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明日、家族写真から母が消える  作者: 明石竜


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12/12

最終話 新しい家族写真

 午前十時を少し過ぎたころだった。

 わたしは受付に立っていた。硝子戸の向こうに、人影が見えた。一瞬止まってから、ドアを開けた。

 母だった。薄いグレーのシャツを着ていた。工房で会ったときと同じように、背筋がまっすぐで、でも少し緊張しているのが分かった。商店街の入口から、ここまで歩いてきたのだろう。夏の光の中に立っていた。

「来た」

わたしがそう言ったら、

「来た」

 母はこう返した。

 お互いに、それだけだった。

 わたしは「入って」と言って、硝子戸を大きく開けた。

 奥の部屋に、おばあちゃんと父がいた。

 おばあちゃんはカウンターの椅子に座っていた。父は壁の近くに立っていた。どちらも、母が入ってきた瞬間に顔を上げた。

 誰も、すぐには動かなかった。

 十年ぶりに、四人が同じ場所にいた。

 沈黙があった。長い沈黙ではなかったが、重かった。

 最初に動いたのは、おばあちゃんだった。

 椅子から立ち上がって、母の前に立った。

 母はおばあちゃんを見た。目が、少し揺れていた。

「灯子」

「お母さん」

 それだけで、おばあちゃんの目に涙が来た。こらえて、こらえて、でも少しだけ滲んだ。

「ごめんなさい。言ってはいけないことを言った。あなたを追い詰めた」

「私も、逃げた。ごめんなさい」

 二人はそのまま、少しの間向かい合っていた。抱き合うことはしなかった。でも、その距離が、今の二人にはちょうどいい気がした。

 父が、母の方を見た。

「久しぶりだな」

「久しぶり」

「元気だったか」

「元気ではなかったけれど、生きていた。あなたは」

「同じだ。元気ではなかったけれど、生きていた」

 二人は少し苦笑いした。十年のあいだに積み上がったものが、その苦笑いの中にあった。

「ひよりを、ちゃんと育ててくれてありがとう」

 母が、父に向かって言った。

「礼を言われることはしていない。ただ、隣にいただけだ」

 父は、少し目を伏せたまま答えた。

「それで十分だよ」

 母はそう言って、今度はおばあちゃんを見た。

 おばあちゃんは、母の視線を受け止めるように頷いた。

「黙っていてごめんなさい。ひよりにも、灯子にも、ちゃんと向き合えなかった」

「……うん。私も、ちゃんと話さなかった」

 母は、声を落としてそう言った。

 わたしは少し離れたところに立って、三人を見ていた。

 謝罪が続いて、どこかぎこちなかった。当然だと思った。十年ぶりに会って、すぐにうまくいくはずがない。でも、誰も逃げていなかった。誰も、目をそらしていなかった。

 母がわたしを見た。

「ひより」

「うん」

「来させてくれてありがとう。呼んでくれなかったら、来られなかったと思う」

「呼んだのは、来てほしかったから」

「そうね」

「感謝されたくて呼んだわけじゃない。でも、来てくれてよかった」

 母は頷いた。

 しばらく、四人で話した。

 うまく話せない時間の方が長かった。沈黙が来るたびに、誰かが短い言葉を出して、また沈黙になる。でも、その沈黙が前よりも少し軽い気がした。

 おばあちゃんがお茶を入れた。四人分。

 四つの湯飲みが、テーブルの上に並んだ。それを見て、わたしは少し胸が痛くなった。いつもは三つだった。今日だけ、四つある。

 母が手紙の話を始めた。

「あの修復写真、おかしかった。自分を入れない写真を送るなんて、矛盾してる。分かっていた。でも、入れる勇気がなかった」

「入れればよかった」

 おばあちゃんはそう言い、

「入れてほしかった」

 父は続けた。

「入れてほしかった」

 わたしもそう言った。

 母は少し目を伏せた。

 それでも、もう誰も、その写真の外に母を置こうとはしていなかった。

「次は、ちゃんと入れる」

「次というのは」

 おばあちゃんが尋ねたら、母は少し間を置いた。

「また、家族写真を撮りたい。今度は、ちゃんと入った写真を」

 誰も何も言わなかった。

 でも、誰も否定しなかった。

「今日、撮ろう」

三人がわたしを見た。薄くなった写真を元に戻せるのかは分からない。撮れば何かが救われるのかも分からない。でも、十年前に撮れなかった一枚を、今度は逃がしたくなかった。

