第一話 夏休み、藤代写真館に戻る
藤代写真館の看板は、夏の光に焼けて昔より少しだけ白っぽくなっていた。
商店街の端にある古い二階建ての建物。硝子戸の向こうには、色あせた見本写真が並んでいる。七五三の子ども、成人式の姉妹、銀婚式の夫婦。どの写真の中の人も、こちらが気まずくなるくらい幸せそうに笑っていた。
わたしはキャリーケースの持ち手を握ったまま、しばらく店の前に立っていた。
帰ってきた、とは思えなかった。
ここに戻ってくるたび、いつも少しだけ、十年前の夏に置き忘れられた気がする。母が家を出ていった日の朝も、こんなふうに暑かった。硝子戸に映ったわたしの顔は、大学生になった今でも、どこかあの日の子どものままだった。肩につくくらいの黒髪も、少し伏せがちな目も、十年前から大きく変わっていない気がする。笑う理由も、泣く理由も分からないまま、ただ玄関に立っていた、十歳のわたし。
そのとき、店の奥で小さなベルが鳴った。
「ひより?」
懐かしい声に、胸の奥が少しだけ痛んだ。
おばあちゃんの声だった。
硝子戸を引くと、ひんやりとした空気が顔にかかった。レンズ液と、古い木材の匂いが混じっている。この匂いだけは、何年経っても変わらない。
わたしのおばあちゃん、藤代文乃はカウンターの奥から顔を出した。七十四歳のはずなのに、背筋はまっすぐで、エプロンのひもをきちんと結んでいる。ただ、去年の年賀状で見た顔より、少しだけ頬がこけている気がした。
「よく来たね。顔色が悪い。電車、長かったでしょう」
「二時間ちょっとだから」
「若いのに二時間でそんな顔してちゃいけない」
まったく余計なことを言う。わたしはキャリーケースを引きずって、狭い入口をくぐった。
店の中は、記憶よりも少し狭く感じた。子どものころは広く見えた場所が、大人になると縮んで見える。よくある話だと思っていたけれど、実際に体験するのはいつも少し寂しかった。
正面には古い三脚が立ち、背景紙のロールが壁に何本か立てかけてある。撮影スペースは奥の部屋で、引き戸一枚隔てた向こうにある。カウンターには古いレジと、台帳と、小さな観葉植物。全部、わたしが子どものころからそこにあるものだった。
「荷物、二階に置いてきて。部屋、開けといたから」
「うん」
「ご飯は夜、一緒に食べましょう。お父さんも来るって言ってたから」
わたしは返事をしながら、カウンターの脇を通り抜けて、奥の階段に向かった。
二階の部屋は、昔のままだった。
シングルベッドと小さな机と、本棚。本棚の中身はほとんど片付けられていたが、下の段におばあちゃんが選んだらしい写真集が何冊か並んでいた。カーテンは開いていて、西日が床に長く伸びている。
キャリーケースを隅に置いて、ベッドに腰を下ろした。スプリングが古い音を立てた。
窓の外に、商店街の屋根が見える。商店街といっても、ここ十年でずいぶん店が減った。シャッターが下りたままの建物がいくつかあって、夏の日差しを受けてただ白く光っていた。
わたしはスマホを取り出して、大学の友人からのメッセージをいくつか確認した。『夏休みどこ行く?』『帰省するの?』。短く返事をして、画面を伏せた。
実家に帰省している、とは言いにくい。帰省という言葉は、帰りたい場所があるときに使うものだと思っているから。
夕方、父の藤代航平が来た。父は結婚して藤代姓になった人だった。だからこの写真館では、父もどこか借りてきた場所にいるように見えることがあった。相変わらず少し猫背で、市役所勤めらしい地味なポロシャツを着ていた。わたしを見て、「ひより、久しぶり」と言った。声が、少し遠慮がちだった。
「ちゃんと食べてるか」
「食べてる」
「そうか。痩せたんじゃないか」
「太ったって言われるよりましだから」
父は苦笑いをして、「そうだな」と言った。こういう会話が、わたしたちの基本だった。深いところには触れない。さわやかでも気まずくもなく、ただ、わずかに空気を置いたまま話す。
