第八話 消えることを選んだ人
翌朝、蒼に連絡した。
「海辺に行きたい。町外れの、古い写真スタジオがあった場所」
少し間があって、蒼から返信が来た。
「知ってる。廃業したやつでしょ。自転車で行ける。午後からでいい?」
「うん。お願い」
「了解。一時に写真館の前で」
午前中は写真館の仕事を手伝った。
今日は予約が一件だけだった。成人式の前撮りで、親子三人が来た。娘が振り袖を着て、両親が隣に並んで、おばあちゃんがカメラを構える。わたしは照明を調整して、背景紙のしわを直して、小道具を片付けた。
撮影が終わって、客が帰るとき、母親がわたしに話しかけてきた。
「お嬢さんも、写真館を継ぐの?」
「いえ。夏休みだけ、手伝いに来ています」
「そう。でも様になっているわよ。さっき、娘の表情を見ながら動いていたじゃない。ちゃんと写真のことを考えながら働いているって、分かった」
「ありがとうございます」
客が帰ったあと、おばあちゃんが「そうよ」と言った。
「何が」
「様になってきたって話」
おばあちゃんはにこりともしなかったけど、声に柔らかいものがあった。
昼過ぎに蒼が来た。
自転車を二台引いてきていた。
「文乃さんに借りた。ひよりのはガレージにあったから」
「勝手に借りてくるんだ」
「いいじゃん。どうせ使ってないでしょ」
確かにそうだった。わたしは何も言わずに自転車に跨った。
海辺まで、自転車で二十分ほどかかった。
商店街を抜けて、県道を南に下って、堤防沿いの道に入る。夏の光が道路に照り返して、眩しかった。潮の匂いが少しずつ強くなってきた。
「この辺り、来たことある?」
「昔、海水浴に来た気がする。小学校の低学年のころ」
「一緒に来たよ。覚えてない? わたしたちと、ひよりのお母さんが連れてきてくれた」
わたしは少し驚いた。
「そうだっけ」
「そうだよ。麦わら帽子をかぶってた。ひよりのお母さん」
記憶の中に、薄い輪郭がある気がした。でも、はっきりとは思い出せなかった。帽子をかぶった女の人の後ろ姿。それが本当の記憶なのか、今作り上げたものなのか、判別できなかった。
「そっか」
「覚えていなくていいと思う。ただ、あったってことは、あったから」
堤防を越えると、砂浜が見えた。
夏の海は混んでいるかと思ったが、この辺りは観光地ではないらしく、人がほとんどいなかった。砂浜の端に、古い建物が一軒、立っていた。
二階建てで、白い外壁だったのだろうが、今は色が剥げて灰色になっている。木製の看板が玄関の上に掛かっているが、文字はほとんど読めなかった。窓ガラスにひびが入っているところもある。周りに人の気配はなかった。
「ここだ」
蒼が言った。
自転車を砂浜の端に停めて、建物に近づいた。
玄関のドアは古い鍵がついていたが、錠が外れていた。押すと、軋む音を立てて開いた。
中に入ると、思ったより広かった。
一階は撮影スペースだったらしく、今は何もない。床に砂が積もっていて、壁の一面に、大きな鏡が残っていた。鏡の表面に埃が積もっているが、こちら側の姿が薄く映る。
「誰か最近来た?」
蒼が尋ねた。
「分からない。でも、荒らされた感じはしない」
「確かに。ゴミとかないし」
奥に扉があった。開けると、階段があって、地下に続いている。
「暗室かな」
蒼が呟く。
「降りてみる」
「一緒に行く」
スマホのライトをつけて、階段を下りた。
地下は思ったよりも広かった。暗室特有の匂いがした。薬品と、古い紙の匂い。棚が壁に沿って並んでいて、現像に使う道具が残っていた。バット、トング、引き伸ばし機。埃はあるが、きちんと並べられている。誰かが整理した跡がある。
「最近、誰かが来ている」
わたしは言った。
「うん、棚の埃、ここだけ薄い。触った跡がある」
棚の一角に、段ボール箱が置いてあった。蓋が半分開いている。中を覗くと、ネガフィルムが何本も収められていた。年代別に仕分けされていて、ラベルが貼ってある。
わたしはラベルを順番に見た。
二十年以上前のものから始まって、少しずつ新しくなっていく。そして、十年前で止まっていた。
「これ、全部母が撮ったものだと思う」
「ここに保管していたんだ。写真館じゃなくて」
「写真館には置けなかったのかもしれない」
ネガを一本手に取って、ライトに透かしてみた。細かい画像が並んでいるが、肉眼ではよく分からない。
段ボールの一番下に、封筒が一枚入っていた。
宛名はなかった。でも、わたしの名前が表に書いてあった。
几帳面な字で、「ひよりへ」と。
手が少し震えた。
「ひより」
「うん」
「開ける?」
「開ける」
封を切ると、中に紙が一枚入っていた。便箋ではなく、メモ用紙のような薄い紙。そこに、母の字で短い文章が書いてあった。
もしあなたがここに来たなら、ネガを持っていってください。倉庫の写真と合わせて、全部あなたのものです。
私が撮ったものは全部、最初からそのつもりで撮っていました。ひよりが見たくなければ捨てても構いません。でも、捨てるかどうかを選ぶのは、私ではなくあなたの方がいいと思っています。
ここには近々戻るつもりです。会いたければ、志保に連絡してください。会いたくなければ、それでも構いません。どちらでも、私はひよりのことを考えています。
読み終わって、しばらく動けなかった。
蒼がわたしの隣に立って、一緒にその紙を見ていた。何も言わなかった。
わたしも何も言えなかった。
言葉にしようとすると、うまく形にならないものが胸の中にあった。怒りではなかった。悲しみでもなかった。もっと複雑な何かだった。
