最終話 新しい家族写真
午前十時を少し過ぎたころだった。
わたしは受付に立っていた。硝子戸の向こうに、人影が見えた。一瞬止まってから、ドアを開けた。
母だった。薄いグレーのシャツを着ていた。工房で会ったときと同じように、背筋がまっすぐで、でも少し緊張しているのが分かった。商店街の入口から、ここまで歩いてきたのだろう。夏の光の中に立っていた。
「来た」
わたしがそう言ったら、
「来た」
母はこう返した。
お互いに、それだけだった。
わたしは「入って」と言って、硝子戸を大きく開けた。
奥の部屋に、おばあちゃんと父がいた。
おばあちゃんはカウンターの椅子に座っていた。父は壁の近くに立っていた。どちらも、母が入ってきた瞬間に顔を上げた。
誰も、すぐには動かなかった。
十年ぶりに、四人が同じ場所にいた。
沈黙があった。長い沈黙ではなかったが、重かった。
最初に動いたのは、おばあちゃんだった。
椅子から立ち上がって、母の前に立った。
母はおばあちゃんを見た。目が、少し揺れていた。
「灯子」
「お母さん」
それだけで、おばあちゃんの目に涙が来た。こらえて、こらえて、でも少しだけ滲んだ。
「ごめんなさい。言ってはいけないことを言った。あなたを追い詰めた」
「私も、逃げた。ごめんなさい」
二人はそのまま、少しの間向かい合っていた。抱き合うことはしなかった。でも、その距離が、今の二人にはちょうどいい気がした。
父が、母の方を見た。
「久しぶりだな」
「久しぶり」
「元気だったか」
「元気ではなかったけれど、生きていた。あなたは」
「同じだ。元気ではなかったけれど、生きていた」
二人は少し苦笑いした。十年のあいだに積み上がったものが、その苦笑いの中にあった。
「ひよりを、ちゃんと育ててくれてありがとう」
母が、父に向かって言った。
「礼を言われることはしていない。ただ、隣にいただけだ」
父は、少し目を伏せたまま答えた。
「それで十分だよ」
母はそう言って、今度はおばあちゃんを見た。
おばあちゃんは、母の視線を受け止めるように頷いた。
「黙っていてごめんなさい。ひよりにも、灯子にも、ちゃんと向き合えなかった」
「……うん。私も、ちゃんと話さなかった」
母は、声を落としてそう言った。
わたしは少し離れたところに立って、三人を見ていた。
謝罪が続いて、どこかぎこちなかった。当然だと思った。十年ぶりに会って、すぐにうまくいくはずがない。でも、誰も逃げていなかった。誰も、目をそらしていなかった。
母がわたしを見た。
「ひより」
「うん」
「来させてくれてありがとう。呼んでくれなかったら、来られなかったと思う」
「呼んだのは、来てほしかったから」
「そうね」
「感謝されたくて呼んだわけじゃない。でも、来てくれてよかった」
母は頷いた。
しばらく、四人で話した。
うまく話せない時間の方が長かった。沈黙が来るたびに、誰かが短い言葉を出して、また沈黙になる。でも、その沈黙が前よりも少し軽い気がした。
おばあちゃんがお茶を入れた。四人分。
四つの湯飲みが、テーブルの上に並んだ。それを見て、わたしは少し胸が痛くなった。いつもは三つだった。今日だけ、四つある。
母が手紙の話を始めた。
「あの修復写真、おかしかった。自分を入れない写真を送るなんて、矛盾してる。分かっていた。でも、入れる勇気がなかった」
「入れればよかった」
おばあちゃんはそう言い、
「入れてほしかった」
父は続けた。
「入れてほしかった」
わたしもそう言った。
母は少し目を伏せた。
それでも、もう誰も、その写真の外に母を置こうとはしていなかった。
「次は、ちゃんと入れる」
「次というのは」
おばあちゃんが尋ねたら、母は少し間を置いた。
「また、家族写真を撮りたい。今度は、ちゃんと入った写真を」
誰も何も言わなかった。
でも、誰も否定しなかった。
「今日、撮ろう」
三人がわたしを見た。薄くなった写真を元に戻せるのかは分からない。撮れば何かが救われるのかも分からない。でも、十年前に撮れなかった一枚を、今度は逃がしたくなかった。
「今日でなくてもいい」
おばあちゃんが言った。
「今日がいい。今日じゃないと、また機会を逃す気がする。十年前みたいに」
母はわたしを見た。わたしは母を見た。
許したから撮るのではなかった。許せないままでも、写真の外に追い出したくない人がいる。たぶん、そういうことなのだと思った。
「撮っていい?」
わたしは母に向かって尋ねた。
「……いい」
「逃げない?」
「逃げない」
「約束」
「約束する」
わたしはスマホを出して、蒼に連絡した。
『今すぐ写真館に来られる?』と送った。
一分もせずに返信が来た。
