第四話 母が撮った最後の写真
倉庫の奥に、まだ手をつけていない箱があった。
おばあちゃんに尋ねると、「古い備品だから、中身を確認してから捨てていい」と言った。ただ、「写真が入っているものは、先に私に見せて」とも言った。その言い方が少し慎重だったので、わたしは何も言わずに頷いた。
蒼が午前中だけ手伝いに来てくれることになっていた。店が開く前に、二人で倉庫に入った。
「どれから?」
「奥から順番に」
段ボール箱が六つ、棚の一番下に積まれていた。一つずつ開けていくと、最初の三つは備品だった。古いフラッシュの部品、使い切ったフィルムのケース、壊れた三脚の脚の部分。全部ゴミ袋に入れた。
四つ目を開けたとき、蒼が「あ」と言った。
中に、封筒がいくつか入っていた。茶色の封筒で、一つひとつに年号が書いてある。
「写真?」
わたしはそう思った。
「たぶん」
わたしは封筒を一つ持ち上げた。年号を確認すると、十二、三年前のものだった。おばあちゃんに見せる前に中身を確認することはできないが、外から触ると、薄い紙の感触がある。プリントされた写真だろうと思った。
五つ目の箱を開けると、封筒ではなく、直接写真の束が入っていた。輪ゴムで留めてある。表に「整理前」と書いた付箋が貼ってあった。
字を見て、少し手が止まった。
几帳面な字だった。
昨日、予約帳で見た字に似ていた。
「蒼」
「うん」
「これ、ちょっと見てもいい?」
蒼はわたしの手元を見て、「文乃さんに先に見せるって言ってたんじゃないの」と言った。
「写真が入っているものは、って言ってた。これは写真の束だけど、封筒じゃないから」
「かなり苦しい言い訳だけど、まあ、いいんじゃない」
輪ゴムを外した。
一枚目は、商店街の写真だった。
朝早い時間らしく、シャッターがまだ半分閉まっている店が多い。でも光がきれいで、石畳に朝の影が伸びている。人の気配が少ない時間を狙って撮ったのが分かった。
二枚目は、祭りの写真だった。夜の屋台の明かりの中で、子どもが綿菓子を持って走っている。ピントは子どもに合っていなくて、背景の提灯にあっている。でもそのぶん、動いている子どもの速さが出ていた。
三枚目は、写真館の入口から外を撮ったものだった。硝子戸越しに商店街が見える。逆光で、外の景色が少し白く飛んでいる。手前におばあちゃんの後ろ姿が小さく写っていた。おばあちゃんはこちらに気づいていない。
どれも、うまい写真だった。
技術がどうこうというよりも、撮る人がその場所を好きなことが伝わってくる写真だった。被写体を無理に動かさず、そこにある空気ごと写している。
「きれいだね」
「うん」
「誰が撮ったの、これ」
わたしは答えなかった。答えなくても、蒼には分かっている気がした。
束の中ほどまで来たとき、写真の雰囲気が変わった。
人が写っている写真が増えた。子どもの写真が多くなった。
石段に座っている子ども。縁側で眠っている子ども。庭の水道で手を洗っている子ども。
その子どもの顔に、見覚えがあった。
というより、見覚えがある、という言い方は正確ではない。自分の顔だった。幼いころの、わたしの顔だった。
わたしはその写真を持ったまま、しばらく動けなかった。
「ひより」
「うん」
「大丈夫?」
「大丈夫」
声が少し変だった。でも蒼は何も言わなかった。
次のページを見た。
わたしの写真が続いた。笑っているもの、泣いているもの、眠っているもの、怒っているもの。バランスよく、全部あった。幸せそうな顔だけではなかった。泣いている顔も、眠っている顔も、同じ丁寧さで撮られていた。
カメラを向けられていることに気づいていない写真が多かった。気づいていても、気にしていない写真もあった。わたしという子どもが、その場所にいる空気ごと、全部写っていた。
見すぎるほど見ていた。
そう思った。
