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明日、家族写真から母が消える  作者: 明石竜


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7/12

第七話 久我志保と、灯子の横顔

 図書館を訪ねた翌日、志保さんからメッセージが届いた。

 短い文章だった。『灯子に連絡しました。あなたに話せることを、もう少し伝えたいことがあります。都合のいい日を教えてください』

 わたしはメッセージを読んで、すぐに返信した。

『明日でもいいですか』

『構いません。午後二時に、昨日と同じ場所で』


 翌日の午前中、写真館の仕事を手伝った。

 証明写真が一件、家族写真の問い合わせが一件。おばあちゃんの隣に立って、接客の流れを確認した。昨日と一昨日より、少し仕事が身についてきた気がした。受付の言葉が自然に出てくるようになって、客の顔を見ながら話せるようになってきた。

 昼前に、おばあちゃんがわたしを呼んだ。

「今日も図書館に行くの?」

「午後に。志保さんから連絡があって」

「そう、行っておいで」

 それだけだった。止めなかった。余計なことも言わなかった。

 わたしは少し迷ってから、「おばあちゃん」と言った。

「なに」

「お父さんと話した。昨日の夜に」

「聞いた」

「全部じゃないけど、少し分かってきた。あの人がなぜ出ていったのか」

 おばあちゃんは手を止めて、わたしを見た。

「帰ってきたら、ちゃんと話してほしい。約束したから」

「うん、約束は守る」

 その言葉に、昨日よりは少し重みがあった。


 図書館に着くと、志保さんはすでに応接室にいた。

 今日は昨日より少しだけ、表情が柔らかかった。テーブルの上に紙コップが二つ置いてあって、お茶が入っていた。

「来てくれてありがとう」

「こちらこそ、昨日は急に押しかけてすみませんでした」

「いいの。来るかもしれないと思っていたから」

 志保さんはわたしを見た。

「昨日、お父さんとも話したの?」

「どうして分かったんですか」

「顔が、昨日より少し違う。何かを聞いた顔をしている」

 わたしは少し苦笑いした。

「話しました。少しだけ」

「そう。お父さんはどうだった」

「全部話してくれたわけじゃないけど、黙っていたのは自分を守るためでもあったって、ようやく言えたみたいで」

「そっか」

志保さんは小さく頷いた。

「航平さんはそういう人だから。悪い人じゃないんだけど、肝心なことを言うのに時間がかかる」

「知ってる人みたいに言いますね」

「大学のころから知ってる。灯子の彼氏だったころから」

 そうか、とわたしは思った。この人は、長い時間をかけて、あの家族の外側から見てきた人なのかもしれない。

「昨日、話しきれなかったことを伝えたい。灯子がどういう状態だったか、出ていく前の話を」

「聞かせてください」

 志保さんはお茶を一口飲んで、少し間を置いた。

「灯子はね、写真を撮ることが怖くなっていた。写真館の現象を、ずっと見てきたから」

「現象、というのは」

「家族の写真が薄くなること。居場所が変わる人が、写真に先に出ること」

「おばあちゃんから聞いた」

「文乃さんはそれを、写真館の力だと思っている。家族が変わる前に、最後の一枚を残すための力だと。でも、灯子はそう思えなかった」

「どう思っていたの」

「自分が写真を撮ることで、その別れを決定づけているんじゃないかと。シャッターを切るたびに、誰かの居場所を奪っているんじゃないかと。そう思うようになっていった」

 わたしは少し黙った。

「それは、本当にそうなの? 写真が原因で、居場所が変わるの?」

「違うと思う」

志保さんは即答した。

「でも、灯子にはそう見えた。長い時間をかけて、そう見えるようになっていってしまった。人って、追い詰められると、そういう方向に考えが固まっていくことがある」

「誰も、それを止めなかったの?」

