第七話 久我志保と、灯子の横顔
図書館を訪ねた翌日、志保さんからメッセージが届いた。
短い文章だった。『灯子に連絡しました。あなたに話せることを、もう少し伝えたいことがあります。都合のいい日を教えてください』
わたしはメッセージを読んで、すぐに返信した。
『明日でもいいですか』
『構いません。午後二時に、昨日と同じ場所で』
翌日の午前中、写真館の仕事を手伝った。
証明写真が一件、家族写真の問い合わせが一件。おばあちゃんの隣に立って、接客の流れを確認した。昨日と一昨日より、少し仕事が身についてきた気がした。受付の言葉が自然に出てくるようになって、客の顔を見ながら話せるようになってきた。
昼前に、おばあちゃんがわたしを呼んだ。
「今日も図書館に行くの?」
「午後に。志保さんから連絡があって」
「そう、行っておいで」
それだけだった。止めなかった。余計なことも言わなかった。
わたしは少し迷ってから、「おばあちゃん」と言った。
「なに」
「お父さんと話した。昨日の夜に」
「聞いた」
「全部じゃないけど、少し分かってきた。あの人がなぜ出ていったのか」
おばあちゃんは手を止めて、わたしを見た。
「帰ってきたら、ちゃんと話してほしい。約束したから」
「うん、約束は守る」
その言葉に、昨日よりは少し重みがあった。
図書館に着くと、志保さんはすでに応接室にいた。
今日は昨日より少しだけ、表情が柔らかかった。テーブルの上に紙コップが二つ置いてあって、お茶が入っていた。
「来てくれてありがとう」
「こちらこそ、昨日は急に押しかけてすみませんでした」
「いいの。来るかもしれないと思っていたから」
志保さんはわたしを見た。
「昨日、お父さんとも話したの?」
「どうして分かったんですか」
「顔が、昨日より少し違う。何かを聞いた顔をしている」
わたしは少し苦笑いした。
「話しました。少しだけ」
「そう。お父さんはどうだった」
「全部話してくれたわけじゃないけど、黙っていたのは自分を守るためでもあったって、ようやく言えたみたいで」
「そっか」
志保さんは小さく頷いた。
「航平さんはそういう人だから。悪い人じゃないんだけど、肝心なことを言うのに時間がかかる」
「知ってる人みたいに言いますね」
「大学のころから知ってる。灯子の彼氏だったころから」
そうか、とわたしは思った。この人は、長い時間をかけて、あの家族の外側から見てきた人なのかもしれない。
「昨日、話しきれなかったことを伝えたい。灯子がどういう状態だったか、出ていく前の話を」
「聞かせてください」
志保さんはお茶を一口飲んで、少し間を置いた。
「灯子はね、写真を撮ることが怖くなっていた。写真館の現象を、ずっと見てきたから」
「現象、というのは」
「家族の写真が薄くなること。居場所が変わる人が、写真に先に出ること」
「おばあちゃんから聞いた」
「文乃さんはそれを、写真館の力だと思っている。家族が変わる前に、最後の一枚を残すための力だと。でも、灯子はそう思えなかった」
「どう思っていたの」
「自分が写真を撮ることで、その別れを決定づけているんじゃないかと。シャッターを切るたびに、誰かの居場所を奪っているんじゃないかと。そう思うようになっていった」
わたしは少し黙った。
「それは、本当にそうなの? 写真が原因で、居場所が変わるの?」
「違うと思う」
志保さんは即答した。
「でも、灯子にはそう見えた。長い時間をかけて、そう見えるようになっていってしまった。人って、追い詰められると、そういう方向に考えが固まっていくことがある」
「誰も、それを止めなかったの?」
「止めようとした人はいた。文乃さんも、航平さんも。わたしも。でも、灯子の中で一度そう思い込んでしまうと、外からの言葉が届かなくなっていた」
そういう人だ、と志保さんは昨日も言っていた。自分が傷つくより、誰かに恨まれる方を選ぶ人。そしてその選択を、一人で完結させてしまう人。
「十年前の夏に、灯子から連絡があった。自分が家族写真の中で薄くなり始めていると。どうすればいいか分からない、と」
「どう答えたんですか」
「写真館に残りなさい、と言った。薄くなっているのなら、撮ればいい。家族の写真を撮って、ここにいることを証明すればいいと言った」
「それで?」
「灯子は、それができないと言った」
志保さんの声が、少しだけ低くなった。
「撮ることが怖い、と言った。シャッターを切るたびに、家族が壊れていく気がすると言った。それよりも、自分が出ていく方が、家族は壊れずに済むと言った」
わたしはしばらく黙っていた。
自分が出ていく方が、家族は壊れずに済む。
その言葉が、頭の中で繰り返された。
「間違っていると思う。それは、間違ってる」
わたしは声が少し固くなった。
「そうね。間違っていると思う。でも、灯子はそれが正しいと思っていた。少なくとも、あのときは」
「なぜ出ていくことが正しいの。わたしを置いていくことが、正しいわけがない」
「ない。でも、灯子は、ひよりをひよりの中から消えるより前に、残しておきたかった。写真に撮って、自分の記憶に刻んで、それから出ていこうとした。あの写真の束は、そのために撮ったものよ」
わたしは紙コップを両手で持ったまま、少し下を向いた。
倉庫で見た写真の束が、頭の中にあった。笑っている顔、泣いている顔、眠っている顔、怒っている顔。全部撮っていた。
「それが、どれほど勝手なことか、分かってる? 残しておきたかったって、わたしの気持ちは関係ないじゃないの」
「分かってる。灯子も、今は分かっていると思う」
「今は、ということは」
「今の灯子は、あのときの自分が正しかったとは思っていない。それだけは言える」