あの人は、わたしを見ていなかったのではなかった。むしろ、見すぎるほど見ていた。こんなに撮っていた。わたしが知らないところで、こんなにたくさん、シャッターを切っていた。
それが何を意味するのか、まだうまく考えられなかった。ただ、胸の中の何かが、静かにずれた気がした。長い時間そこにあったものが、少しだけ動いた感じ。
束の終わりの方に、一枚だけ、雰囲気の違う写真があった。
他の写真は全部、誰かを撮ったものか、場所を撮ったものだった。でもその一枚だけは、鏡越しに撮影者自身が写っていた。
鏡の中に、女性が立っている。カメラを構えているから顔は半分隠れているが、輪郭と、カメラを持つ手の形で、誰なのかは分かる気がした。
そして、その女性の姿が、薄かった。
アルバムの家族写真と同じだった。鏡の中の女性だけが、背景に溶け込むように薄れている。鏡の向こうの壁や棚は普通に写っているのに、女性の輪郭だけが曖昧だった。
「蒼」
「見てる。これも同じだ」
「うん」
「でも、家族写真じゃなくて、一人で写っているのに」
「そう」
「家族写真じゃなくても、あの人が自分をどう見ていたかが写ったのかもしれない」
口にしてから、自分で少し怖くなった。母はもう、そのころには、自分を家族の中にいる人として見られなくなっていたのかもしれない。
わたしは写真を裏返した。
裏に、ボールペンで書かれた文字があった。几帳面な字。予約帳と同じ字。
一行だけだった。
私が消える前に、ひよりを撮っておきたい。
わたしはしばらく、その文字を見ていた。
消える前に。
つまり、あの人は知っていた。自分が薄くなっていることを、知っていた。
それでも写真を撮り続けていた。わたしの写真を。
守るためなのか、残すためなのか、それとも別の何かなのか、わたしにはまだ分からなかった。でも、知っていて撮っていた。知っていて、でも何もしなかったわけじゃなかった。
「ひより」
蒼が、いつもより低い声で呼んだ。
「うん」
「お母さん、自分が薄くなってることを分かってたんだね」
「そうみたい」
「それで、ひよりの写真を撮っておこうとした」
「……そういうことだと思う」
蒼は少しの間黙っていた。それから、「怖かったんじゃないかな」と言った。
わたしは答えなかった。
怖かった、という言葉が、少し遠いところに落ちた。怖かったのかもしれない。でも、だからといって何が変わるわけでもない。怖くても、出ていった。怖くても、わたしを置いていった。
それは事実だった。
それでも、写真を捨てたいとは思わなかった。
こんなもの残さないでほしかった、と思うのに、なくなったら困るとも思った。母がわたしを見ていた証拠を、見たくない。けれど、なかったことにもしたくない。
その矛盾が、自分でも嫌だった。
写真の束をおばあちゃんに見せた。
おばあちゃんは一枚一枚を丁寧に見た。商店街の写真、祭りの写真、わたしの写真。最後の一枚、鏡越しの写真まで来て、少し目を細めた。
「やっぱり残ってたのね」
おばあちゃんは独り言のような声だった。
「これ、母が撮ったものだよね」
「そうよ」
おばあちゃんは、写真の端を指でそっと押さえた。
「裏の字も、母の字?」
「そうね。灯子の字よ」
「私が消える前に、ひよりを撮っておきたい、って書いてある」
おばあちゃんは写真から目を上げなかった。
「知ってた? あの人が、自分が薄くなってることを知っていたこと」
「……知っていたよ」
「おばあちゃんも知っていた? あの人が薄くなっていたこと」
おばあちゃんは答えなかった。
それが答えだった。
「どうして」
わたしは声が少し硬くなった。
「どうして話してくれなかったの」
「話せる状態じゃなかった」
「いつの話? 十年前? それとも今も?」
「……両方」
わたしは口を閉じた。
両方、という言葉が重かった。十年前も、今も、話せる状態じゃなかった。それはどういう意味なのか。何かがそれだけ複雑に絡まっているということなのか。
