わたしの顔を見て、近づいてきた。
「おかえり」
「ただいま」
「疲れた顔をしてる」
「疲れた。でも、大丈夫」
「ご飯、すぐ食べられるから」
「うん」
おばあちゃんはわたしの顔をしばらく見た。何か聞こうとして、止めた。
「話したくなったら、話して」
「うん。今日は少し、一人で考えたい」
「分かった」
二階に上がって、ベッドに横になった。
天井を見た。
母の顔が頭にあった。エプロンをつけていた。写真修復の仕事をしていた。わたしと同じ形の目をしていた。
波の音が、遠くから来るように、頭の中で鳴っていた。
すぐには許せない。でも、消えてほしくない。
その二つが今のわたしにある感情で、それ以上でも以下でもなかった。
窓の外で、夏の夜が始まっていた。




