6話 屋敷
鍵の鳴る音で目が覚めた。
金属の束が擦れ合う音だ。顔のすぐ横で。ケイトは一度、目を閉じ直した。
縄に縛られた腕が重い。後頭部が疼いている。
(……売られた)
廃屋。男。金の音。シルヴァンの声。アエラの目。
全部思い出したが、どこか遠くの話のようだった。頭が痛すぎて感情がついてこない。
目を開けると石造りの低い天井があった。部屋の隅に男が一人いて書類を確認している。廃屋で金を渡していた黒い外套の男だ。首から下げた鍵の束が動くたびに小さく鳴った。
ケイトが起き上がろうとすると男が顔を上げた。
「目が覚めたか。立てるか?」
「……立てます」
「じゃあ立て。確認がある」
別の部屋に連れて行かれた。部屋の中央に椅子と小さな台がある。台の上に、ぼんやりと赤く光るものがあった。
壁際に男が一人立っていた。黒い外套の男より年上に見える。白髪混じりで腕に古い傷跡がある。腰には鍵ではなく小さな革袋をぶら下げていた。
男はケイトを頭から足まで眺めてから手元の紙を開いた。
「異界者、名前はケイト。人族。スキルは教会鑑定で文字化け内容不明。これで合ってるか?」
「……はい」
「前の世界の知識は?売り込みの段階で聞いているが本人に確認する」
「商会に勤めていました。書類仕事や交渉なら多少は。武器の扱いや魔法は何も」
「スキルが使えた実感は?」
「ありません」
男は紙に書き足した。一つ確認するたびにペンが動く。感情はなく作業だった。
確認が終わると男は台の上の器具に手を伸ばした。
「首を出せ。刻印を入れる」
翠銀の弦と行動していた頃に聞いたことがある。所有者が奴隷に刻む紋様で逃亡や反抗に反応する仕掛けがあると。
「待ってください」
男の手が止まった。
「俺は何もしていない。犯罪を犯したわけでも借金があるわけでも。ただ騙されて連れてこられただけだ。それでこんなものを入れられる理由がわからない」
男はケイトを一瞥してそれから器具に視線を戻した。
「お前の出身地じゃそうなのかもしれないが、ここではそれが理由になる。人族と獣人は本人の意思に関係なく奴隷にできる。合法だ」
「合法かどうかの話じゃない!」
「じゃあなんの話だ?」
言葉が詰まった。
なんの話だ。正しいか間違いかの話だ。人間をこういう扱いにしていいかどうかの話だ。だがそんなことを言っても、この男には何の意味もないとわかっていた。前の職場でも理不尽な指示に「おかしい」と思いながら従い続けた。声を上げるだけの力も根拠も、あのときはなかった。今もない。
男は待たなかった。
「諦めろ。大人しくしていればすぐ終わる。暴れると長くなるぞ」
首筋に何か当てられた。
次の瞬間、熱かった。
熱さというより刺すような痛みだ。皮膚の下まで焼かれるような感覚が首の横を走った。ケイトは奥歯を噛みしめた。声は出さなかった。怒りをどこに向ければいいかわからなかった。
数秒で終わった。
「所有者に反抗したり危害を加えようとすると激痛が走る。最悪死ぬ。それだけは覚えておけ」
男は書類に押印して扉の外に向かって言った。「終わった。入れ」
黒い外套の男が入ってきた。書類を受け取り中身を確認してから頷いた。
それからケイトの体を一通り改めて身につけていたものを取り上げた。冒険者証、短刀、腰の小袋。残ったのは着ていた服だけだった。
「今日中に届ける」
(合法だと)
この世界では、それだけで全部が通る。理不尽だと思う気持ちは本物だ。だが今のケイトには、それを通せるだけのものが何もなかった。
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夕方になってから馬車に乗せられた。
今度は縄を解かれた。幌なしの荷台で外が見える。奴隷商の建物のあった路地を抜けるとリムガルドの城壁が視界に入り、それからすぐに遠ざかっていった。
田園が続いた。畑が広がり遠くに農夫らしき人影が見える。のどかな景色だった。のどかすぎて自分の状況との落差が変に感じられた。
道の先に石造りの館が見えてきた。