おばあちゃんは写真をそっとカウンターに置いた。
「ひより」
「なに」
「灯子は、ひよりを捨てたわけじゃないよ」
その言葉が、思っていたより深いところまで刺さった。
捨てた、という言葉をおばあちゃんの口から聞くのは初めてだった。今まで誰もその言葉を使わなかった。使わないことで、その言葉の輪郭をなるべくぼかしていた。でもおばあちゃんは今、その言葉を使った。
「それはどういう意味で言ってるの?」
「そのままの意味よ」
おばあちゃんは、わたしから目を逸らさずに言った。
「捨てたわけじゃないけど、出ていった。それはどういうこと」
「……もう少しだけ。もう少しだけ待って」
「また同じことを言う」
「ごめんね」
わたしは返事をしなかった。
夕方、一人で倉庫に戻った。
六つ目の段ボールをまだ開けていなかった。
開けると、書類の束が入っていた。写真館の古い受注記録や、取引先との書簡。写真ではなかったのでおばあちゃんに見せる必要はなかった。でも、その中に一つだけ、書類ではないものが混じっていた。
小さな茶封筒だった。封はされていない。開いた口から、何かが半分だけ出ている。
引っ張り出すと、図書館の貸出カードだった。
今はもうほとんど使われないタイプの、昔ながらの紙のカード。貸出履歴が手書きで記録されている。本のタイトルと、借りた日付と、名前の欄がある。
名前の欄を見た。
几帳面な字で、「藤代灯子」と書かれている行が何列かあった。でも、それよりも目に入ったのは、担当者の欄に繰り返し書かれている別の名前だった。
久我志保
図書館の人間らしい名前が、何度も繰り返し出てきた。同じ人が何度も対応していた、ということかもしれない。あるいは、それ以上の何かかもしれない。
わたしはカードを持ったまま、市立図書館のことを考えた。
母と、この図書館の誰かに、何か繋がりがあった。
貸出カードに残っているのは、本の記録だけだ。でも、何かが引っかかった。
その夜、蒼に電話した。
「市立図書館って、今も同じ司書がいたりするかな」
「どうしたの急に」
「貸出カードが出てきた。母の字で名前が書いてあって、担当者のところに久我志保って名前が繰り返し出てくる」
「図書館の人?」
「たぶん。今も同じ人がいたら、何か知ってるかもしれない」
蒼は少し考えてから「調べてみる」と言った。
「商店街の人に聞けば分かるかも。うちの母が図書館のこと詳しいから」
「助かる」
「それと、今日の写真のこと、大丈夫だった? ひよりの写真が出てきたって言ってたじゃん」
「大丈夫だよ」
「本当に?」
「……大丈夫ではないかもしれない。でも、どう大丈夫じゃないのかが、まだよく分からない」
「そっか」
「笑う顔だけじゃなくて、泣いてる顔も怒ってる顔も全部撮ってた。あの人が」
「うん」
「それが、何なのかよく分からない。怒っていいのか、それとも何か別のことを考えるべきなのか」
蒼はしばらく黙っていた。
「どっちでもいいんじゃないかな。怒りたかったら怒ればいいし、別のことを考えたいなら考えれば。決めなくていいと思う、まだ」
わたしは少し間を置いてから、「そうだね」と言った。
「おやすみ、ひより」
「おやすみ」
電話を切って、窓の外を見た。
夜の商店街は暗かった。シャッターが全部下りていて、街灯だけが石畳を照らしている。
わたしはさっきのカードのことを考えた。久我志保という名前のことを考えた。そして、写真の束の中のわたしの顔のことを考えた。
泣いている顔。眠っている顔。怒っている顔。
あの人はそれを全部撮っていた。幸せそうな顔だけを残そうとしていたわけじゃなかった。
それが何のためだったのか、まだ分からない。
でも、もうすぐ分かるかもしれない、という気がしていた。
市立図書館に、行ってみようと思った。




