第三話 写らなくなる人
翌朝、写真館に最初の客が来たのは十時を少し過ぎたころだった。
硝子戸が開いて、ベルが鳴った。わたしは受付のカウンターに立っていたので、顔を上げた。
入ってきたのは、白髪をきれいに結い上げた老婦人だった。薄いグレーのブラウスに、濃紺のスカート。小さなハンドバッグを両手で持って、店の中を見回している。年齢はかなり上に見えるが、姿勢がいい。背中がまっすぐで、足取りに迷いがない。
「いらっしゃいませ」
老婦人はわたしを見て、少し目を細めた。
「あら、ひよりちゃん?」
名前を呼ばれて、少し戸惑った。知っている人だろうか。顔には見覚えがない。でも、こちらを見る目に、昔から知っている感じがあった。
「藤代のひよりちゃんでしょう。大きくなったわね。最後に会ったのはいつだったかしら、小学校の低学年のころかしらね」
「あの、すみません。どちら様でしたか」
「あら、覚えていないか」
老婦人は嫌そうではなかった。
「佐伯よ。商店街の和菓子屋の。今はもう娘夫婦に任せてしまっているけれど」
佐伯、という名前に、少し記憶が動いた。商店街の角にある和菓子屋。子どものころ、よく店先でもらった栗饅頭。
「佐伯さん」
「そう。覚えていてくれた?」
「なんとなく。うちの写真館によく来てくださっていましたよね」
「毎年ね」
佐伯ミツ子さんはにこりとした。
「文乃さんはいる?」
「奥にいます。呼んできます」
「ありがとう。急がなくていいわよ」
呼びに行くと、おばあちゃんはすぐに顔を明るくした。
「ミツ子さん、いらしたの」
「文乃さん、お体の具合はどう? 心配してたのよ」
「おかげさまで、もうだいぶいいの。ひよりが手伝いに来てくれているから助かっているわ」
「そう。それはよかった」
二人は旧知の間柄らしく、カウンター越しに話しながら自然に笑っていた。わたしは少し離れたところに立って、台帳を確認するふりをしながら、様子を見ていた。
「今日も撮りましょうか」
「そうね。毎年この時期にね、主人の命日が近いから」
撮影は、おばあちゃんが担当した。
わたしは補助で入って、照明の調整を手伝ったり、背景紙の前に椅子を置いたりした。ミツ子さんは指示通りに座って、カメラに向かった。表情が、自然だった。緊張している様子はない。何度もここで撮ってきた人の顔だった。
「いい顔ね、ミツ子さん」
「お世辞でも嬉しいわ」
「お世辞じゃないよ。毎年少しずつ、いい顔になっていく」
ミツ子さんは少し笑った。シャッターが切れた。
数枚撮ったあと、おばあちゃんがカメラを下ろした。
「今年はひよりにも手伝わせていいかしら。勉強させたいから」
「もちろん」
ミツ子さんはそう言って、わたしを見た。
「ひよりちゃん、やってみる?」
わたしは少し戸惑ったが、「はい」と答えた。
おばあちゃんからカメラを受け取った。思ったより重かった。ファインダーを覗くと、ミツ子さんの顔が中央に収まっている。
「焦らなくていいから」
おばあちゃんが後ろから言った。
「その人がそこにいる感じが出るまで、待てばいい」
わたしはファインダーの中のミツ子さんを見た。老婦人は、カメラを向けられても表情が変わらなかった。姿勢はまっすぐで、少し遠くを見ているような目をしていた。悲しそうではない。でも、何か言葉にならないものを抱えている顔だった。
シャッターを切った。
「上手よ」
おばあちゃんが言った。
「そうかな」
「待てる人は、写真が撮れるよ」
撮影が終わって、三人でカウンターのそばに座った。おばあちゃんがお茶を出した。
ミツ子さんはハンドバッグから、薄い封筒を取り出した。
「今日ね、これも持ってきたの。文乃さんに見てもらおうと思って」
封筒の中から、古い写真が出てきた。
