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明日、家族写真から母が消える  作者: 明石竜


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10/12

第十話 家族写真を撮れなかった日

 母に会った翌日、写真館は朝から静かだった。

 予約は午後に一件だけで、午前中は手伝いがほとんどなかった。おばあちゃんは帳簿を整理して、わたしは倉庫の片付けの続きをした。お互いに、あまり話さなかった。

 母に会ったこと、話した内容を、おばあちゃんにどう伝えるか、まだ言葉が整っていなかった。おばあちゃんも、聞かなかった。聞いていいか分からないのか、聞けないのか、どちらかは分からなかったが、その沈黙は居心地が悪くはなかった。

 昼前に、父から連絡が来た。『今日、顔を出してもいいか』という短いメッセージだった。

 わたしは『いいよ』と短く返した。


 父が来たのは、昼過ぎだった。

 ポロシャツにスラックスで、仕事帰りではなく休日の格好だった。土曜日だった。玄関を入ってきて、わたしとおばあちゃんの顔を順番に見た。

「ひより、灯子に会ったんだな」

「うん」

「どうだった」

「話した。それだけ」

「そうか」

 父はカウンターの椅子に座った。おばあちゃんが麦茶を出した。三人でテーブルを囲む格好になった。

 しばらく誰も話さなかった。

 麦茶のグラスが、夏の光を受けて光っていた。

「話がある」

おばあちゃんが言った。

 わたしと父はおばあちゃんを見た。

「十年前のことを、話す。航平さんにも、ひよりにも。全部ではないけれど、ちゃんと話す」

 父は少し驚いた顔をした。

「今日?」

「今日がいい。ひよりが灯子に会ってきた。私も話す番だと思って」

 おばあちゃんは少し間を置いてから、話し始めた。

「十年前の夏、灯子と喧嘩をした」

「知っている。灯子から少しだけ聞いた。詳しくは聞いていないが、何かあったことは」

 父は穏やかに言った。

「そう。何を言ったか、ひよりから聞いたかもしれないけど」

「継げない人間に写真館の価値は分からない、と言ったと聞いた」

 おばあちゃんは頷いた。

「そう言った。一度だけ。でも、それを言ったのは、その夜だけじゃなかった。もっと前から、そういう気持ちで接していた。言葉にはしなかったけれど、態度で出ていたと思う」

「なぜ」

「焦っていたから。写真館を次に渡したかった。自分の代で終わらせたくなかった。灯子に継いでほしかった。でも、灯子の目が、そうではないことを言っていた。それが怖くて、見ないようにしていた。見ないようにするうちに、言わなくていいことを言ってしまった」

 父は麦茶のグラスを両手で持ったまま、下を向いていた。

「航平さん、あなたにも、ごめんなさいを言わないといけない」

「俺に?」

「灯子が辛そうにしていたとき、私が先に気づいていた。でも、言わなかった。写真館のことで揉めていると分かれば、航平さんが間に入ろうとするのが分かっていたから。間に入ってほしくなかった」

 父は顔を上げた。

「灯子と二人で解決したかった。それが間違いだった。あなたが間に入っていれば、違ったかもしれない」

「俺も、気づきながら動けなかった。文乃さんのせいだけじゃない」

「それでも、言うべきだった」

 三人が黙った。

 わたしは麦茶を一口飲んだ。

「十年前の夜、何があったの? 母が出ていく前の夜」

 おばあちゃんと父が、少し顔を見合わせた。

「私から話す。灯子は、最後に家族写真を撮ろうとしていた」

「知ってる。予約帳に三回の跡があった」

「三回とも、わたしがやめさせた」

 わたしは少し驚いた。

「やめさせた?」

「キャンセルしたのは、灯子じゃなくて私だった。灯子が予約を入れるたびに、撮る前に話し合いになった。写真館を継ぐかどうかの話に、毎回なった。そのたびに、うまくいかなかった」

「撮ればよかったじゃないの」

わたしの声が少し硬くなった。

「話し合いになっても、撮ればよかった」

「そうね、そうすればよかった。でも、撮ることで灯子がここに留まると思ってしまった。写真を撮れば、ここにいる理由ができると。だから、条件にしてしまった。継ぐと決めてから撮ろうと言った」

「それは――」

わたしは言いかけて、言葉が出てこなかった。

 撮ることを、条件にした。写真を撮ることを、交渉の道具にした。それがどれほど残酷なことか、おばあちゃんは今なら分かっているのだろう。だから今、こうして話している。

「灯子が出ていく前の夜、最後に話した。継ぐ気がないなら出ていけとは言っていない。でも、そう聞こえる言い方をしてしまった。灯子はそれを聞いて、何も言わなかった。翌朝、いなくなっていた」

