第十話 家族写真を撮れなかった日
母に会った翌日、写真館は朝から静かだった。
予約は午後に一件だけで、午前中は手伝いがほとんどなかった。おばあちゃんは帳簿を整理して、わたしは倉庫の片付けの続きをした。お互いに、あまり話さなかった。
母に会ったこと、話した内容を、おばあちゃんにどう伝えるか、まだ言葉が整っていなかった。おばあちゃんも、聞かなかった。聞いていいか分からないのか、聞けないのか、どちらかは分からなかったが、その沈黙は居心地が悪くはなかった。
昼前に、父から連絡が来た。『今日、顔を出してもいいか』という短いメッセージだった。
わたしは『いいよ』と短く返した。
父が来たのは、昼過ぎだった。
ポロシャツにスラックスで、仕事帰りではなく休日の格好だった。土曜日だった。玄関を入ってきて、わたしとおばあちゃんの顔を順番に見た。
「ひより、灯子に会ったんだな」
「うん」
「どうだった」
「話した。それだけ」
「そうか」
父はカウンターの椅子に座った。おばあちゃんが麦茶を出した。三人でテーブルを囲む格好になった。
しばらく誰も話さなかった。
麦茶のグラスが、夏の光を受けて光っていた。
「話がある」
おばあちゃんが言った。
わたしと父はおばあちゃんを見た。
「十年前のことを、話す。航平さんにも、ひよりにも。全部ではないけれど、ちゃんと話す」
父は少し驚いた顔をした。
「今日?」
「今日がいい。ひよりが灯子に会ってきた。私も話す番だと思って」
おばあちゃんは少し間を置いてから、話し始めた。
「十年前の夏、灯子と喧嘩をした」
「知っている。灯子から少しだけ聞いた。詳しくは聞いていないが、何かあったことは」
父は穏やかに言った。
「そう。何を言ったか、ひよりから聞いたかもしれないけど」
「継げない人間に写真館の価値は分からない、と言ったと聞いた」
おばあちゃんは頷いた。
「そう言った。一度だけ。でも、それを言ったのは、その夜だけじゃなかった。もっと前から、そういう気持ちで接していた。言葉にはしなかったけれど、態度で出ていたと思う」
「なぜ」
「焦っていたから。写真館を次に渡したかった。自分の代で終わらせたくなかった。灯子に継いでほしかった。でも、灯子の目が、そうではないことを言っていた。それが怖くて、見ないようにしていた。見ないようにするうちに、言わなくていいことを言ってしまった」
父は麦茶のグラスを両手で持ったまま、下を向いていた。
「航平さん、あなたにも、ごめんなさいを言わないといけない」
「俺に?」
「灯子が辛そうにしていたとき、私が先に気づいていた。でも、言わなかった。写真館のことで揉めていると分かれば、航平さんが間に入ろうとするのが分かっていたから。間に入ってほしくなかった」
父は顔を上げた。
「灯子と二人で解決したかった。それが間違いだった。あなたが間に入っていれば、違ったかもしれない」
「俺も、気づきながら動けなかった。文乃さんのせいだけじゃない」
「それでも、言うべきだった」
三人が黙った。
わたしは麦茶を一口飲んだ。
「十年前の夜、何があったの? 母が出ていく前の夜」
おばあちゃんと父が、少し顔を見合わせた。
「私から話す。灯子は、最後に家族写真を撮ろうとしていた」
「知ってる。予約帳に三回の跡があった」
「三回とも、わたしがやめさせた」
わたしは少し驚いた。
「やめさせた?」
「キャンセルしたのは、灯子じゃなくて私だった。灯子が予約を入れるたびに、撮る前に話し合いになった。写真館を継ぐかどうかの話に、毎回なった。そのたびに、うまくいかなかった」
「撮ればよかったじゃないの」
わたしの声が少し硬くなった。
「話し合いになっても、撮ればよかった」
「そうね、そうすればよかった。でも、撮ることで灯子がここに留まると思ってしまった。写真を撮れば、ここにいる理由ができると。だから、条件にしてしまった。継ぐと決めてから撮ろうと言った」
「それは――」
わたしは言いかけて、言葉が出てこなかった。
撮ることを、条件にした。写真を撮ることを、交渉の道具にした。それがどれほど残酷なことか、おばあちゃんは今なら分かっているのだろう。だから今、こうして話している。
「灯子が出ていく前の夜、最後に話した。継ぐ気がないなら出ていけとは言っていない。でも、そう聞こえる言い方をしてしまった。灯子はそれを聞いて、何も言わなかった。翌朝、いなくなっていた」
「止めようとしなかったの」
「朝、気づいたときには、もう行ってしまっていた。追いかけようとした。でも、航平さんが」
「俺が止めた。灯子が決めたことなら、追いかけても同じだと思った。引き止めることが、かえって灯子を苦しめると思った。だから文乃さんを止めた」
父の言葉を受けて、おばあちゃんが小さく首を振った。
「それも、間違いだったかもしれない」
「俺も今は、そう思っている」
わたしはしばらく黙っていた。
誰か一人だけが悪いわけではなかった。おばあちゃんは追い詰めた。父は黙った。母は逃げた。
それぞれに理由があって、それぞれに弱さがあって、それが全部重なって、あの夜に繋がった。
