2話 エルフと夜
掲示板の前に立ったまま、しばらく経った。
依頼書がびっしりと並んでいる。「ゴブリン討伐」「薬草採集」「荷物の護衛」。文字は読める。内容もわかる。なのにどれを選べばいいのかまったくわからない。
報酬の数字を見ても物価を知らないので相場の感覚がない。「ゴブリン三体で銀貨二枚」。銀貨二枚が今夜の宿代に足りるのかどうか見当もつかない。
悩んでいるうちにギルドの中が静かになってきた。
さっきまで賑やかだった長テーブルの冒険者たちが、ひとり、またひとりと出ていく。赤毛の受付はカウンターの台帳に何かを書き込んでいる。窓の外の光が橙色に変わっていた。
(まずい)
依頼を受けなければ今夜の宿も、飯も、何もない。
ポケットに手を突っ込んでみると今朝まで持っていたはずのものが全部なかった。スマートフォンも、定期も、財布も鍵も。
今朝死んだはずなのに今度は路上生活か。
「初めての登録か?随分と迷ってるな」
横から声がかかった。
振り返ると男が立っていた。長い銀髪を後ろで緩く束ねた背の高い男だ。見た目は三十代前半くらいに見える。清潔感があって笑みを浮かべていた。その隣に茶色い髪を無造作に編んだ女と、暗緑色の短髪の大柄な男、それから金髪の細身の若い男。四人組だ。
そしてその全員の耳が髪の隙間からわずかに覗いていた。
(……尖ってる)
四人とも。
夢でも海外でもない。ここは文字通り別の世界だ。城壁都市で言葉が通じてゴブリン討伐の依頼があってエルフがいる。答えを保留にしていたが、もうそういうことだ。
自分は異世界に転移した。
「俺はシルヴァン。こっちがアエラ、ドレアン、ファリンだ。四人で『翠銀の弦』ってパーティーを組んでいる」
銀髪の男――シルヴァンが言った。
「ケイトです」
「今日登録したばかりか?」
「はい」
「そうだろうな。その格好で迷ってる様子を見れば分かる」
茶髪の女――アエラが言った。サバサバとした口調だったが嫌味な感じはなかった。
「Fランクが今から受けられる依頼は終わっているわ。今日はもう無理よ」
シルヴァンが掲示板をひと眺めして言った。
「そうですか」
「今夜の宿は確保してるのか?」
ケイトは答えなかった。
シルヴァンは特に表情を変えず「なければ俺たちの泊まっている宿の食堂で飯でもどうだ?明日うちのパーティーで依頼を受けるから一緒に受けたらいい。新人ひとりより人数がいた方がいいだろう」
断る理由を探した。見つからなかった。今夜の状況が状況だったし断ったところで他に手がなかった。
人をすぐ信じない、と前の人生で決めたはずだが、今はそれどころではなかった。
「……お願いします」
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ギルドの向かいにある食堂に入ると、シルヴァンは慣れた様子で席を確保して注文を通した。
スープと黒パン、肉の串焼き。出てきた料理を前にケイトは少し躊躇ってから口をつけた。塩気のある豆のスープだった。温かかった。空腹だったせいもあるが思っていたよりずっとうまかった。
「どこから来た?」
アエラが言った。
「遠い方から」
「ずいぶんざっくりしてるわね」
「言っても信じないと思う」
「もしかして異界者?」
さらりと言われてケイトは少し驚いた。
「……そういうことを知ってるんですか?」
「たまに聞くわ。別の世界から来る人間が百年に数人はいるみたい。格好が妙だからそうなのかと思って」
アエラは串焼きをかじりながら言った。シルヴァンは穏やかな顔で聞いていた。ドレアンは黙って食っている。ファリンは酒を飲みながらどこか落ち着きなく周囲に視線を流していた。
「この世界に来たばかりなら、分からないことも多いだろう。依頼の受け方とか、金の使い方とか、聞きたいことがあれば言ってくれ」
シルヴァンが言った。
親切だった。警戒する理由が見当たらない。それが逆に、ほんの少しだけ引っかかった。
(まあ)
ケイトはスープに視線を落とした。
考えすぎかもしれない。前の人生で人間不信になっただけで親切な人間がいないわけではない。そういう人間に出会うたびに疑っていたら何もできない。
ひとまず今夜は飯を食える。それだけでいい。
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食事中にシルヴァンは宿を手配してくれていた。「明日の朝、食堂で落ち合おう」とだけ言って四人は廊下の奥へ消えた。
宿の主人から鍵を受け取ってケイトは部屋に入った。
狭い部屋だった。
木製のベッドと小さな卓と蝋燭立てが一つ。窓の外はもう暗い。
ケイトはベッドに腰を下ろしてしばらく天井を見上げた。
(異世界に転移した)
改めてそう思うと少し頭がおかしくなりそうだった。
とりあえず、やるべきことはやっておこうと思った。
「ステータスオープン」
何も起きなかった。
「スキル確認」
何も起きなかった。
「鑑定」「アイテムボックス」「ヘルプ」「ファイアーボール」
何も、起きなかった。
部屋に自分の声が吸い込まれていくだけだった。チートはない。転移特典もない。神様からのお告げも便利なスキルも何もない。
(そうだよな)
うまい話はない。前の人生でも、そうだった。
ケイトはベッドに横になった。疲れた。今朝死んで、気づいたら林の中にいて、一日中歩いた。
目を閉じると今日のことが順番に浮かんできた。林の中で目覚めたこと。言葉が通じることに驚いたこと。城門の門番に名前を聞かれて咄嗟にケイトと名乗ったこと。エルフの耳を見た瞬間に全部合点がいったこと。
自分は今、別の世界にいる。
四十一年間積み上げてきたものが全部、どこかに置いてきたままだ。役職も、人間関係も、前の人生の面倒くさい全部が。
前の人生には、もう帰れない。
ただそれはつまり帰らなくていいということでもある。
ケイトは目を閉じたまま小さく息を吐いた。
(まぁ、なんとかなるか)
根拠はない。なんとかならないかもしれない。特典も、チートも、何もない。それでも今夜くらいはそう思って眠った。