夕食はおばあちゃんが作った冷やし中華だった。三人でテーブルを囲んで、近所の話や市役所の話を聞いた。おばあちゃんの体調については、父が「だいぶましになった」と言って、おばあちゃんが「大げさに言いすぎたかもしれない」と苦笑いした。
「大げさじゃないでしょ。倒れたんでしょ」
「倒れたというより、ちょっと貧血で座り込んだだけで」
「それを倒れたって言うんだよ」
おばあちゃんは困ったように笑って、「ひよりに怒られるとは思わなかったよ」と言った。
わたしも苦笑いした。怒っているわけではない。ただ、もう少し早く連絡してほしかった。もっとも、この人たちは何でも一人で抱えてから、落ち着いたあとで教える。そういう家だった。
翌日から、写真館の手伝いが始まった。
といっても、最初は掃除くらいしかすることがなかった。おばあちゃんが接客と撮影を担当して、わたしは受付の補助と店内の整理をする。夏休みは家族写真や成人式の前撮りの問い合わせが増えるから、奥の倉庫を片付けておきたいとのことだった。
午前中、わたしは倉庫の棚を整理しながら、古い備品を段ボールに詰めていた。使わなくなったフィルムケースや、壊れたフラッシュの部品、サイズの合わなくなった背景紙のロール。捨てていいものと残すものをおばあちゃんに確認しながら、少しずつ棚を空けていく。
そのとき、棚の一番奥に、写真アルバムが数冊まとめて押し込まれているのに気づいた。
ほこりを払うと、表紙に手書きで「家族」と書いてある。
わたしは少し迷ってから、アルバムを手に取った。
開いてすぐに、胃のあたりがじわりと重くなった。
最初のページに、小学校に上がったころくらいのわたしが写っていた。七五三の着物姿で、まだちゃんと笑えていない子どもの顔をして、カメラのほうを向いている。隣に、若い母と父が立っている。そしてもう一人、おばあちゃんが。
家族写真、だった。
わたしはアルバムをめくるのを少しためらった。家族写真が苦手だとわかったのは、いつごろだったろう。幸せそうな顔が並んでいるほど、あとで見返したときに残酷に感じる。写っている瞬間はそこにいた全員が笑っているのに、その先に何が起きたかをわたしは知っている。
それでも、手は動いた。
数ページをめくると、少し大きくなったわたしと、同じ構図で撮られた家族写真が続いていた。夏祭りらしい写真。庭で撮ったもの。どこかの公園。わたしの誕生日パーティー。
四枚目か五枚目を開いたとき、手が止まった。
写真の中に、四人が並んでいた。おばあちゃん、父、幼いわたし、そして母。
母の顔は、笑っていた。
ちゃんと笑っていた。カメラのレンズを見て、口角を上げて、目も細めている。不自然なところはどこにもない。
なのに、わたしはその笑顔を見ても、何も感じたくなかった。
感じてしまうと、何かが崩れそうな気がした。
わたしにとってあの人の笑顔は、十年間ずっと、うまく処理できないままだった。怒ればよかったのか。悲しめばよかったのか。それとも、最初から存在しなかったことにして、ただ忘れればよかったのか。十歳のわたしにはどれも正解に見えて、二十歳になった今も、どれも正解じゃないままだった。
わたしは写真のページを閉じかけた。
そのとき、ふと気になって、もう一度だけ開いた。
改めて見ると、何かが引っかかった。
四人が並んだ写真の中で、母の輪郭が、ほんのわずかだけ、薄い気がした。
隣に並ぶ父の輪郭と比べると、明らかに違う。肩の線も、顔の縁も、何か薄く、のっぺりとした感じがある。フィルムのムラか、現像の問題か。それとも、単純にわたしの目がおかしいのか。
わたしはページを閉じた。
気のせいだと思った。古い写真だし、保存状態が悪ければ色が抜けることだってある。
でも、その薄さが頭の隅に引っかかったまま、なかなか消えなかった。
昼過ぎ、店先に見慣れた人物が立っているのに気づいた。