「わたしは、何も知らなかった」
「そうよ。あなたは何も知らなかった。それが一番、申し訳ない」
「申し訳ないとは思っていたかもしれないけど、十年間、何も話してくれなかった」
「そうね」
「それは、誰のためだったの。わたしのため、って言うかもしれないけど、本当はそれだけじゃなかったんじゃないの」
おばあちゃんは少し間を置いた。
「両方だった」とゆっくり言った。
「あなたのためというのは、本当。でも、自分が話せる状態じゃなかったのも、本当。どちらか一つではなかった」
「正直に言ってくれてありがとう」
皮肉ではなかった。わたしは本当に、そう思って言った。
おばあちゃんは少し目を細めた。
「一つだけ聞いていいか」
父が尋ねた。
「灯子に会って、ひよりはどうだった。今」
わたしは少し考えた。
「すぐには許せない。でも、ただ自分を捨てた人だとは、もう思えなくなってきた」
「そうか」
「弱い人だと思った。あの人も、おばあちゃんも、お父さんも、みんな弱かった。誰か一人だけが悪いわけじゃなかった。でも、それで全部が許されるわけじゃない」
「そうだな。全部が許されるわけじゃない」
「でも、知らないよりは、知った方がよかった。怒る前に分かることがある。怒ったままでいるより、怒りながら知っていく方が、まだましだと思った」
父はわたしをしばらく見た。
「大人になったな」
「まだそんなに大人じゃない」
「そうだな」
父はそう言ったけど、笑っていた。
しばらくして、おばあちゃんが「倉庫のアルバムを持ってきていい?」と言った。
「なぜ」
「三人で見ておきたい。今のうちに」
わたしは立ち上がって、倉庫に入った。
アルバムを取り出して、四人写真のページを開いてから、居間に戻った。
おばあちゃんと父の前にアルバムを置いた。
父が写真を見て、少し黙ってから「薄くなっている」と言った。
「前よりも薄くなってる。最初に見つけたときより、どんどん薄くなっている」
父は写真をしばらく見た。目を細めて、輪郭を確かめるように。
「灯子だけが。ここだけが」
「うん」
「これは」
父は言いかけて、止まった。
「写真館の現象だよ。長い間、あなたには話していなかったけれど」
「灯子から聞いていた。でも、実際に見るのは初めてだ」
父は写真から目を上げて、わたしを見た。
「これが完全に消えたら、どうなるんだ」
「家族の中で語られない人になる、とおばあちゃんは言ってた。記憶がなくなるんじゃない。でも、その人について話す言葉がなくなると」
父はおばあちゃんを見た。おばあちゃんは頷いた。
「そんなことが」
「実際に、消えかけている。ここまで薄くなっている」
わたしは伝えた。
三人でアルバムを見た。
四人が並んだ写真。幼いわたし、父、おばあちゃん、そして母。母の輪郭だけが、もうほとんど背景に溶け込んでいた。髪の毛の線が消えかけていた。肩の形が、隣の父と混じりかけていた。
「消えてほしくない」
わたしは言った。
父が顔を上げた。
「母に会ってきて、怒りもある。すぐには許せない気持ちもある。でも、消えてほしくないとは思った。わたしの中から、あの人の居場所がなくなってほしくない」
「ひより」
おばあちゃんが呼んだ。
「なに」
「それを言えたことが、大事なことだと思う」
わたしは少し間を置いた。
「おばあちゃんは、母に謝りたい?」
「謝りたい」
即答だった。
「十年間、謝りたかった」
「お父さんは?」
「俺も、灯子に言えていないことが、まだある」
「じゃあ、いつか、みんなで話す機会を作ってほしい。わたしだけじゃなくて、三人で」
おばあちゃんと父が顔を見合わせた。
「灯子が来てくれるかどうか」
おばあちゃんは言った。
「わたしから頼んでみる。来てくれるかどうかは分からない。でも、頼んでみる」
父は少し頷いた。
「それでいい。ひよりがそう思うなら」
「それでいい、じゃなくて、お父さんも、おばあちゃんも、自分でそうしたいと思う?」
少し沈黙があった。
「したい」
父はそう言い、
「したい」
おばあちゃんも同じ意見だった。
「じゃあ、一緒に考えよう」
夕方、父が帰ったあと、わたしは一人でアルバムを倉庫に戻しに行った。
棚に置く前に、もう一度だけページを開いた。
四人写真。
母の輪郭は、ほとんど消えかけていた。でも、完全にはまだ消えていなかった。
わたしはしばらく写真を見た。
消えていく速さが、分かる気がした。今のままでは、もうそう長くはない。
でも、今日三人で話したことが、何かを変えるかもしれない。わたしが母に会いに行ったことが、何かを変えるかもしれない。
変わるかどうかは、まだ分からなかった。
でも、動いていると、そう思った。止まっていたものが、少しずつ動き始めている。
アルバムを閉じた。
棚に戻して、倉庫の明かりを消した。
廊下に出ると、台所からおばあちゃんの夕食の準備をする音が聞こえた。包丁の音、鍋の音。夏の夕方の匂いが、窓の隙間から入ってくる。
わたしは台所に向かった。
「手伝う」
「ありがとう」