モノクロに近い、色あせた一枚だった。若い男女が並んでいる。男性は三十代くらいで、女性もそれくらい。ともに笑っていて、どこかの屋外で撮ったらしく、背景に木の葉が写っている。
「結婚したころのね、主人と二人で撮った写真」
わたしはそれをちらりと見て、すぐに視線を外した。幸せそうな写真を見るのが苦手なのは変わらなかった。
「この写真ね、最近おかしいと思って。主人の方が、なんだか薄くなってきた気がして」
わたしは顔を上げた。
薄くなっている。
おばあちゃんはミツ子さんから写真を受け取って、しばらく見た。
「本当ね」
「主人が亡くなったから、だんだん写真が消えていくのかと思って。少し怖くて」
わたしは思わず口を開いた。
「亡くなった方が写真から消えていく、ということですか」
「そういうことかしら、と思ったの。でも不思議よね。亡くなってもう十二年経つのに、今になって薄くなるなんて」
わたしはおばあちゃんを見た。おばあちゃんは写真から目を上げず、少し考えるような顔をしていた。
「文乃さん、これって」
「消えるのは、亡くなる人じゃないよ」
おばあちゃんは穏やかな声だった。
ミツ子さんが少し目を丸くした。
「どういうこと?」
おばあちゃんはそれ以上言わなかった。
しばらく沈黙があった。
わたしはミツ子さんの写真を改めて見た。男性の部分が、確かに薄い。ただし、完全に消えているわけではない。輪郭が少しぼやけて、背景の木の葉と境界が曖昧になっている。表情はまだ分かる。笑っているのも分かる。でも、確かに薄かった。
「ご主人が亡くなってから、ずいぶん経ちますよね」
わたしは話しかけた。
「十二年ね。長かったわよ、最初は。でも、最近は」
ミツ子さんはそう言って、少し間を置いた。
「最近は、一人でいることに少しだけ慣れてきた気がして。悲しくないわけじゃないの。でもね、忘れたいわけでもないのよ。ただ、忘れないまま、少し軽くなる日もあるの」
その言葉が、わたしの中にすとんと落ちた。
忘れないまま、少し軽くなる。
わたしにはまだ、そういう感覚が分からなかった。忘れたくないものがあるとか、忘れたいのに忘れられないとか、そういう気持ちは分かる気がした。でも、忘れないままで軽くなる、という感覚は、どういうものなのかよく分からなかった。
「ひよりちゃん、写真館の仕事は好き?」
「まだ始まったばかりで、よく分からないです」
「そうよね。でもね、文乃さんはずっとここで写真を撮ってきたでしょう。それは素敵なことだと思うわ。人の顔が残るから」
「人の顔が残ると、どういいんですか?」
「あとで見返すとね、あの日ここにいたんだって思い出せるから。それだけのことなの。でも、そのたったそれだけが、ずいぶん助かることがある」
ミツ子さんが帰ったあと、わたしはカウンターでおばあちゃんの横に立った。
店の中が静かだった。午後の光が硝子戸から入ってきて、床に長い四角を描いている。
「さっきの話。消えるのは亡くなる人じゃない、って言ってたよね」
おばあちゃんは台帳を整理しながら、「うん」と答えた。
「じゃあ、誰が消えるの?」
おばあちゃんは手を止めた。
少し間があった。
「家族の中で居場所が変わるとき、写真は先にそれを映すことがあるの」
「どういうこと?」
「いなくなる、ということとは少し違うの。亡くなる人が消えるわけでも、忘れた人が消えるわけでもない。家族の中で、その人の置き場所が変わるときがあるでしょう。支えだった人が、思い出になる。ずっと隣にいた人を、少し離れた場所から思えるようになる。そういう変わり目を、写真が先に映すことがあるの」
「じゃあ、消えるのは悪いことじゃないの」
