第五話 おばあちゃんだけは味方だと思っていた
翌朝、蒼から短いメッセージが届いた。
『久我志保さん、今も市立図書館にいるって。母に確認した。司書で、もう二十年以上勤めてるらしい』
わたしはそのメッセージを読んで、少し息を吐いた。
いた。まだいる。
返信を打とうとしたとき、階下からおばあちゃんの声がした。朝食の準備ができたらしい。スマホをポケットに入れて、部屋を出た。
朝食のあいだ、三人で話すことはあまりなかった。
おばあちゃんは味噌汁を飲みながら、今日の予約を確認していた。父は昨夜も泊まっていって、今朝は市役所に出かける前に一緒に食卓についていたが、新聞を読んでいてほとんど口を開かなかった。わたしはご飯を食べながら、どのタイミングで話を切り出すか考えていた。
図書館のことは、まずおばあちゃんに言うべきか。それとも直接行ってしまうか。
久我志保という名前を出したとき、おばあちゃんがどんな顔をするかは少し気になった。でも、気になるからといって先に言う必要もない。おばあちゃんはもう少し待ってほしいと言った。でも、わたしはそれを約束していない。
父が立ち上がって、「行ってくる」と言った。わたしは「いってらっしゃい」と返した。おばあちゃんは「気をつけて」と言った。
玄関のドアが閉まった。
二人になった。
「おばあちゃん」
「なに」
「昨日の写真のことなんだけど」
おばあちゃんは湯飲みを置いた。
「うん」
「母の字で、私が消える前に、ひよりを撮っておきたいって書いてあった」
「そうね」
「あの人は、自分が薄くなっていることを知っていた。おばあちゃんもそれを知っていた」
「……うん」
「じゃあ、おばあちゃんは、あの人が出ていく前から、何かを知っていたんだよね」
おばあちゃんは黙っていた。
「あの人が出ていく前に、止めようとしなかったの?」
「止めようとしたよ。でも、止められなかった」
「どうして」
「灯子が、聞かなかったから」
「聞かなかった?」
「私の言葉を、聞かなかった。もう決めたって、そう言って」
わたしは少し黙った。
それから、「どうして止められなかったの、本当は」と尋ねた。
おばあちゃんはわたしを見た。少し、驚いた顔をした。
「止められなかったんじゃなくて、止めなかったんじゃないの」
長い沈黙があった。
おばあちゃんは湯飲みを両手で包んで、下を向いた。
「……全部が正しかったとは、思っていないよ。私も。灯子に対して」
「どういうこと」
「今は、それだけしか言えない」
わたしは箸を置いた。
「また同じことを言う」
午前中、接客を一人でこなした。
七五三の前撮りの問い合わせが一組と、証明写真の撮影が二件。おばあちゃんは奥で作業をしながら、必要なときだけ出てきた。わたしは受付と会計を担当して、撮影はおばあちゃんに任せた。
作業しながらも、頭の中はずっと別のことを考えていた。
止められなかったんじゃなくて、止めなかった。
おばあちゃんはあの顔で黙った。否定しなかった。つまり、そういうことだ。
おばあちゃんは何かを知っていて、それを話さない。母との約束、とも言っていた。母が出ていく前に何かがあって、おばあちゃんはその何かに関わっていて、それをずっと抱えている。
でも、どういう関わり方なのか、わたしにはまだ分からなかった。
証明写真の客が帰ったあと、店が静かになった。おばあちゃんが奥からコーヒーを二つ持ってきた。
「ありがとう」
「一人でよくやった」
「別に難しくなかった」
「最初はそう見えないものよ」
二人でコーヒーを飲んだ。しばらく黙っていた。
おばあちゃんが口を開いた。
「ひより、写真館を継ぐ気はある?」
突然の話題だったので、少し驚いた。
「ない。今のところ」
「そうね」
おばあちゃんは残念そうではなかった。
「ひよりに継いでほしいとは思っていないから、正直に言ってくれてよかった」
「なんで今それを聞くの」
「なんとなく。灯子にも、同じことを聞いたことがあったから」
わたしは少し間を置いた。
「あの人は何て答えたの?」
