第二話 家族写真から、母が消えかけている
翌朝、目が覚めてすぐに倉庫へ向かった。
おばあちゃんはまだ朝食の片付けをしていて、「どこ行くの?」と尋ねた。
わたしは「ちょっと」とだけ答えて、奥に入った。
昨夜から頭の隅に引っかかったままだった。あの写真のことが。
アルバムを棚から取り出して、光の入る場所に移した。倉庫の小窓から、夏の朝の光が斜めに差し込んでくる。その光の下で、ページを開いた。
やはり、薄かった。
見間違いではなかった。
四人が並んだ写真の中で、母だけが違う。輪郭が、隣に立つ父やおばあちゃんより、明らかに淡い。顔の中心部分はまだ分かるが、髪の毛の端や、肩の線や、指先のあたりが、背景と混じり合うように薄れている。
わたしはアルバムのページを前後にめくった。同じアルバムの中に、母が一人で写っている写真もある。商店街で撮ったもの、店の前で笑っているもの。どちらも普通だった。ちゃんとした濃さで、ちゃんとそこにいる。
奇妙なのは、四人で撮った写真だけだった。
家族で撮った写真、だけ。
わたしはもう一度そのページを見た。記念写真のような構図で、四人が横に並んでいる。わたしが小学校に入る前後くらいの年齢に見える。それ以外の情報が何もない写真。でも、母の輪郭だけが、ほかの三人と比べてはっきり薄い。
退色ならば、写真全体がくすんでいくはずだ。紙の変色も、光の当たり方による色抜けも、均一に起きる。でもこの写真は、母の部分だけが選んで薄れている。
それがどういうことなのか、わたしにはまだ分からなかった。
朝の仕事を手伝いながら、頭の中で考えていた。
もしかしたら、現像のミスだろうか。フィルム写真は、現像の工程で部分的に露出が変わることがある。でも、それで特定の人物の輪郭だけが抜けるとは思えない。
あるいは、保存状態の問題か。アルバムの中で、その部分だけ湿気や光にさらされていた。でも、他のページと同じ状態で保管されていたはずだ。
どちらの説明も、うまく当てはまらなかった。
午前中に客が二組来て、わたしは受付と会計の補助をした。おばあちゃんが撮影を担当して、わたしは傍でメモを取ったり、小道具を片付けたりする。仕事の流れは思っていたよりも単純で、三十分もすれば大体のことは分かった。
撮影のあいだ、わたしはカメラと被写体の両方をなんとなく眺めていた。写真館の仕事は、レンズを向けている時間よりも、その前後の方がずっと長い。客が入ってきて、衣装を確認して、構図を決めて、緊張をほぐして、それからようやく撮る。シャッターを切るのは、その準備の全部が終わってからだった。
おばあちゃんの手際は、見ていて飽きなかった。話し方が押しつけがましくなくて、でも必要なことをきちんと伝える。客がどこを向けばいいか迷っていると、さりげなく「そこで大丈夫ですよ」と言う。撮影中も声をかけながら、表情が自然になるのを待っている。
写真が嫌いではないのは、そういう仕事の丁寧さを小さいころから見てきたからかもしれない、とわたしは思った。嫌いなのは、写真そのものではなく、写真に映った幸せそうな顔が、あとから嘘になることだ。
昼を過ぎた頃、蒼がカフェの休憩時間に顔を出した。
「昨日言ってた写真って、どれ?」
エプロンをつけたまま入ってきて、カウンターに肘をつく。まったく遠慮がない。
「見たいの?」
「気になるじゃん。何か変な感じがした、って言ってたから」
わたしは少し迷ってから、「ちょっと待って」と言って倉庫に入り、アルバムを持ってきた。
四人写真のページを開いて、蒼の前に置いた。
「これ」
蒼はしばらく写真を見ていた。それから首を傾けて、「……あー」と言った。
「分かる?」
わたしが尋ねると、蒼は写真から目を離さないまま頷いた。
「うん。なんか、この人だけ薄い気がする」
「気がするじゃなくて、薄いんだよ」
少し強い言い方になった。蒼はそれを気にした様子もなく、写真を斜めから眺めた。
「でもこれ、古いフィルム写真でしょ。保存状態が悪いと、こういうふうになるんじゃないの」
「他のページはこうじゃない」
蒼は他のページも見た。一人写真のページ、近所の人たちと撮った写真。それから四人写真に戻って、また首を傾けた。
「確かに、ここだけ違うな」