会いたければ、志保に連絡してください。
その一文が、頭の中で繰り返された。
どちらでも構いません、とも書いてあった。でも、どちらでもいいわけがなかった。どちらでもいいなら、こんな手紙を書かない。会いたければ、という言葉が先に来るのは、会いたいと思っているからだ。でも、それを直接言わない。
やっぱり、勝手だ。とわたしは思った。
でも、勝手だと思う気持ちの中に、別の感情が混じっていた。
この手紙を、いつ書いたのだろう。何年前に書いたのだろう。それとも、志保さんに連絡した後、最近書いたのだろうか。
どちらにしても、ここに来ることを、想定していた。わたしがここに来る日を、想定していた。
「ひより」
「うん」
「読んで、どうだった」
「まだ分からない。でも、会いたくないとは思わなかった」
「うん」
「会いたいとも、はっきりは思えない」
「それで十分だと思う。今は」
わたしは手紙を折り畳んで、ポケットに入れた。ネガの箱は、後でおばあちゃんに相談してから取りに来ることにした。
「蒼」
「なに」
「一人で撮られていた写真がたくさんあったじゃない。倉庫で見た」
「うん」
「わたしが泣いているのも、怒っているのも、全部撮ってた」
「うん」
「それって、どういう意味だと思う? 幸せじゃない顔まで、全部撮って」
蒼は少し考えた。
「幸せじゃない顔も含めて、残したかったんじゃないかな。あなたがそこにいたということを、全部残したかった。きれいな部分だけじゃなくて」
「でも、残しても見せてくれなかった」
「自分だけが持っておくつもりだったのかもしれない。いなくなる代わりに、ひよりの全部を持っていくつもりで」
その言い方が、少し痛かった。
いなくなる代わりに、全部持っていく。
「やっぱり勝手だ」
わたしがそう言ったら、
「そうだね。かなり勝手だと思う」
蒼が即答した。
「でも」
「でも?」
「写真の中の顔が、全部ちゃんと撮られていた。泣いてる顔も、怒ってる顔も、ちゃんとそこに写ってた。誤魔化してなかった」
「うん」
「それだけは、正直だったと思う」
蒼は何も言わなかった。でも、頷いた。
地下の暗室を出て、一階に上がった。
大きな鏡の前に立つと、埃越しに自分の顔が映った。夏の光が斜めに差し込んでいて、顔の半分だけが明るかった。
母はここで、鏡越しに自分を撮った。その写真が、薄かった。
今、この鏡の前に立っているのはわたしだった。
薄くない。ちゃんと映っている。
建物を出ると、海風が来た。
砂浜の向こうに、夏の海が光っていた。人がほとんどいない海は、少し静かすぎるくらいだった。
自転車のそばまで歩いて、蒼が「帰る?」と尋ねた。
「もう少しだけここにいたい」
「うん」
二人で砂浜に座った。蒼は何も言わなかった。わたしも何も言わなかった。
波が来て、引いて、また来た。
ポケットの中に、母の手紙があった。
いつか志保さんに連絡する、とわたしは思った。いつか、という言葉がまだ正確だったが、それよりも近い気がした。
写真館に戻ると、おばあちゃんがカウンターにいた。
わたしの顔を見て、何かを読んだ。
「どうだった」とは聞かなかった。ただ、「お茶、入れようか」と言った。
「うん」
おばあちゃんがお茶を入れている間に、わたしはカウンターの椅子に座った。
窓の外に、夕方の商店街が見えた。シャッターの下りた店が夕日を受けて、オレンジ色に光っている。
「おばあちゃん」
「なに」
「ネガが残っていた。暗室に」
「そう」
おばあちゃんは驚いた様子はなかった。
「残っていたのね」
「取りに行っていい?」
「あなたのものよ。灯子が撮ったものは、全部あなたのものだから」
その言い方が、手紙の言葉と重なった。
わたしはお茶を受け取って、一口飲んだ。温かかった。
「おばあちゃん」
「なに」
「母に、会いに行くかもしれない」
おばあちゃんは少し間を置いた。
「そう」
「止めない?」
「止めない」
「背中を押す?」
「それも、しない。あなたが決めることだから」
わたしは頷いた。
夕方の光が写真館の中に入ってきて、古い三脚や背景紙のロールを薄く照らしていた。
カウンターの上に、台帳がある。今日の予約が書いてある。明日の予約が書いてある。写真館は明日も続く。
わたしはお茶を飲み干して、「ご飯、手伝う」と言った。
「ありがとう」
台所に向かいながら、ポケットの中の手紙の重みを感じていた。
薄い紙一枚の重みは、思ったよりも重かった。
その夜遅く、倉庫に入った。
アルバムを棚から取り出した。
四人写真のページを開いた。
母の輪郭は、さらに薄くなっていた。顔の形はまだ分かるが、表情の細部が消えかけていた。笑っているのは分かる。でも、その笑いがどんな笑いなのかが、もう読み取れなかった。
まだ、許したわけではなかった。
母が怖かったことを知っても、わたしの十年が消えるわけではない。置いていかれた朝も、誰にも説明されなかった時間も、ちゃんと残っている。
わたしはしばらくその写真を見た。
消えてほしくない、とわたしは思った。
それは初めての感情だった。今まで、あの人が消えることに、どこかで安堵に近いものを感じていた。消えれば、向き合わなくて済む。消えれば、期待しなくて済む。消えれば、傷つかなくて済む。
でも今夜は違った。
消えてほしくなかった。
その感情が何を意味するのか、まだうまく言葉にできなかった。でも、ある、とは分かった。確かに、ある。
アルバムを閉じた。
明日、志保さんに連絡しようとわたしは思った。