「継ぐって言ったよ。でも、本当は継ぎたくなかったんだと思う。私が、そう思わせてしまったのかもしれない」
おばあちゃんの声が、少し変わった。
わたしはそれ以上聞かなかった。まだ、うまく聞ける気がしなかった。
昼過ぎに蒼が来た。
「図書館、今日行く?」
「行きたい。も、その前に、おばあちゃんに話がある」
「何を話すの」
「久我志保さんのことと、母の写真のこと。全部ちゃんと話してほしいって、もう一度言う」
蒼はわたしの顔を見た。
「今日こそ聞き出す、って感じだね」
「そのつもり」
「大丈夫?」
「大丈夫じゃないかもしれない。でも、やる」
蒼は頷いた。
「わたしは外で待ってる。終わったら声かけて」
おばあちゃんは奥の部屋で台帳を整理していた。
わたしは入口に立って、「おばあちゃん、少し話せる?」と尋ねた。
おばあちゃんは顔を上げた。わたしの顔を見て、何かを察した表情になった。「うん」と言って、椅子を引いた。
わたしは向かいに座った。
「倉庫に久我志保という名前の入った貸出カードがあった。市立図書館の司書で、今もそこにいる。母と関係があった人だと思う」
おばあちゃんは黙っていた。
「会いに行くつもり」
「……そう」
「止める?」
「止めない。ひよりが行くなら、行けばいい」
わたしは少し間を置いた。
「おばあちゃんが話してくれれば、行かなくていいんだけど」
「分かってる」
「分かってるなら、話してほしい」
おばあちゃんは目を伏せた。
「約束だから、とは言わないで」
わたしは声が少し硬くなった。
「それは聞いた。でも、その約束よりわたしが後回しにされる理由が分からない。あの人が家を出てから十年経った。わたしはずっと、何も知らないまま育った。それって、おかしくない?」
おばあちゃんは答えなかった。
「おばあちゃんだけは、わたしの味方だと思ってた」
その言葉を出したとき、自分でも少し驚いた。思っていたより素直に出てきた。
おばあちゃんは顔を上げた。
「味方だったよ」
「だったら、どうして一番知りたかったことを隠したの」
沈黙が続いた。
店の外で、子どもの自転車が通り過ぎる音がした。夏の虫の声が、どこかから聞こえた。
「ひより、味方であることと、全部話すことは、必ずしも同じじゃない」
「わたしにとっては同じだよ」
「そうね。そう思うよね。ひよりの気持ちは分かる」
「分かるなら」
「でも、話すことで、ひよりを守れなくなることもある。そう思っていた時期が、長かった」
わたしはおばあちゃんを見た。
「守る、って何から?」
「灯子への怒りから」
「怒っていいんだよ。あの人に怒るのは当然でしょ。十年間、何も言わずにいなくなったんだから」
「そうね」
「だから、話してほしかった。怒っていいって教えてほしかった。黙ってることが守ることだと思わないでほしかった」
おばあちゃんの目が、少し揺れた。
それを見て、わたしは胸の奥が痛くなった。怒っているのに、おばあちゃんの目が揺れると、その怒りの置き場に困った。おばあちゃんは悪い人ではない。悪くないから、怒り切れない。でも、怒りはある。その矛盾が、胸の中でずっとうずいていた。
「ひより、ごめんなさい」
謝られたことが、逆に苦しかった。
「謝らなくていい。謝ってほしいんじゃなくて、話してほしいだけ」
「今は。今日は、まだ話せない。でも、もう少しだけ時間をちょうだい」
「どれくらい」
「久我さんに会ってから、戻っておいで。そのあとで、話す」
わたしはおばあちゃんを見た。
「約束する?」
「約束する」
わたしは椅子から立ち上がった。部屋を出る前に、振り返った。
「おばあちゃんのことは、信じたいと思ってる。だから、裏切らないで」
おばあちゃんは何も言わなかった。でも、頷いた。
店の外に出ると、蒼がすぐそばのベンチに座っていた。
わたしの顔を見て、「どうだった?」と尋ねた。
「話してくれなかった。でも、図書館から戻ったら話すって約束した」
「そっか」
蒼は立ち上がった。
「じゃあ行こう」
歩き出してから、蒼が「大丈夫だった?」と尋ねた。