「今日でなくてもいい」

おばあちゃんが言った。

「今日がいい。今日じゃないと、また機会を逃す気がする。十年前みたいに」

 母はわたしを見た。わたしは母を見た。

許したから撮るのではなかった。許せないままでも、写真の外に追い出したくない人がいる。たぶん、そういうことなのだと思った。

「撮っていい?」

わたしは母に向かって尋ねた。 

「……いい」

「逃げない?」

「逃げない」

「約束」

「約束する」

 わたしはスマホを出して、蒼に連絡した。

『今すぐ写真館に来られる?』と送った。


 一分もせずに返信が来た。

『今カフェの休憩中。行ける。五分で行く』

 蒼が来るまでの間、四人で撮影の準備をした。

 おばあちゃんが背景紙のロールを確認して、照明を調整した。わたしは小道具を片付けて、椅子の位置を確認した。父は照明のコードが絡まっているのを直した。母は撮影スペースを見回して、「変わっていないな」と小さく言った。

「変えていない。あなたが使っていたころと同じにしている」

 母はおばあちゃんに何か言おうとして、止めた。でも、その顔に何かが出ていた。


 蒼が来たのは、それから数分後だった。

 硝子戸を開けて入ってきて、部屋の中を見渡した。わたしとおばあちゃんと父と母が揃っているのを見て、少し目を丸くした。

「全員いる」

「うん、写真を撮ってほしい」

「わたしが?」

「カメラの使い方、分かるでしょ。来るたびに触ってたじゃない」

「まあ分かるけど」

蒼はそう言って、母に視線を向けた。

「久しぶりです。蒼です。ひよりの幼なじみの」

「知ってる。大きくなったね」

「灯子さんも、お会いできてよかったです」

嘘のない声だった。

 おばあちゃんがカメラを蒼に手渡した。使い方を簡単に説明した。蒼は何度か確認して、ファインダーを覗いた。

「どこに立てばいいですか?」

「そこに四人並ぶから、少し下がって」

 蒼が下がって、カメラを構えた。

 四人が、撮影スペースの前に立った。

 おばあちゃん、父、わたし、母。

 並び方を、誰も指示しなかった。自然に、なんとなく位置が決まっていった。わたしの左におばあちゃん、右に父、その隣に母。肩を寄せ合うほどではなかった。少し距離があった。