「止めようとしなかったの」

「朝、気づいたときには、もう行ってしまっていた。追いかけようとした。でも、航平さんが」

「俺が止めた。灯子が決めたことなら、追いかけても同じだと思った。引き止めることが、かえって灯子を苦しめると思った。だから文乃さんを止めた」

父の言葉を受けて、おばあちゃんが小さく首を振った。

「それも、間違いだったかもしれない」

「俺も今は、そう思っている」

 わたしはしばらく黙っていた。

 誰か一人だけが悪いわけではなかった。おばあちゃんは追い詰めた。父は黙った。母は逃げた。

 それぞれに理由があって、それぞれに弱さがあって、それが全部重なって、あの夜に繋がった。

「わたしは、何も知らなかった」

「そうよ。あなたは何も知らなかった。それが一番、申し訳ない」

「申し訳ないとは思っていたかもしれないけど、十年間、何も話してくれなかった」

「そうね」

「それは、誰のためだったの。わたしのため、って言うかもしれないけど、本当はそれだけじゃなかったんじゃないの」

 おばあちゃんは少し間を置いた。


「両方だった」とゆっくり言った。

「あなたのためというのは、本当。でも、自分が話せる状態じゃなかったのも、本当。どちらか一つではなかった」

「正直に言ってくれてありがとう」

皮肉ではなかった。わたしは本当に、そう思って言った。

 おばあちゃんは少し目を細めた。

「一つだけ聞いていいか」

父が尋ねた。

「灯子に会って、ひよりはどうだった。今」

 わたしは少し考えた。

「すぐには許せない。でも、ただ自分を捨てた人だとは、もう思えなくなってきた」

「そうか」

「弱い人だと思った。あの人も、おばあちゃんも、お父さんも、みんな弱かった。誰か一人だけが悪いわけじゃなかった。でも、それで全部が許されるわけじゃない」

「そうだな。全部が許されるわけじゃない」

「でも、知らないよりは、知った方がよかった。怒る前に分かることがある。怒ったままでいるより、怒りながら知っていく方が、まだましだと思った」

 父はわたしをしばらく見た。

「大人になったな」

「まだそんなに大人じゃない」

「そうだな」

父はそう言ったけど、笑っていた。


 しばらくして、おばあちゃんが「倉庫のアルバムを持ってきていい?」と言った。

「なぜ」

「三人で見ておきたい。今のうちに」

 

 わたしは立ち上がって、倉庫に入った。

 アルバムを取り出して、四人写真のページを開いてから、居間に戻った。

 おばあちゃんと父の前にアルバムを置いた。

 父が写真を見て、少し黙ってから「薄くなっている」と言った。

「前よりも薄くなってる。最初に見つけたときより、どんどん薄くなっている」

 父は写真をしばらく見た。目を細めて、輪郭を確かめるように。

「灯子だけが。ここだけが」

「うん」

「これは」

父は言いかけて、止まった。

「写真館の現象だよ。長い間、あなたには話していなかったけれど」

「灯子から聞いていた。でも、実際に見るのは初めてだ」

 父は写真から目を上げて、わたしを見た。

「これが完全に消えたら、どうなるんだ」

「家族の中で語られない人になる、とおばあちゃんは言ってた。記憶がなくなるんじゃない。でも、その人について話す言葉がなくなると」

 父はおばあちゃんを見た。おばあちゃんは頷いた。

「そんなことが」

「実際に、消えかけている。ここまで薄くなっている」

 わたしは伝えた。

 三人でアルバムを見た。

 四人が並んだ写真。幼いわたし、父、おばあちゃん、そして母。母の輪郭だけが、もうほとんど背景に溶け込んでいた。髪の毛の線が消えかけていた。肩の形が、隣の父と混じりかけていた。

「消えてほしくない」

わたしは言った。

 父が顔を上げた。

「母に会ってきて、怒りもある。すぐには許せない気持ちもある。でも、消えてほしくないとは思った。わたしの中から、あの人の居場所がなくなってほしくない」

「ひより」

おばあちゃんが呼んだ。

「なに」

「それを言えたことが、大事なことだと思う」

 わたしは少し間を置いた。

「おばあちゃんは、母に謝りたい?」

「謝りたい」

即答だった。

「十年間、謝りたかった」

「お父さんは?」

「俺も、灯子に言えていないことが、まだある」

「じゃあ、いつか、みんなで話す機会を作ってほしい。わたしだけじゃなくて、三人で」

 おばあちゃんと父が顔を見合わせた。

「灯子が来てくれるかどうか」

おばあちゃんは言った。

「わたしから頼んでみる。来てくれるかどうかは分からない。でも、頼んでみる」

 父は少し頷いた。

「それでいい。ひよりがそう思うなら」

「それでいい、じゃなくて、お父さんも、おばあちゃんも、自分でそうしたいと思う?」

 少し沈黙があった。

「したい」

父はそう言い、

「したい」

おばあちゃんも同じ意見だった。

「じゃあ、一緒に考えよう」

 夕方、父が帰ったあと、わたしは一人でアルバムを倉庫に戻しに行った。

 棚に置く前に、もう一度だけページを開いた。

 四人写真。

 母の輪郭は、ほとんど消えかけていた。でも、完全にはまだ消えていなかった。

 わたしはしばらく写真を見た。

 消えていく速さが、分かる気がした。今のままでは、もうそう長くはない。

 でも、今日三人で話したことが、何かを変えるかもしれない。わたしが母に会いに行ったことが、何かを変えるかもしれない。

 変わるかどうかは、まだ分からなかった。

 でも、動いていると、そう思った。止まっていたものが、少しずつ動き始めている。

 アルバムを閉じた。

 棚に戻して、倉庫の明かりを消した。

 廊下に出ると、台所からおばあちゃんの夕食の準備をする音が聞こえた。包丁の音、鍋の音。夏の夕方の匂いが、窓の隙間から入ってくる。

 わたしは台所に向かった。

「手伝う」

「ありがとう」


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