細身で、短い黒髪で、商店街のカフェのロゴが入ったエプロンを外しながら、硝子戸の前でこちらを覗き込んでいる。笑うと目元が少しだけ幼くなるところも、昔と変わっていない。
「ひより!」
「蒼」
森下蒼は硝子戸を開けるなり、「久しぶり、ちゃんと帰ってきたじゃん」と言って、カウンターの内側に入ってきた。遠慮のなさも変わっていない。
「近所の人は普通、入口で止まるんだけど」
「近所の人じゃなくてほぼ身内でしょ。文乃さん、お邪魔します」
「いらっしゃい。コーヒー淹れましょうか」
おばあちゃんが奥から返事をした。
「じゃあいただきます」
蒼は即答して、わたしの隣に腰を下ろした。
「ひより、何してたの?」
「倉庫の整理」
「一人で? 手伝えばよかった。声かけてくれればよかったのに」
「夏は忙しいんじゃないの、カフェ」
「まあね。でも夕方なら」
蒼は店の中をぐるりと見回して、言った。
「変わんないな、ここ。懐かしい」
「そう? わたしはいつも少し縮んで見える」
「それはひよりが大きくなったからじゃない」
そうかもしれない。わたしは手の甲についたほこりを払った。
「久しぶりに会ったのに、ほこりまみれじゃん」
「掃除してたんだから当然でしょ」
「まあね。文乃さん、体調はどう?」
「ましになったって言ってる」
「よかった。心配してたんだ、うちの母も」
おばあちゃんはコーヒーを二つ持ってきた。
「蒼ちゃんも手伝ってやって。ひよりが一人で全部やろうとするから困ってたの」
「わたしは困ってないけど」
わたしが言い返すより早く、蒼が頷いた。
「明日から手伝います」
昔からそういう子だ。
おばあちゃんがカウンターに戻ると、蒼はコーヒーを一口飲んで、「写真館の仕事ってどう?」と尋ねた。
「まだほとんど掃除しかしてない」
「接客は?」
「これから」
「ひより、写真苦手でしょ」
わたしは少し間を置いた。
「嫌いじゃない」
「でも、見るのは苦手」
「……よく分かるね」
「ずっと知り合いだから。家族写真とかが特に、でしょ」
否定しなかった。蒼にはそういうところがある。踏み込みすぎるかと思うと、ちゃんと止まる。だから話せる。
「倉庫に昔のアルバムがあって、家族写真が入ってた」
「見た?」
「少し」
「どうだった」
「なんか」
わたしは言いかけて、止まった。どう表現すればいいのか分からなかった。
「気のせいかもしれないんだけど、ちょっと変な感じがした」
「変って?」
「写真の中の、ある人の部分だけ、何か薄いというか。フィルムのせいかな、とは思うんだけど」
蒼は少し首を傾けた。
「ある人って、もしかして」
「別に、誰でもいい話だから」
わたしはそう言って、コーヒーを飲んだ。
蒼は何も言わなかった。ただ、わたしの顔を見た。蒼の目はいつも、わたしがごまかしていることを見抜く顔をする。
夕方、蒼が帰ったあと、わたしはもう一度倉庫に戻った。
アルバムを棚から取り出して、もう一度開いた。
四人が並んだページ。
見間違いかどうか確認するために、別の写真と並べて見た。同じアルバムの中で、家族以外の人が写っているページ。店の前で撮ったもの、近所の人たちと一緒の写真。
そちらは普通だった。ちゃんとした鮮度がある。
もう一度、四人写真のページに戻る。
やはり、母だけが違う。
肩の輪郭が、ほんのわずか、背景に溶け込んでいるように見える。フィルムの退色なら、写真全体が均一に変化するはずだ。でも他の三人は、ちゃんとそこにいる。
わたしは写真をそっと閉じた。
気のせいだ、と思おうとした。
でも思えなかった。
倉庫を出ると、カウンターで台帳を確認していたおばあちゃんの横顔が見えた。声をかけようとして、やめた。
まだうまく言葉にならなかった。
ただ、一つだけ分かったことがあった。
この写真館で、何かが起きている。
そしてたぶん、おばあちゃんはそれを知っている。