その言葉が、少しだけ、胸の中のどこかにひっかかった。正しかったとは思っていない。謝罪でも弁解でもない。ただ、そういう事実として、志保さんは言った。
「母に連絡してくれたんですよね。わたしが図書館に来たこと、伝えてくれたんですよね」
「伝えた」
「どういう反応でしたか」
志保さんは少し間を置いた。
「黙ってた。長い間、黙ってた。それから、会うかどうか、自分で考えさせてほしいと言った」
「会う気があるかどうか、ということ?」
「あなたが会いたいかどうか、ということだと思う。あなたの意思を確認してほしいと、灯子は言ってた」
わたしは少し考えた。
「わたしが会いたいかどうか」
「そう」
「会いたいかどうか、まだ分からない。でも、聞きたいことはある」
「灯子に直接?」
「はい」
「それを、灯子に伝えてもいい?」
「はい」
志保さんは頷いた。
「分かった。伝える」
少し間があって、志保さんが続けた。
「もう一つ、伝えておきたいことがある」
「なんですか」
「灯子の居場所のことよ。直接教えることは灯子の了承が必要だから、まだできない。でも、ヒントだけなら言える」
「聞かせてください」
「町外れに、海辺がある。昔、小さな写真スタジオがあった場所。灯子が若いころ、独立を考えていた場所」
志保さんはわたしの顔を見た。
「そこに、灯子が使っていた暗室が残っている。まだ、物がある」
「今も、母がそこに?」
「行けば分かる」
志保さんはそれだけ言った。
応接室を出るとき、志保さんが「一つだけ聞いてもいい?」と言った。
「なんですか」
「灯子を、どう思っている? 今の時点で」
わたしは少し考えた。正直に答えることにした。
「怒っています。ずっと怒ってた。でも、最近、怒りだけじゃなくなってきた気がする。どう言えばいいか分からないけど、あの人がただ自分を捨てた人じゃないかもしれない、という感じが出てきた。それが余計に、面倒くさい」
志保さんは少し笑った。笑うとは思っていなかったので、わたしは少し驚いた。
「それは灯子そっくりだ」
「何が?」
「面倒くさい、って言うところ。灯子も、自分の感情を持て余すと、面倒くさいって言う」
わたしは答えなかった。
似ている、と言われることが、少し居心地が悪かった。でも、否定もできなかった。
図書館を出ると、夏の光が眩しかった。
銀杏の木の影が、コンクリートに濃く伸びている。わたしはその影の中にしばらく立って、海の方角を見た。
町外れに、海辺がある。昔、写真スタジオがあった場所。
明日、蒼と行ってみようと思った。
その夜、写真館に戻ると、おばあちゃんが待っていた。
夕食の片付けが終わっていて、おばあちゃんはカウンターに座って台帳を閉じていた。
「おかえり」
「ただいま」
「ご飯は?」
「食べてきた」
「そう。話す」
わたしは少し驚いた。
「今夜?」
「今夜がいいと思って。ひよりが動くたびに、私も少しずつ、ちゃんと話さないといけないと思い直してる」
わたしはおばあちゃんの向かいに座った。
「全部、聞かせて」
「全部は、まだ難しい。でも、今言えることを言う」
「お願いします」
おばあちゃんは少し間を置いた。台帳を両手で挟んで、その感触を確かめるようにしていた。
「灯子は、写真館を継ぎたかったのか、どうか。私には、最後まで分からなかった。継ぎたいと言った。でも、目が、そう言っていないことがあった」
「なぜ確認しなかったの?」
「怖かった。継がないと言われることが」
その言葉に、少し驚いた。おばあちゃんがそういう弱さを直接言葉にするのを、初めて聞いた気がした。
「写真館を守ることが、私の全部だった。それはずっとそうだった。でも、それが灯子を追い詰めていたとしたら、私にも責任がある」
「あると思う。おばあちゃんにも」
「そうね」
おばあちゃんは否定しなかった。
「灯子が出ていく前の夜、喧嘩した。継ぐことへの焦りから、言い過ぎた。それが最後になった」
「何を言ったの」
「……今は、その言葉を繰り返す気になれない。でも、言ってはいけないことを言った。それは分かっている」
わたしは黙っていた。
「灯子が出ていったのは、写真館の現象のせいだけじゃない。私の言葉も、関係していた。航平さんの沈黙も。全部が重なっていた」
「誰か一人だけが悪かったわけじゃない、ということ?」
「そう思っている。でも、だからといって、誰も悪くないとも思っていない」
その言葉は、正直だと思った。きれいな言い方ではなかったけれど、正直だった。
「おばあちゃん」
「なに」
「今話してくれたこと、もっと早く話せたと思う?」
おばあちゃんは少し考えた。
「思えない。ひよりが今ここに来て、動き始めなかったら、私はまだ話せていなかったかもしれない」
「なんで」
「怖かったから。ひよりに嫌われることが。知った上で、それでも嫌いにならないでいてくれるか、分からなかった」
わたしはおばあちゃんの顔を見た。
この人が怖いと思っていた。長年写真館を守ってきて、芯が強くて、穏やかで。そういう人が、わたしに嫌われることを怖がっていた。
「嫌いにはならない。でも、傷ついたとは思ってる」
「それでいい。それが正直なことだから」
店の外で、夜の商店街が静かに続いていた。
わたしは椅子から立ち上がった。
「おやすみ」
「おやすみ、ひより。明日、海辺に行くんでしょう」
わたしは少し驚いた。志保さんから連絡があったのかもしれない。あるいは、おばあちゃんには分かっていたのかもしれない。
「うん」
「気をつけて」
おばあちゃんは余計なことを言わなかった。引き止めなかった。
わたしは頷いて、階段を上がった。