『今カフェの休憩中。行ける。五分で行く』
蒼が来るまでの間、四人で撮影の準備をした。
おばあちゃんが背景紙のロールを確認して、照明を調整した。わたしは小道具を片付けて、椅子の位置を確認した。父は照明のコードが絡まっているのを直した。母は撮影スペースを見回して、「変わっていないな」と小さく言った。
「変えていない。あなたが使っていたころと同じにしている」
母はおばあちゃんに何か言おうとして、止めた。でも、その顔に何かが出ていた。
蒼が来たのは、それから数分後だった。
硝子戸を開けて入ってきて、部屋の中を見渡した。わたしとおばあちゃんと父と母が揃っているのを見て、少し目を丸くした。
「全員いる」
「うん、写真を撮ってほしい」
「わたしが?」
「カメラの使い方、分かるでしょ。来るたびに触ってたじゃない」
「まあ分かるけど」
蒼はそう言って、母に視線を向けた。
「久しぶりです。蒼です。ひよりの幼なじみの」
「知ってる。大きくなったね」
「灯子さんも、お会いできてよかったです」
嘘のない声だった。
おばあちゃんがカメラを蒼に手渡した。使い方を簡単に説明した。蒼は何度か確認して、ファインダーを覗いた。
「どこに立てばいいですか?」
「そこに四人並ぶから、少し下がって」
蒼が下がって、カメラを構えた。
四人が、撮影スペースの前に立った。
おばあちゃん、父、わたし、母。
並び方を、誰も指示しなかった。自然に、なんとなく位置が決まっていった。わたしの左におばあちゃん、右に父、その隣に母。肩を寄せ合うほどではなかった。少し距離があった。
でも、誰も離れすぎていなかった。
母が、少しだけ足元を見た。
「私、本当にここに入っていいのかな」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
「勝手に決めないで」
思ったより強い声が出た。
母が顔を上げた。
「十年前も、そうだったんでしょう。わたしが傷つかないようにって、わたしに何も聞かずに出ていった」
「……ごめんなさい」
「まだ許せないことはある。すぐに戻れるとも思ってない。でも、消えていいとは言ってない」
わたしはカメラの方を向いた。
「この写真に入るかどうかは、お母さんだけが決めることじゃない。わたしにも決めさせて」
母はしばらく黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「……うん」
その声を聞いて、わたしはようやく前を向けた。
蒼がカメラを構えた。
「ひより」
「なに」
「ちゃんと見てるね」
それだけで、何の話か分かった。
昔のわたしなら、きっとこの写真から目をそらしていた。家族写真なんて平気なふりをして、本当は一番見たくなかった。
「……見てるよ」
わたしは前を向いた。
「だから、ちゃんと撮って」
「うん。任せて。準備いいですか」
四人が蒼を見た。
「いいよ」
わたしはオーケイを出した。
蒼はファインダーを覗いた。
「少しだけ待ってください。全員の顔が、ちゃんと入るまで」
わたしの隣におばあちゃんがいる。反対側に父がいる。その向こうに、母がいる。
みんな、目をそらしていなかった。前を向いていた。ぎこちなかった。でも、前を向いていた。
蒼が息を整えるように、少しだけ間を置いた。
「撮るよ」
誰も返事をしなかった。
でも、誰も目をそらさなかった。
シャッターの音がした。
それだけの音だった。何かが光ったわけでも、写真館の空気が変わったわけでもない。
けれど、わたしはその音を、たぶんずっと忘れないと思った。
十年前に鳴らなかった音だった。
数枚撮ったあと、蒼がカメラを下ろした。
「撮れました」
蒼がカメラの画面をこちらに向けた。
小さな画面の中に、四人が並んでいた。
母の輪郭は、まだ少し淡く見えた。光の加減かもしれないし、わたしがそう見ているだけかもしれない。
それでも、母は写真の外にはいなかった。
おばあちゃんの隣に、父の隣に、わたしの隣に、ちゃんと立っていた。
「ちゃんと撮れてる」
蒼が、いつもの声で言った。
その普通さに、少し救われた。
誰もすぐには動かなかった。しばらく、四人でそのままの場所に立っていた。
「どんな顔で写っているか、後で確認しよう」
父が言った。
「後でいい。今は、撮ったということが分かればいい」
おばあちゃんはそう言った。
「そうだね」
わたしは言った。
母は何も言わなかった。でも、肩の力が少し抜けたのが分かった。撮られる前と撮られた後で、少し変わった気がした。
蒼はカメラをカウンターに置いて、「お邪魔しました」と言った。
「待って」
「なに」
「写真に入って。一枚だけ」
「え」