「悪いこととは限らない。でも、痛いことではあると思う。ミツ子さんのご主人はもう亡くなって、十二年経った。最初はその写真が全部だった。拠り所みたいなものだった。でも最近、ミツ子さんは一人で生きることを少しずつ受け入れてきている。ご主人の記憶を手放したわけじゃないけれど、ご主人との関係が変わってきている。そういうとき、写真が変わることがある」
「それって、写真が勝手に変わるということ?」
「勝手に、というか」
おばあちゃんは少し考えた。
「その人の中にあるものが、写真に出てくる、というか」
わたしはしばらく黙っていた。
「信じられない」
「そうよね、信じなくていいよ」
「でも、おばあちゃんは信じてる」
「長年ここで写真を撮ってきたから、見てきたものがある。それだけよ」
おばあちゃんは台帳に視線を戻した。話を終わらせようとしているのが分かった。
わたしは引き下がらなかった。
「じゃあ、うちの家族写真の中で、あの人が薄くなっているのは」
おばあちゃんの手が止まった。
「あの人の中で、居場所が変わったから? それとも、わたしの中で?」
沈黙が続いた。
おばあちゃんはわたしを見た。今まで見たことのない顔だった。困っているのでも、隠しているのでもなく、何か痛いものを抱えているような顔。
「ひより」
「なに」
「もう少しだけ、待ってほしい」
「また同じことを言う」
「ごめんね。でも今は、それしか言えない」
夕方、蒼がカフェの仕事を終えて顔を出した。わたしは今日のことを話した。
佐伯ミツ子さんのこと。亡くなったご主人の写真が薄くなっていたこと。そしておばあちゃんが言った言葉のこと。
蒼は話を聞きながら、ホットコーヒーのカップを両手で持って、少し考える顔をしていた。
「家族の中で居場所が変わるとき、写真に出る。それって、どっちの居場所が変わるときの話なんだろうね。写っている人の話? それとも、見ている人の話?」
「わたしも同じことを聞いた」
「文乃さんは何て」
「答えなかった」
蒼は少し黙った。
「ひより、正直に聞いていい?」
「いいよ」
「ひよりの中で、お母さんの居場所って、今どうなってる」
わたしは答えなかった。
答えが出なかったのではなく、答えたくなかった。でも、蒼の目はそれも分かっているような目をしていた。
「いい。聞きすぎた」
「いや、ちゃんと答える……居場所とか、そういう話じゃないんだと思ってた。いない人だから。居場所があるとかないとか、関係ないって思ってた」
「うん」
「でも」
「でも?」
わたしは少し間を置いた。
「予約帳のこと、思い出してた。三回予約して、三回キャンセルした跡。あの人は、出ていく前に何かを考えてた。何かを怖がってたか、迷ってたか。それを知ったら、なんか、少し違って見えてきた」
「何が違って見えた?」
「分からない。でも、ただいなくなった人じゃないかもしれない、って。それだけ」
蒼は何も言わなかった。ただ、うん、と小さく頷いた。
その夜、ひとりで倉庫に入った。
アルバムを棚から出して、四人写真のページを開いた。
昨日より、薄い。
確かめるたびに、薄くなっている気がした。気のせいかもしれない。でも、もうそれを気のせいだと思えなかった。
写真の中の母は、笑っていた。
輪郭は薄れていても、表情はまだそこにある。笑っている顔が、まだある。
居場所が変わるとき、写真が先に映す。
おばあちゃんはそう言った。
じゃあ、これは、誰の居場所の話だろう。
あの人の話か。
それとも、わたしの話か。
わたしは写真をしばらく見た。
答えは出なかった。でも、初めて、答えを出したいと思った。
写真をそっと閉じて、棚に戻した。
明かりを消して、倉庫を出た。廊下に出ると、おばあちゃんの部屋の明かりがまだついていた。
わたしはその前で少し立ち止まった。
ドアには触れなかった。
でも、もうすぐここに戻ってくる、という感じがした。この廊下に、もう一度立つことになる。そういう予感があった。




