第十一話 明日、母が消える
八月も終わりに近づいていた。
商店街の夏祭りが終わって、店先の提灯が片付けられた。夕方になると、日の入りが少しずつ早くなっていた。夏がまだそこにあるのに、終わりに向かっている感じが、空気の中にあった。
写真館の仕事は、続いていた。
わたしはもう少しここにいることにしていた。後期の講義が始まる前に戻ればいい。おばあちゃんも何も言わなかった。ただ、「いてくれると助かる」と一度だけ言った。
母に会ってから、十日が過ぎていた。
連絡はしていなかった。母からも来なかった。でも、それが気まずいとは思わなかった。お互いに、少し間を置いているだけだと、なんとなく分かっていた。
その日の朝、一通の荷物が届いた。
差出人の名前は書いていなかった。でも、消印を見ると、母が住んでいる町の名前があった。
わたしは梱包を開けた。
中に、一枚の写真が入っていた。
額に入っていた。古い木の額で、角が少し擦れている。
写真を見て、少し息が止まった。
家族写真だった。
でも、わたしが知っているどの家族写真とも違った。何か、作られた感じがある。四人が並んでいるが、背景が少し不自然で、光の当たり方が統一されていない。
修復写真、だとすぐに分かった。
それぞれの写真から、四人を切り取って、一枚に合わせたものだった。幼いわたし、父、おばあちゃん、そして母。十年前には撮れなかった家族写真を、母が記憶と残っていた写真を使って、修復しようとした。
でも、一か所だけ、空白があった。
母自身の場所だけが、描き込まれていなかった。他の三人はそこにいる。でも、母が立つはずの場所が、白く空いていた。
封筒が一枚、写真に添えてあった。
開けると、短い手紙が入っていた。
十年前に撮れなかった写真を、形にしようとしました。でも、自分を入れる資格が、まだ分からなくて、途中になってしまいました。捨ててもらっても構いません。でも、もし持っていてくれるなら、持っていてください。私は写らなくていいと思っています。
わたしは手紙を読み終えて、少し間を置いた。
それから、怒りが来た。
静かな怒りだった。爆発するような怒りではなく、胸の奥から、じわりと来る怒りだった。
また、勝手に消えようとしている。
写らなくていい。また、そう言っている。この間、消えてほしくないと言ったのに。勝手にわたしの中から消えようとしないで、と言ったのに。その言葉が届いていなかったのか。それとも、届いていても変えられないのか。
わたしは手紙を折り畳んで、写真を見た。
白く空いた場所を見た。
そこに母が立てば、四人が揃う。でも、母は自分を入れなかった。資格が分からないと書いた。
資格の問題じゃない、とわたしは思った。
そういう話じゃない。
おばあちゃんを呼んだ。
おばあちゃんは写真と手紙を見て、少し目を細めた。
「灯子らしい」
「らしくない。らしいで片付けないでほしい」
「そうね。ごめんなさい」
「また逃げようとしてる。写らなくていいって、また言ってる」
「うん」
「どうすればいい?」
おばあちゃんはしばらく考えた。
「ひよりが、どうしたいかを考えた方がいい。私が答えを出す話ではないから」
「わたしが、どうしたいか」
「うん」
わたしは写真を見た。
白い空白を見た。
どうしたいか。
答えは、考えるまでもなかった。でも、それをどう言葉にするかが、少し時間が必要だった。
その夜、倉庫に入った。
アルバムを棚から出した。
四人写真のページを開いた。
手が止まった。
母の姿が、ほとんど消えていた。
顔の形は、もう分からなかった。輪郭が完全に背景に溶け込んで、そこに人がいたことだけが、かろうじて分かる。笑っていたのか、どんな表情だったのか、もう読み取れなかった。影のようにしか、残っていなかった。
わたしはしばらくその写真を見た。
胸の奥が、痛かった。
消えている。本当に消えかけている。