「止めようとした人はいた。文乃さんも、航平さんも。わたしも。でも、灯子の中で一度そう思い込んでしまうと、外からの言葉が届かなくなっていた」

 そういう人だ、と志保さんは昨日も言っていた。自分が傷つくより、誰かに恨まれる方を選ぶ人。そしてその選択を、一人で完結させてしまう人。

「十年前の夏に、灯子から連絡があった。自分が家族写真の中で薄くなり始めていると。どうすればいいか分からない、と」

「どう答えたんですか」

「写真館に残りなさい、と言った。薄くなっているのなら、撮ればいい。家族の写真を撮って、ここにいることを証明すればいいと言った」

「それで?」

「灯子は、それができないと言った」

志保さんの声が、少しだけ低くなった。

「撮ることが怖い、と言った。シャッターを切るたびに、家族が壊れていく気がすると言った。それよりも、自分が出ていく方が、家族は壊れずに済むと言った」

 わたしはしばらく黙っていた。

 自分が出ていく方が、家族は壊れずに済む。

 その言葉が、頭の中で繰り返された。

「間違っていると思う。それは、間違ってる」

わたしは声が少し固くなった。

「そうね。間違っていると思う。でも、灯子はそれが正しいと思っていた。少なくとも、あのときは」

「なぜ出ていくことが正しいの。わたしを置いていくことが、正しいわけがない」

「ない。でも、灯子は、ひよりをひよりの中から消えるより前に、残しておきたかった。写真に撮って、自分の記憶に刻んで、それから出ていこうとした。あの写真の束は、そのために撮ったものよ」

 わたしは紙コップを両手で持ったまま、少し下を向いた。

 倉庫で見た写真の束が、頭の中にあった。笑っている顔、泣いている顔、眠っている顔、怒っている顔。全部撮っていた。

「それが、どれほど勝手なことか、分かってる? 残しておきたかったって、わたしの気持ちは関係ないじゃないの」

「分かってる。灯子も、今は分かっていると思う」

「今は、ということは」

「今の灯子は、あのときの自分が正しかったとは思っていない。それだけは言える」

 その言葉が、少しだけ、胸の中のどこかにひっかかった。正しかったとは思っていない。謝罪でも弁解でもない。ただ、そういう事実として、志保さんは言った。

「母に連絡してくれたんですよね。わたしが図書館に来たこと、伝えてくれたんですよね」

「伝えた」

「どういう反応でしたか」

 志保さんは少し間を置いた。

「黙ってた。長い間、黙ってた。それから、会うかどうか、自分で考えさせてほしいと言った」

「会う気があるかどうか、ということ?」

「あなたが会いたいかどうか、ということだと思う。あなたの意思を確認してほしいと、灯子は言ってた」

 わたしは少し考えた。

「わたしが会いたいかどうか」

「そう」

「会いたいかどうか、まだ分からない。でも、聞きたいことはある」

「灯子に直接?」

「はい」

「それを、灯子に伝えてもいい?」

「はい」

 志保さんは頷いた。

「分かった。伝える」

 少し間があって、志保さんが続けた。

「もう一つ、伝えておきたいことがある」

「なんですか」

「灯子の居場所のことよ。直接教えることは灯子の了承が必要だから、まだできない。でも、ヒントだけなら言える」

「聞かせてください」

「町外れに、海辺がある。昔、小さな写真スタジオがあった場所。灯子が若いころ、独立を考えていた場所」

志保さんはわたしの顔を見た。

「そこに、灯子が使っていた暗室が残っている。まだ、物がある」

「今も、母がそこに?」

「行けば分かる」

志保さんはそれだけ言った。

 応接室を出るとき、志保さんが「一つだけ聞いてもいい?」と言った。

「なんですか」

「灯子を、どう思っている? 今の時点で」

 わたしは少し考えた。正直に答えることにした。

「怒っています。ずっと怒ってた。でも、最近、怒りだけじゃなくなってきた気がする。どう言えばいいか分からないけど、あの人がただ自分を捨てた人じゃないかもしれない、という感じが出てきた。それが余計に、面倒くさい」