 でも、誰も離れすぎていなかった。

 母が、少しだけ足元を見た。

「私、本当にここに入っていいのかな」

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。

「勝手に決めないで」

 思ったより強い声が出た。

 母が顔を上げた。

「十年前も、そうだったんでしょう。わたしが傷つかないようにって、わたしに何も聞かずに出ていった」

「……ごめんなさい」

「まだ許せないことはある。すぐに戻れるとも思ってない。でも、消えていいとは言ってない」

 わたしはカメラの方を向いた。

「この写真に入るかどうかは、お母さんだけが決めることじゃない。わたしにも決めさせて」

 母はしばらく黙っていた。

 それから、小さく頷いた。

「……うん」

 その声を聞いて、わたしはようやく前を向けた。


 蒼がカメラを構えた。

「ひより」

「なに」

「ちゃんと見てるね」

 それだけで、何の話か分かった。

 昔のわたしなら、きっとこの写真から目をそらしていた。家族写真なんて平気なふりをして、本当は一番見たくなかった。

「……見てるよ」

 わたしは前を向いた。

「だから、ちゃんと撮って」

「うん。任せて。準備いいですか」

 四人が蒼を見た。

「いいよ」

わたしはオーケイを出した。

 蒼はファインダーを覗いた。

「少しだけ待ってください。全員の顔が、ちゃんと入るまで」

 わたしの隣におばあちゃんがいる。反対側に父がいる。その向こうに、母がいる。

 みんな、目をそらしていなかった。前を向いていた。ぎこちなかった。でも、前を向いていた。

 蒼が息を整えるように、少しだけ間を置いた。

「撮るよ」

 誰も返事をしなかった。

 でも、誰も目をそらさなかった。

 シャッターの音がした。

 それだけの音だった。何かが光ったわけでも、写真館の空気が変わったわけでもない。

 けれど、わたしはその音を、たぶんずっと忘れないと思った。

 十年前に鳴らなかった音だった。


 数枚撮ったあと、蒼がカメラを下ろした。

「撮れました」

 蒼がカメラの画面をこちらに向けた。

 小さな画面の中に、四人が並んでいた。

 母の輪郭は、まだ少し淡く見えた。光の加減かもしれないし、わたしがそう見ているだけかもしれない。

 それでも、母は写真の外にはいなかった。

 おばあちゃんの隣に、父の隣に、わたしの隣に、ちゃんと立っていた。

「ちゃんと撮れてる」

 蒼が、いつもの声で言った。

 その普通さに、少し救われた。


 誰もすぐには動かなかった。しばらく、四人でそのままの場所に立っていた。

「どんな顔で写っているか、後で確認しよう」

 父が言った。

「後でいい。今は、撮ったということが分かればいい」

 おばあちゃんはそう言った。

「そうだね」

 わたしは言った。

 母は何も言わなかった。でも、肩の力が少し抜けたのが分かった。撮られる前と撮られた後で、少し変わった気がした。


 蒼はカメラをカウンターに置いて、「お邪魔しました」と言った。

「待って」

「なに」

「写真に入って。一枚だけ」

「え」

「家族写真じゃないけど、今日ここにいてほしい人だから」

 蒼は少し迷った。

「いいの?」

「いいよ。蒼ちゃんがいなかったら、今日のことは始まらなかった」

 蒼はカメラをセルフタイマーに切り替えて、五人で並んだ。今度は少し窮屈な感じがしたが、それが悪くなかった。


 写真一枚で、十年がなかったことになるわけではない。

 母をすぐに許せるわけでもない。父も、おばあちゃんも、母も、わたしも、たぶんまだ何度も言葉を間違える。

 それでも、次に話すときのための一枚ができた。

 四人で写った、逃げなかった日の写真。

 そして、そこまで連れてきてくれた人も一緒に写っている写真。

 それだけで、今日はそれ以上のものはいらないと思った。


 午後になって、母が帰ることになった。

 玄関まで送った。硝子戸の前で、母が振り返った。

「また来ていい?」

「来て」

「すぐには、何も変わらないけれど」

「分かってる」

「許してほしいとは言わない。でも」

「でも?」

「ひよりが呼んでくれてよかった。今日、来てよかった」

 わたしは少し間を置いた。

「お母さん」

 その言葉が、自分の口から出た瞬間、少し驚いた。意識して言ったわけではなかった。自然に出てきた。

 母の顔が、変わった。泣きそうになっているのが分かった。でも、泣かなかった。こらえて、わたしを見ていた。

「許したわけじゃない。でも、いなかったことにはしたくない」

「うん」

母は、声が低くなっていた。

「また来て」

「来る。必ず来る」

 硝子戸が開いて、母は商店街に出ていった。

 夏の光の中を、歩いていった。

 わたしはしばらく、その後ろ姿を見ていた。


 夕方、仕事が終わってから、倉庫に入った。

 アルバムを出した。

 四人写真のページを開いた。

 手が止まった。

 母の輪郭が、少しだけ戻っていた。

 完全ではなかった。まだ薄かった。でも、今朝よりは、確かに濃い。肩の線が、少しだけはっきりしていた。顔の輪郭が、少しだけ分かるようになっていた。

 写真を持ったまま、しばらく動けなかった。

 戻っている。完全にではないけれど、消えてはいない。

 これがどういうことなのかを、言葉で説明することはできなかった。でも、分かる気がした。今日起きたことが、何かを変えた。

 完全には戻らなかった。昔の家族写真の母は、あのころのような濃さには戻らないのかもしれない。でも、消えてはいない。


 アルバムを閉じて、棚に戻した。

 一階に下りると、おばあちゃんがカウンターに座っていた。台帳を閉じて、窓の外を見ていた。夕方の商店街が、オレンジ色に光っていた。

「写真、少し戻ってた」

 おばあちゃんは振り返って、「そう」と言った。

「完全じゃないけど」

「完全じゃなくていい。今日始まったばかりだから」

 わたしは頷いた。

 カウンターに立って、窓の外を見た。おばあちゃんと並んで、同じ方向を見た。

「夏休み、終わりそうだね」

「もう少しいる」

「ありがとう」

「写真館、続けるよ。夏が終わるまで」

「夏が終わってからも、来たくなったら来ていい。継がなくていいから」

「うん、また来る。継ぐかどうかは、まだ分からないけど」

「それでいい。それでいいよ」


 翌日、現像が上がってきた。

 蒼が受け取って、写真館に持ってきてくれた。

 封を開けて、四人で撮った写真を確認した。

 おばあちゃん、父、わたし、母。

 少し距離があって、ぎこちない並び方で、四人が写っていた。でも、誰も目をそらしていなかった。誰も、笑いすぎていなかった。ただ、そこにいる四人が、写っていた。

 そして、母がちゃんと写っていた。

 薄くなっていなかった。輪郭がはっきりしていた。肩の線も、顔の表情も、ちゃんとそこにあった。

 わたしはその写真を、しばらく見た。

 古いアルバムの中の母とは違う。ずっと若い母とは違う。でも、ここに写っている母は、消えていなかった。

 おばあちゃんが写真の右端を指でそっと押さえた。

「額に入れよう」

「どこに飾るの?」

「見本写真の横。店の入口に」

「見本写真として?」

「うちの写真館で撮った写真だから。それでいいでしょう」

 父が少し笑った。蒼も笑った。わたしも、笑った。


 後日、その写真は本当に店の入口に飾られた。

 七五三の子どもや、成人式の姉妹や、銀婚式の夫婦の写真の横に、ぎこちない四人の家族写真が並んだ。

 それは、幸せそうな家族写真ではなかった。

 でも、嘘の写真でもなかった。

 古いアルバムには、薄くなった昔の四人写真がある。

 店の入口には、母が消えずに写った新しい四人写真がある。

 どちらも本物だった。

 どちらも、そのときそこにいた四人だった。

 窓の外で、夏が終わりに向かっていた。

 でも、写真館はまだここにある。

 わたしもまだ、ここにいる。

(了)

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