「だから言ってる」
「藤代写真館の怪談じゃん」
蒼は軽い口調だったが、笑っていなかった。
「ていうか、文乃さんに見せた?」
「まだ」
「聞いてみたら」
「……聞いてみる」
蒼はコーヒーを一口飲んで、「ひより、この写真、お母さんだよね」と尋ねた。
わたしは答えなかった。
「ひより」
「……そうだよ。あの人だよ」
そう答えるだけなのに、喉の奥が少し詰まった。蒼は何も言わなかった。ただ、もう一度写真を見た。それからアルバムをそっと閉じた。
夕方、おばあちゃんが台帳を片付けてカウンターを拭いているときに、わたしはアルバムを持って近づいた。
「おばあちゃん」
「なに」
「これ、見てほしいんだけど」
アルバムを開いて、四人写真のページを出した。
おばあちゃんは手を止めた。
視線がページに落ちて、そこで、一瞬だけ止まった。
ほんの一瞬だった。でも確かに止まった。表情が、何か固いものになった。いつもの穏やかな顔ではない。眉のあたりに、力が入った。それから、元に戻った。
「古い写真だからね、色が抜けることもあるよ」
声は穏やかだった。でも、その穏やかさが少し早すぎた気がした。見てすぐ、考える前に答えが出てくるような速さ。
「他のページはこうじゃない」
「保存場所によって違うから」
「同じアルバムの中だよ」
「……そうね」
おばあちゃんは視線をアルバムから外した。台帳の方に目を向ける。
「気になるなら、専門の業者に修復してもらうこともできるよ。古い写真の補正は今は技術があるから」
「そういう話じゃなくて」
「じゃあ、どういう話?」
わたしは少し詰まった。どういう話なのか、自分でも言葉にできていなかった。
「なんで、家族写真だけ薄いの? 一人写真は普通に写ってる。家族で撮ったやつだけが、こうなってる」
おばあちゃんはしばらく黙っていた。
「古い写真だからね」と、もう一度言った。
今度は早くなかった。でも、答えになっていなかった。
その夜、わたしは倉庫をもう少し調べた。
アルバムが他にないか、棚を丁寧に見ていくと、奥の方に段ボール箱が二つあった。『写真館記録』と書いてあるものと、もう一つは『予約帳保管』と書いてある。
予約帳、という言葉が引っかかった。
段ボールを開けると、年ごとに束ねられた薄い冊子が出てきた。いちばん古いものはおばあちゃんの筆跡で、後半になると別の人の字が混じってくる。きれいで、少し几帳面な字。
母の字だろうか、とわたしは思った。
年代を確認しながら、十年前のものを探した。少し時間がかかったが、見つかった。夏のページをめくっていくと、手が止まった。
同じ名前が、三回書かれていた。
『藤代家族写真撮影』という文字と、日付。
一回目は七月の中旬。
二回目は七月の末。
三回目は八月の頭。
そして、三回ともその横に、細い線で消した跡がある。予約を入れて、消して。入れて、消して。また入れて、また消している。
キャンセルだ。
七月から八月にかけて、母は何度も家族写真の予約を入れていた。そして、全部キャンセルしていた。
母が家を出たのは、その年の八月の終わりだった。
わたしは予約帳を閉じた。
手の中に、薄い冊子の重みがあった。
何かが頭の中でゆっくりと動いた気がした。うまく形にならない、でも確かに何かが変わった感覚。
母は、出ていく前に、家族写真を撮ろうとしていた。
三回、撮ろうとして、三回やめた。
それが何を意味するのか、わたしにはまだ分からなかった。でも、急に家を出たわけではないことは分かった。出ていく前から、何かが起きていた。
あの人は、何かを怖がっていたのかもしれない。
そう思ったのは初めてだった。今まで、母のことを考えるときに「怖がる」という言葉が浮かんだことはなかった。ただ、いなくなった。ただ、出ていった。そういう事実しか、わたしの中にはなかった。
でも、三回予約してキャンセルした人は、怖がっていたか、躊躇っていたか、どちらかのはずだ。
どちらにしても、そこには感情があった。無関心ではなかった。
わたしはその感触を、あまり長く持っていたくなかった。
翌朝、わたしはおばあちゃんが一人でカウンターにいるのを見計らって、話しかけた。
これ以上遠回りにする理由がなかった。
「おばあちゃん」
「なに」