「大丈夫じゃない。おばあちゃんが謝るから、怒り切れなかった」
「うん」
「怒っていいんだよね、わたし」
「当然でしょ」
蒼は即答した。
「十年間何も知らせてもらえなかったんだから。怒って当たり前」
「でも、おばあちゃんも悪い人じゃないから」
「悪い人じゃなくても、傷つけることはあるよ。それは別の話じゃん」
その言葉が、ストンと胸に落ちた。
悪い人じゃなくても、傷つけることはある。
「ひよりってさ」
「なに」
「冷めてるふりするの、下手だよね。めちゃくちゃ気にしてる顔してる、さっきから」
「してない」
「してる」
蒼は笑った。
「でもそれでいいと思う。気にしてる方が、ちゃんと向き合えるから」
わたしは何も言わなかった。
商店街の出口を抜けると、夏の光が広い道路に降り注いでいた。図書館は、ここから自転車で十分ほどの場所にある。
図書館の前まで来て、少し立ち止まった。
入口の前に、古い銀杏の木が一本立っていた。葉が夏の光を受けて、緑がきつく光っている。ここは子どものころ、おばあちゃんに連れてきてもらったことがある。夏休みの宿題の本を借りに来た記憶が、ぼんやりとある。
「緊張してる?」
蒼が尋ねた。
「少し」
「聞きたいことは決まってる?」
「まだちゃんとは決まってない。でも、母のことを知っているかどうか、まずそこから」
「うん。じゃあ行こう」
ガラスの自動ドアが開いた。図書館の中は、ひんやりとしていた。本の匂いと、冷房の匂いが混じっている。
カウンターに、四十代くらいの女性が座っていた。
わたしは少し迷ってから、カウンターに近づいた。
「あの、久我志保さんは、今日いらっしゃいますか」
女性は顔を上げた。
「久我ですか。少々お待ちください」
奥に引っ込んで、しばらくして戻ってきた。
「おります。どのようなご用件でしょうか」
「藤代灯子の、娘です」
わたしがそう言うと、女性の表情が、少し変わった。何かを知っている顔だった。
「少し待っていてください」
数分後、カウンターの奥から、一人の女性が出てきた。
四十代後半くらいで、髪を後ろで一つにまとめている。メガネをかけていて、紺色のカーディガンを羽織っている。図書館の空気に馴染んだ佇まいをしていた。
わたしの顔を見て、少し目を細めた。
「藤代さん……ひよりさん?」
「はい」
「そうか。大きくなったのね。少し話せる場所に行きましょう。立ち話で済む話じゃないと思うから」
わたしは頷いた。
蒼と顔を見合わせた。蒼は小さく頷いた。
志保さんに案内されて、図書館の奥の小さな応接室に入った。
椅子に座って、向かい合った。
志保さんはわたしをしばらく見ていた。何かを確認するような目だった。
「来るかもしれないとは思っていた。灯子から、ひよりが実家に戻ったと聞いたから」
わたしは少し驚いた。
「母と、連絡を取っているんですか」
「たまに。年に何回か」
つまり、居場所を知っている。
「母がどこにいるか、知っていますか?」
「知っている」
「教えてもらえますか」
志保さんは少し間を置いた。
「それは、灯子自身に決めてもらう必要がある。私の一存では言えない」
「じゃあ、母に聞いてみてもらえますか」
「それはできる。でも、今日すぐには無理」
わたしは頷いた。
「分かりました。それより先に聞きたいことがあって」
「なに?」
「母が、家を出た理由。本当の理由を、知っていますか?」
志保さんはわたしをしばらく見た。それから、小さく息を吐いた。
「知ってる。全部ではないけれど」
「教えてもらえますか」
「教える。でも、一つだけ先に言っておきたいことがある」
「なんですか」
「あなたのお母さんは、逃げたんじゃない……と言いたいところだけど、逃げたのも本当のことよ」
わたしは黙っていた。
「人って、ひとつの言葉だけでは説明できないの。それだけは、最初に言っておきたかった」
応接室の窓から、銀杏の葉が揺れるのが見えた。
志保さんは少し背筋を伸ばして、「じゃあ、話すね」と言った。
わたしは頷いた。