写真から母が消えることと、わたしの中で母の居場所が失われることが、繋がっているのだとしたら、今のこの状態は、わたしの中の問題でもある。
わたしは写真を閉じた。
部屋に戻って、スマホを持った。
電話をかけた。
呼び出し音が四回鳴って、繋がった。
「ひより?」
「手紙と写真、届いた」
「……届いたのね」
「見た」
「捨てても」
「捨てない。でも、一つだけ言う」
「うん」
「写らなくていい、という言葉は、受け取らない」
沈黙があった。
「消えていいかどうかを、あなたが決めることじゃないと、前に言った。写らなくていいかどうかも、同じ。それを一人で決めないでほしい」
「でも、私が入ることで、みんなが」
「みんながどうなるかは、みんなで決める」
わたしは声が少し上がった。
「あなたが一人で決めることじゃない。ずっとそうやって、一人で決めてきたじゃないの。出ていくことも、消えることも、全部一人で決めてきた。もう、それはやめてほしい」
母は何も言わなかった。
「明日、写真館に来て」
「え」
「明日、来て。おばあちゃんも、お父さんも、みんないる。逃げるなら、今度はわたしの前で逃げて。みんなの前で逃げて。それなら、引き止めることができるから」
「ひより、でも」
「来られない理由がある?」
少し間があった。
「……ない」
「じゃあ、来て」
「航平さんや、お母さんに、急に連絡も」
「わたしが話す。来ることだけ決めて」
また沈黙があった。
長い沈黙だった。
母が息を吐く音が、電話越しに聞こえた。
「……分かった。行く」
「約束」
「約束する」
わたしは電話を切った。
すぐに父に連絡した。
『明日、写真館に来られる?』
しばらくして返信が来た。
『どうした。何かあったか』
『母さんが来る』と送った。
返信がなかなか来なかった。
一分ほどして、『分かった。行く』と来た。
それだけだった。
台所で片付けをしていたおばあちゃんに、「明日、母が来る」と伝えた。
おばあちゃんの手が止まった。振り返って、わたしを見た。
「ひよりが呼んだの?」
「うん」
「灯子が来ると言った?」
「うん」
おばあちゃんはしばらく黙っていた。タオルを手に持ったまま、どこかを見ていた。どこを見ているのか、わたしには分からなかった。
「おばあちゃん、大丈夫?」
「大丈夫よ。ただ、少し、驚いている」
「十年ぶりだから」
「そうね。十年ぶりだから」
それからもう一度、「十年ぶりだから」と繰り返した。今度は少し違う声だった。
「怖い?」
「怖い。灯子に何を言えばいいか、まだ分からない」
「謝ればいい」
「謝るだけでは足りない気がする」
「じゃあ、謝るところから始めればいい。全部一度にやらなくていいから」
おばあちゃんはわたしをしばらく見た。それから、「そうね」と言った。
「そうすればいいね」
「わたしも、全部が解決するとは思っていない。明日、全部がうまくいくとは思っていない。でも、始めたい」
「うん」
「おばあちゃんも、そう思う?」
「思う。思っている。ずっと、そう思っていた」
わたしは頷いた。
「じゃあ、明日」
「明日ね」
部屋に戻って、ベッドに座った。
スマホの画面を見た。父への連絡、母との通話の履歴。短いやり取りだったが、確かにあった。
明日、四人が揃う。
十年前に揃えなかった四人が、明日、写真館に揃う。
何が起きるか分からなかった。うまくいかないかもしれない。誰かが泣くかもしれない。誰かが怒るかもしれない。何も言えなくなるかもしれない。
それでも、揃う。
わたしはもう一度倉庫に行った。
アルバムを出して、四人写真を見た。
母の姿は、影のようだった。でも、完全には消えていなかった。
まだ、いる。
わたしはその写真に向かって、声には出さずに言った。
明日、来て。消えないで、来て。
アルバムを閉じた。
廊下の電気を消して、部屋に戻った。
窓の外で、夏の終わりの夜が、静かに続いていた。