「昨日の写真のこと、もう一回聞かせて」
おばあちゃんは顔を上げた。わたしの顔を見て、少し表情を変えた。何か察した顔。
「予約帳も見た。十年前の夏、家族写真の予約が三回入ってた。全部キャンセルされてる。それから一ヶ月も経たないうちに、あの人は家を出た」
おばあちゃんは何も言わなかった。
「写真の中で、あの人だけが薄くなってる。予約を繰り返してキャンセルしてた。これ、全部関係してると思う」
沈黙が続いた。
店の外で、商店街のスピーカーが昼のチャイムを流し始めた。夏の、間延びした音。
おばあちゃんはそのチャイムが終わるまで黙っていた。チャイムが終わっても、答えなかった。
「おばあちゃん」
わたしはもう一度呼んだ。
おばあちゃんは少しだけ目を伏せた。それから、「ひより」と言った。
「今日は、これ以上は聞かないで」
「どうして」
「もう少し、待って」
「何を待てばいいの」
「……ちゃんと話せる準備ができるまで」
その言い方が、わたしには答えに聞こえた。知っている。知っていて、話していない。それだけは分かった。
「おばあちゃん、これ、ただの古い写真じゃないよね」
おばあちゃんは答えなかった。
でも、否定もしなかった。
硝子戸の向こうで、夏の光が商店街の石畳を白く照らしていた。
その日の夕方、わたしはもう一度倉庫に入って、アルバムを棚に戻した。
戻す前に、もう一度だけ開いた。
四人写真のページ。
朝に見たときより、母の輪郭がさらに薄くなっているような気がした。
気のせいだと思おうとした。でも、思えなかった。朝の光と夕方の光の違いかもしれない。でも、それだけではない気もした。
写真が古くなるのは、時間の問題だ。
でも、これは時間だけの話ではない気がした。
何かが、今も進んでいる。
そういう感覚があった。うまく言葉にならないけれど、確かにある感覚。
わたしはアルバムをそっと棚に戻して、倉庫を出た。
夜、蒼に電話した。
「予約帳に、三回キャンセルした跡があった。出ていく前の夏に、家族写真を撮ろうとして、やめてる」
蒼は少し黙ってから、「それ、文乃さんに聞いた?」と尋ねた。
「聞いた。答えてくれなかった」
「答えなかったってことは、知ってるってことだね」
「たぶん」
「ひより、どう思う。その写真のこと」
わたしはしばらく考えた。
「分からない。でも、普通じゃないとは思う。退色でも現像ミスでもない。家族写真だけ、あの人だけ、薄くなってる」
「うん」
「おばあちゃんは何か知ってて、話してくれない。予約帳には消えかけた跡がある。それだけ分かってる」
「調べる?」
わたしは答えなかった。調べる、という言葉が少し重かった。調べるということは、向き合うということだ。あの人が家を出た理由を、十年間ずっと聞かないようにしてきた。知らない方が楽だと思っていた。知ってしまったら、何かが変わるかもしれない。変わってほしくないものが変わるかもしれない。
「ひより」
「……やる。分からないままにしておくのが、なんか気持ち悪い」
「そっちの方がひよりらしい」
蒼は笑っていない声だった。
「何かあったら言って。手伝う」
「ありがとう」
「それと、無理に一人でやろうとしないでね。ひよりそういうとこあるから」
わたしは少し間を置いてから、「分かった」と言った。
電話を切って、窓の外を見た。
商店街の夜は静かだった。シャッターの下りた店の前を、たまに自転車が通り過ぎていく。
わたしはスマホを机に置いて、天井を見た。
十年間、あの人のことをなるべく考えないようにしてきた。考えると、うまく処理できない感情が出てくるから。怒りなのか、悲しみなのか、それとも別の何かなのか、自分でも分からない感情が出てくるから。
でも今夜は、考えた。
母は三回、家族写真を撮ろうとした。そして三回、やめた。
なぜやめたのか。
写真の中で、なぜあの人だけが薄くなっているのか。
おばあちゃんは何を知っていて、なぜ話さないのか。
分からないことばかりだった。でも、分からないことがある、ということは分かった。今まで、そこに何かあるとすら思っていなかった。ただ、いなくなった。それだけだと思っていた。
そうではないかもしれない。
そういう可能性が、今夜初めて、わたしの中に入ってきた。