大きくはない。貴族の邸宅というより機能的な造りだ。庭は整えられているが飾り気がなく周囲を石塀が囲っている。入口の両脇に護衛が立っていた。目線が動いた。こちらを確認している。
馬車が止まると執事らしき男が出てきた。目の下に深い隈のある細身のエルフで表情が乏しい。
「名前はケイトか」
「はい」
執事は書類を一瞥して奥へ歩き出した。「ついて来い。これからお前の主となるダエリス様に会わせる。粗相のないように」
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ダエリスとの対面は玄関を入った先の広間で行われた。
長椅子に座った男がいた。
エルフだ。年齢は見た目で四十代くらいか。整った顔立ちで身なりは清潔だ。薄い色の上着を着ていて膝の上で指を組んでいた。傍らに書類が置いてある。声を上げるでもなく立ち上がるでもなく、ただ座ってこちらを見ていた。
目が合った。
感情が読めない目だった。怒っているわけでも喜んでいるわけでもない。品定めをするでもなく、ただ事実を確認している。そういう目だ。
「お前が新しい異界者の奴隷か?」
低い声だった。問いかけではなく確認するような言い方だった。
「……はい」
ダエリスは書類を一瞥した。それから静かに言った。
「報告は読んだ。スキルは不明、戦闘経験なし知識は商業と書類仕事。それで合っているか?」
「……はい」
「ならば聞くが、お前にはどんな価値がある?」
「……価値、ですか」
「私は異界者を集めている。理由は単純だ。この世界にない知識や技術を持ち込み私の利益になるからだ。お前にはそれがあるか?」
言葉が出なかった。
商社の仕事。交渉。書類仕事。それを「価値」と呼べるのか。この世界で何の役に立つ。
「……今すぐに、お見せできるものはありません」
「そうか」
ダエリスは短く息を吐いた。落胆ではなかった。ただの記録だった。書類に目を落とし視線の動きで話が終わったことを示した。執事が「こちらへ」と促した。
(……何を考えているんだ)
広間を出ながらそれだけを考えた。声を荒げず脅しもしない。怒声なら慣れているが、この温度のなさはわからない。
それがかえって胃の底に重く残った。
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屋敷の裏手に奴隷の小屋があった。
木造で板張りの床だ。窓は小さく夕暮れの光だけが差し込んでいる。中に藁の束が敷かれていて、それが寝床らしかった。
執事が入口から中を顎でしゃくった。
「今日から使う場所だ。寝床は空いているところを使え。朝は鐘が鳴る前に起きる。飯は朝と夜の二回。仕事の指示は明朝に出す」
それだけ言って踵を返した。
小屋には先に数人の奴隷がいた。人族の男が二人、壁にもたれて目を閉じている。話す気力もないのかケイトが入ってきても顔を上げなかった。
その奥、角の暗がりに、もう一人がいた。
少女だった。狐の耳と尻尾を持つ獣人だ。体格が細い。病み上がりのような顔色で膝を抱えて座っている。ケイトと目が合った瞬間、すぐに視線を逸らした。
(同じ状況か)
それ以上は何もなかった。
ケイトは壁際に場所を見つけ藁の上に腰を下ろした。首の刻印が、じくじくと疼いている。
小屋の外から遠く虫の声が聞こえた。
夕風が板の隙間から入ってきた。夏に近い気温だった。転移したのが春だったから一ヶ月ちょっとで季節が変わったことになる。
(一ヶ月、か)
翠銀の弦と過ごした日々がよぎった。飯を食った。ゴブリンを狩った。夜、食堂でくだらない話をした。毎朝、食堂で顔を合わせた。一ヶ月分のその全部が今はひどく遠い。
(また振り出しだ)
いや振り出しですらないかもしれない。
前世でもこういうことはあった。積み上げてきたものが、ある日まとめて崩れる。人間関係でも仕事の信頼でも。そのたびに、また一から始めるしかなかった。
今回もそうだというだけのことだ。
ケイトは壁に背を預け目を閉じた。
どうやって状況を把握するか。どうすれば逃げられるか。刻印の仕組みを誰かから聞けるか。
考えることが、いくらでもあった。
ただ今日はもう考えたくなかった。




