第六話 父が黙っていた理由
図書館から帰ってきたのは、夕方近くだった。
蒼は途中で「うちに寄っていく?」と言ったが、わたしは「今日は一人でいたい」と答えた。蒼は何も言わずに頷いて、商店街の角で別れた。
写真館に戻ると、おばあちゃんがカウンターにいた。わたしの顔を見て、何か読もうとするような目をした。
「ただいま」
「おかえり。ご飯、作ってあるから」
「後で食べる。少し部屋にいる」
「うん」
おばあちゃんはそれ以上聞かなかった。約束通り、話す機会は作ってくれるのだろう。でも今夜は、まだ頭の中を整理したかった。
二階の部屋に上がって、ベッドに横になった。
天井を見ながら、志保さんから聞いた話を頭の中で繰り返した。
志保さんが話してくれたことは、すべてではなかった。でも、輪郭だけはつかめた。
母は若いころから、藤代写真館の不思議な現象を知っていた。家族写真から、もうすぐ家族の中で居場所を失う人が薄くなる。おばあちゃんがそれを教えたのか、自然に気づいたのかは分からないが、母は長い時間をかけてそれを見てきた。
家族の死、別居、絶縁。写真が先に変わるたびに、そのあとで現実が変わった。母はそれを、何度も見た。撮るたびに、誰かの居場所が変わることを知った。
もちろん、写真が未来を決めるわけではないのだと思う。薄く写ったから、その人が必ずいなくなるわけではない。けれど、もう心のどこかで始まっている変化を、写真だけが先に拾ってしまう。母はきっと、そう受け取っていた。
そして十年前の夏、母自身が家族写真の中で薄くなり始めた。
母は写真を見て、自分が家族から消えることを知った。でも、志保さんが言うには、母が恐れていたのはそれだけではなかった。母が本当に怖かったのは、自分がいることで家族が壊れることだった。写真に出ているのなら、もう手遅れかもしれない。それなら、自分から出ていった方がいい。そう思ったのだと志保さんは言った。
それが正しかったのか、間違っていたのか。
志保さんは判断しなかった。ただ、「灯子はそういう人だ」と言った。自分が傷つくより、誰かに恨まれる方を選ぶ人だ、と。
わたしはその言葉を聞きながら、怒りとも悲しみともつかない感情が胸の中にあるのを感じていた。正しいとは思えない。でも、完全に間違いとも言い切れない気がして、それが余計に苦しかった。
しばらくして、階段を上がってくる足音がした。
おばあちゃんではなかった。足音が違う。
ノックがあって、「ひより」と声がした。
父の声だった。
「入っていいか」
「いいよ」
ドアが開いて、入ってきた。仕事帰りで、まだポロシャツ姿だった。部屋の入口に立って、わたしを見た。
「文乃さんから聞いた。図書館に行ったって」
「うん」
「志保さんに会ったのか」
わたしは少し驚いた。
「久我さんのこと、知ってるの」
「名前だけは、灯子の同級生で、図書館にいる人だとは聞いていた」
「話を聞いてきた。母が出ていった前後のことを、少しだけ」
父は何も言わなかった。
「入っていいか?」
「いいよ」
父は部屋に入って、机の前の椅子を引いた。わたしはベッドに座ったまま、父を見た。
父は少し迷っているような顔をしていた。何かを言おうとして、言葉を探している顔。
「話すことがあるなら、聞く」
父は少し頷いた。
「俺からも、少し話しておきたいことがあって」
「今日?」
「今日がいいと思って。お前が動き始めたから」
父はしばらく床を見ていた。
どこから話せばいいか、整理しているように見えた。わたしは待った。急かさなかった。急かしても、この人はうまく話せない。子どものころからそれは知っていた。
「灯子が出ていったのは、突然じゃなかった」
「知ってる。志保さんから聞いた」
「そうか」
父は少し顔を上げた。
「どこまで聞いた」
「写真が薄くなり始めていたこと。母が自分から消えようとしていたこと」
「……じゃあ、ある程度は分かってるんだな」
「全部じゃないと思う」
「全部じゃないな。俺も、全部は知らない。でも、俺が知っていることは、俺から話す方がいい気がした」
わたしは頷いた。
「あの夏の前から、灯子の様子がおかしかった。眠れていないのが分かった。ご飯も、あまり食べなくなった。写真館に出てはいるけど、帰ってくると何も言わずに部屋に篭ることが増えた」
「気づいてたんだ」
「気づいてた。でも、何が原因なのか分からなかった。最初は仕事の疲れだと思った。写真館の経営は楽じゃないし、文乃さんとの関係もあったから」
「文乃さんとの関係?」
父は少し間を置いた。
言葉を選ぶように、視線を膝のあたりへ落とした。
「文乃さんは、灯子に写真館を継がせたかった。灯子は継ぐと言っていたけど、本当はそうじゃなかったのかもしれない。俺はそれをうまく汲んでやれなかった」