 志保さんは少し笑った。笑うとは思っていなかったので、わたしは少し驚いた。

「それは灯子そっくりだ」

「何が?」

「面倒くさい、って言うところ。灯子も、自分の感情を持て余すと、面倒くさいって言う」

 わたしは答えなかった。

 似ている、と言われることが、少し居心地が悪かった。でも、否定もできなかった。


 図書館を出ると、夏の光が眩しかった。

 銀杏の木の影が、コンクリートに濃く伸びている。わたしはその影の中にしばらく立って、海の方角を見た。

 町外れに、海辺がある。昔、写真スタジオがあった場所。

 明日、蒼と行ってみようと思った。


 その夜、写真館に戻ると、おばあちゃんが待っていた。

 夕食の片付けが終わっていて、おばあちゃんはカウンターに座って台帳を閉じていた。

「おかえり」

「ただいま」

「ご飯は?」

「食べてきた」

「そう。話す」

 わたしは少し驚いた。

「今夜?」

「今夜がいいと思って。ひよりが動くたびに、私も少しずつ、ちゃんと話さないといけないと思い直してる」

 わたしはおばあちゃんの向かいに座った。

「全部、聞かせて」

「全部は、まだ難しい。でも、今言えることを言う」

「お願いします」

 おばあちゃんは少し間を置いた。台帳を両手で挟んで、その感触を確かめるようにしていた。

「灯子は、写真館を継ぎたかったのか、どうか。私には、最後まで分からなかった。継ぎたいと言った。でも、目が、そう言っていないことがあった」

「なぜ確認しなかったの?」

「怖かった。継がないと言われることが」

 その言葉に、少し驚いた。おばあちゃんがそういう弱さを直接言葉にするのを、初めて聞いた気がした。

「写真館を守ることが、私の全部だった。それはずっとそうだった。でも、それが灯子を追い詰めていたとしたら、私にも責任がある」

「あると思う。おばあちゃんにも」

「そうね」

おばあちゃんは否定しなかった。

「灯子が出ていく前の夜、喧嘩した。継ぐことへの焦りから、言い過ぎた。それが最後になった」

「何を言ったの」

「……今は、その言葉を繰り返す気になれない。でも、言ってはいけないことを言った。それは分かっている」

 わたしは黙っていた。

「灯子が出ていったのは、写真館の現象のせいだけじゃない。私の言葉も、関係していた。航平さんの沈黙も。全部が重なっていた」

「誰か一人だけが悪かったわけじゃない、ということ?」

「そう思っている。でも、だからといって、誰も悪くないとも思っていない」

 その言葉は、正直だと思った。きれいな言い方ではなかったけれど、正直だった。

「おばあちゃん」

「なに」

「今話してくれたこと、もっと早く話せたと思う?」

 おばあちゃんは少し考えた。

「思えない。ひよりが今ここに来て、動き始めなかったら、私はまだ話せていなかったかもしれない」

「なんで」

「怖かったから。ひよりに嫌われることが。知った上で、それでも嫌いにならないでいてくれるか、分からなかった」

 わたしはおばあちゃんの顔を見た。

 この人が怖いと思っていた。長年写真館を守ってきて、芯が強くて、穏やかで。そういう人が、わたしに嫌われることを怖がっていた。

「嫌いにはならない。でも、傷ついたとは思ってる」

「それでいい。それが正直なことだから」

 店の外で、夜の商店街が静かに続いていた。

 わたしは椅子から立ち上がった。

「おやすみ」

「おやすみ、ひより。明日、海辺に行くんでしょう」

 わたしは少し驚いた。志保さんから連絡があったのかもしれない。あるいは、おばあちゃんには分かっていたのかもしれない。

「うん」

「気をつけて」

おばあちゃんは余計なことを言わなかった。引き止めなかった。

 わたしは頷いて、階段を上がった。

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