「家族写真じゃないけど、今日ここにいてほしい人だから」
蒼は少し迷った。
「いいの?」
「いいよ。蒼ちゃんがいなかったら、今日のことは始まらなかった」
蒼はカメラをセルフタイマーに切り替えて、五人で並んだ。今度は少し窮屈な感じがしたが、それが悪くなかった。
写真一枚で、十年がなかったことになるわけではない。
母をすぐに許せるわけでもない。父も、おばあちゃんも、母も、わたしも、たぶんまだ何度も言葉を間違える。
それでも、次に話すときのための一枚ができた。
四人で写った、逃げなかった日の写真。
そして、そこまで連れてきてくれた人も一緒に写っている写真。
それだけで、今日はそれ以上のものはいらないと思った。
午後になって、母が帰ることになった。
玄関まで送った。硝子戸の前で、母が振り返った。
「また来ていい?」
「来て」
「すぐには、何も変わらないけれど」
「分かってる」
「許してほしいとは言わない。でも」
「でも?」
「ひよりが呼んでくれてよかった。今日、来てよかった」
わたしは少し間を置いた。
「お母さん」
その言葉が、自分の口から出た瞬間、少し驚いた。意識して言ったわけではなかった。自然に出てきた。
母の顔が、変わった。泣きそうになっているのが分かった。でも、泣かなかった。こらえて、わたしを見ていた。
「許したわけじゃない。でも、いなかったことにはしたくない」
「うん」
母は、声が低くなっていた。
「また来て」
「来る。必ず来る」
硝子戸が開いて、母は商店街に出ていった。
夏の光の中を、歩いていった。
わたしはしばらく、その後ろ姿を見ていた。
夕方、仕事が終わってから、倉庫に入った。
アルバムを出した。
四人写真のページを開いた。
手が止まった。
母の輪郭が、少しだけ戻っていた。
完全ではなかった。まだ薄かった。でも、今朝よりは、確かに濃い。肩の線が、少しだけはっきりしていた。顔の輪郭が、少しだけ分かるようになっていた。
写真を持ったまま、しばらく動けなかった。
戻っている。完全にではないけれど、消えてはいない。
これがどういうことなのかを、言葉で説明することはできなかった。でも、分かる気がした。今日起きたことが、何かを変えた。
完全には戻らなかった。昔の家族写真の母は、あのころのような濃さには戻らないのかもしれない。でも、消えてはいない。
アルバムを閉じて、棚に戻した。
一階に下りると、おばあちゃんがカウンターに座っていた。台帳を閉じて、窓の外を見ていた。夕方の商店街が、オレンジ色に光っていた。
「写真、少し戻ってた」
おばあちゃんは振り返って、「そう」と言った。
「完全じゃないけど」
「完全じゃなくていい。今日始まったばかりだから」
わたしは頷いた。
カウンターに立って、窓の外を見た。おばあちゃんと並んで、同じ方向を見た。
「夏休み、終わりそうだね」
「もう少しいる」
「ありがとう」
「写真館、続けるよ。夏が終わるまで」
「夏が終わってからも、来たくなったら来ていい。継がなくていいから」
「うん、また来る。継ぐかどうかは、まだ分からないけど」
「それでいい。それでいいよ」
翌日、現像が上がってきた。
蒼が受け取って、写真館に持ってきてくれた。
封を開けて、四人で撮った写真を確認した。
おばあちゃん、父、わたし、母。
少し距離があって、ぎこちない並び方で、四人が写っていた。でも、誰も目をそらしていなかった。誰も、笑いすぎていなかった。ただ、そこにいる四人が、写っていた。
そして、母がちゃんと写っていた。
薄くなっていなかった。輪郭がはっきりしていた。肩の線も、顔の表情も、ちゃんとそこにあった。
わたしはその写真を、しばらく見た。
古いアルバムの中の母とは違う。ずっと若い母とは違う。でも、ここに写っている母は、消えていなかった。
おばあちゃんが写真の右端を指でそっと押さえた。
「額に入れよう」
「どこに飾るの?」
「見本写真の横。店の入口に」
「見本写真として?」
「うちの写真館で撮った写真だから。それでいいでしょう」
父が少し笑った。蒼も笑った。わたしも、笑った。
後日、その写真は本当に店の入口に飾られた。
七五三の子どもや、成人式の姉妹や、銀婚式の夫婦の写真の横に、ぎこちない四人の家族写真が並んだ。
それは、幸せそうな家族写真ではなかった。
でも、嘘の写真でもなかった。
古いアルバムには、薄くなった昔の四人写真がある。
店の入口には、母が消えずに写った新しい四人写真がある。
どちらも本物だった。
どちらも、そのときそこにいた四人だった。
窓の外で、夏が終わりに向かっていた。
でも、写真館はまだここにある。
わたしもまだ、ここにいる。
(了)