「なんで言わなかったの、母に」
「言えなかった。言えばよかったんだが、うまく踏み込めなかった。灯子が話したいときに話してくれればいいと思って、待っていた。でも、待つだけじゃ足りなかった」
父の声は、責めているような様子はなかった。ただ、事実を言葉にしているような声だった。それがかえって、少し重く聞こえた。
「ある日、灯子に話を聞いた。何が辛いのか、教えてほしいって。それで、写真館の現象のことを話してくれた。自分が家族写真の中で薄くなり始めていると」
「そのとき、お父さんはどう思った?」
父は少し考えた。「正直に言う」と前置きして、「最初は、信じられなかった」と言った。
「写真が薄くなることが?」
「そう。フィルムの問題か、保存状態のせいだと思った。写真館の怪談みたいなものだと、どこかで思っていた」
「でも、本当に薄くなっていた」
「後から見たら、そうだった。でも、そのときは半信半疑だった。灯子が追い詰められているのは分かった。でも、写真のせいだとは、どうしても思いきれなかった」
わたしはその言葉を聞いて、少し黙った。
半信半疑だった、という言葉が、思ったよりも長く頭の中に残った。信じきれなかった。でも否定もしなかった。そのどちらでもない場所に、父はいた。
「灯子が、私は家族から消えるって言ったとき。止めようとした」
「止められなかった?」
「止めきれなかった。止めようとした。でも、灯子の目を見たら、もう決まっているのが分かった。何を言っても変わらないと、そう思った。それで、最後まで言い切れなかった」
「何を言おうとしたの」
「いてくれ、ということだけだ。複雑な話じゃない。ただ、ここにいてくれと言いたかった。でも、それを言い切れなかった」
わたしは父を見た。
この人は、ずっとそういう人だった。言いたいことがあっても、最後の一言が出ない。踏み切れない。子どものころからそれは知っていた。そして、それがもどかしかったことも知っていた。でも、今こうして話を聞くと、もどかしさとは別の何かもあった。
「わたしには、なぜ話さなかったの」
「ひよりを守るためだと思っていた。灯子への怒りを持たせたくなかった。傷つけたくなかった」
「でも、知らないままの方が傷ついた」
「……分かってる。今は分かってる。でも、そのときは、話すことが傷つけることだと思っていた。だから黙っていた」
わたしは少し間を置いた。
「わたしを守るためだったって言ったけど、本当はそれだけじゃなかったんじゃないの」
父は顔を上げた。
「自分が思い出すのも、辛かったんじゃないの」
沈黙があった。
長い沈黙だった。
父は少し目を伏せた。
「……そうかもしれない。そうだったと思う。ひよりのためだけじゃなかった。俺が、思い出したくなかった」
「それを言えたら、よかったのに」
「そうだな。ずっと、そう思ってる」
わたしは何も言わなかった。
怒りはあった。でも、それと同じくらい、父の言葉の重さが分かる気もした。この人は悪い人ではない。悪くないからこそ、どう怒ればいいのか分からなかった。
しばらく黙っていて、父が口を開いた。
「ひより」
「なに」
「灯子に会うつもりか」
わたしは少し考えた。
「まだ決めてない。でも、会うことになるかもしれない」
「そうか」
「お父さんは、どう思う」
父は少し間を置いた。
「許さなくていい。でも、話す機会だけは、奪わないでほしい」
「どっちのために?」
「ひよりのために。灯子のためでもあるかもしれないけど、一番はひよりのために」
わたしはその言葉を聞いて、少し黙った。
許さなくていい。でも、話す機会だけは奪わないでほしい。
それは、背中を押す言葉でも、強制する言葉でもなかった。ただ、父が十年間かけてたどり着いた、正直な言葉だと思った。
「分かった」
「無理しなくていいぞ」
「分かってる」
父は立ち上がった。
「ご飯、下にあるから。一緒に食べようか」
「うん」
二人で階段を下りながら、わたしは一つだけ聞いた。
「お父さんは、あの人のことを今でも怒ってる?」
父は少し考えた。
「怒っているというよりは、後悔している」
「何を?」
「あのとき、もっとちゃんと向き合っていたら、違ったかもしれないと。それだけだ」
わたしは何も言わなかった。
台所に入ると、おばあちゃんが温め直した味噌汁を鍋に移していた。三人分の茶碗が並んでいた。いつもよりも少しだけ、その並び方が広く見えた。
四人分の場所があったのが、今は三人だ。
わたしはその空いたひとつ分をしばらく見た。それから、椅子を引いて座った。
「いただきます」
わたしが言ったら、
「「いただきます」」
二人が返した。
夏の夜は、まだ長かった。




