閑話3 竜神さまの真実
焚き火の上で兎肉のスープが煮えていた。
リアが食事担当になってから、野営の夜は匂いから違う。干し肉を齧るだけだった頃が、もう思い出せない。
「ほら、できたよ」
木の椀を受け取って一口。香草の香りが鼻に抜ける。
「うまい」
「でしょ?」
リアが得意げに尻尾を揺らし、自分の椀を抱えて隣の倒木に座った。
火の粉が夜空に昇っていく。リアは星を見上げて、ふと目を細めた。
「こういう夜はさ、おばあちゃんの話を思い出すんだよね」
「ばあちゃん子だったのか?」
「うん。冬の夜は囲炉裏の前でね、いっつも昔話をしてくれたの」
リアが椀を膝に置いた。声の調子が少し変わる。語って聞かせる声だった。
「あたしの村にはね、こういう昔話があるの。——森を抜けて、ずうっと東に行った山の上には、竜神さまが住んでいる」
ケイトのスープを飲む手が止まった。
「それはそれは大きくて雄々しい、雄の竜神さまでね。怒らせると山が吼えて、空が割れる。昔、力自慢の戦士たちが何人も山に入って——誰一人、帰ってこなかった。だから大人は子どもに言うの。山に近づいちゃいけない。竜神さまの機嫌を損ねたら、村ごと氷漬けにされるよって」
『……のう、小娘』
ケイトの左手から声がした。
「小娘って言うな。何よ、いいところなのに」
『その竜神とやら、銀の鱗に、氷の冠のような角が生えておらんかったか?』
「……そう。おばあちゃんはそう言ってた。なんで知って——」
リアの視線がゆっくりと、ケイトの左手に落ちた。
『それ、我のことじゃな』
沈黙。
焚き火の薪が一本、音を立てて崩れた。
「……はあ!?」
「言ってなかったか?ハクはあの山の山頂にいたんだ」
「聞いてない! え、待って。じゃあ何?あんたの左手にいるその竜が、竜神さま?」
「神かどうかは知らんが、あの山の竜はハクだけだ。山頂で戦って、何だかんだあって喰った」
「食べ……」
リアの椀が傾いて、スープがこぼれかけた。
「あんた、竜神さまを食べたの!?」
「正確には逆鱗の周りの肉を少しな」
「余計に悪いわよ!」
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「待って。待って待って。整理させて」
リアがこめかみを押さえた。
「村の伝説だと、竜神さまは何百年も前からあの山にいて、怒ると山が吼えて、挑んだ者は全滅で……」
『うむ。何百年もおったのは本当じゃ』
「やっぱり……」
『基本的に、ずっと寝ておった』
「……は?」
『寝ておった。あの岩盤の上はよいぞ。日が当たって風が通る。雪の日は翼にくるまって寝るのが一番じゃ』
リアがぽかんと口を開けた。
「え、でも、山が吼えるって」
『いびきかのう』
「いびき!?」
ケイトがスープでむせた。
『竜の寝息は遠くまで届くでな。腹が膨れた日はよう響いたのかも知れんな』
「じゃ、じゃあ挑んだ人たちは? 帰ってこなかった戦士たちは? 全滅したって……」
『知らぬ』
「知らぬって何よ!」
『会うておらぬものは知りようがなかろう。あの山頂は人の足で登れる場所ではないのじゃ。崖と吹雪で大抵は途中で死ぬか引き返す。我のところまで来た人間は後にも先にもこやつ一人じゃ』
リアがケイトを見る。ケイトは頷いた。
「実際ひどい山だった。山頂に着くまでに何回死にかけたか覚えてない」
『つまりじゃ。全滅したという戦士どもは我の知らぬところで勝手に山に挑み、勝手に消えたのじゃろう。我は寝ておった』
「……」
リアの尻尾から力が抜けていく。
「じゃあ、魔獣も竜も山に近寄らないのは? 竜神さまの縄張りだから、入った獣は皆殺しだって——」
『ああ、たまにおったのう。喧嘩を売りに来る馬鹿な竜が』
ハクの声がどこか懐かしそうに緩んだ。
『若いのが時々、名を上げようと突っかかってきよる。じゃが我の鱗には歯も爪も通らぬ。痛くも痒くもないでな、相手にせず寝ておったら、そのうち諦めて帰りよるのじゃ』
「無視!?」
『戦うのも面倒じゃし』
「面倒って……」
リアが頭を抱えた。
ケイトが椀を置いた。
「待て。俺の時は様子見もなしに、最初からブレスが来たぞ。あれはどういうことだ?」
『お主は別じゃ!』
ハクの声が急に大きくなった。
『我とて最初は寝起きで様子を見ておったのじゃ。氷だの岩だの風だの当たっても効かぬから放っておいた。そうしたらお主、あの光を放ったじゃろう』
「光線か」
『あれがたまたま逆鱗に当たったのじゃ!』
左手の声が裏返った。
『あれは痛かったんじゃぞ! 数百年生きて、あんなに痛かったのは初めてじゃった! 寝起きにいきなり急所を焼かれた我の身にもなってみよ!』
「……すまなかった」
ケイトが顎を撫でた。
「確かに、あそこから急に本気になったもんな」
『当たり前じゃ!』
「悪かったな。狙ったわけじゃない」
『狙って当てたのならもっと恐ろしいじゃろうが!』
リアが二人を見比べて震える声で言った。
「……つまり、何? 何百年も村中が怖がってた竜神さまは、ほとんど寝てて、いびきで山を鳴らして、喧嘩を売られても面倒だから無視してて、最後はたまたま急所に当たった一発に怒って大暴れしたの?」
『要約するでない』
「合ってるんだ……」
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「あ、そうだ。供物は?」
リアが思い出したように顔を上げた。
「年に一回、村の代表が山の麓にお供えをしてたの。焼いた羊とか、お酒とか。あれはちゃんと受け取ってたんでしょ?」
『……ああ、あれか。麓に時々妙なものが置いてあったのう。焼いた肉に酒に、布だの壺だの』
「食べてあげてたんでしょ?」
『一度舐めてみたが、人間の作るものは味が濃すぎるのじゃ。生肉のほうがましじゃな。あとは狐や狼が持っていきよった』
「狐……あたしたちの村の供物、狐が食べてたんだ……」
リアががっくりと肩を落とした。三角の耳がぺたんと伏せる。
「……もういい。最後に一つだけ聞かせて」
リアが顔を上げた。
「伝説だとね、竜神さまは、それはそれは立派で雄々しい、雄の神様だったの。せめてそこだけは合ってるって言って」
『誰が雄じゃ』
「……え?」
『我はメスじゃ!』
リアが固まった。
ケイトの椀を持つ手も止まっていた。
「お前、メスだったのか?」
『お主も知らんかったのか!? 数か月も我と一緒におって!?』
「聞いてないからな」
『このキュートな声を聴いたら普通はメスだと思うじゃろ!』
「そんなこと言われてもしゃべり方が古臭いし……」
『誰のしゃべり方が古臭いんじゃ!?』
リアが燃え尽きたように倒木にもたれた。
「全部……あたしの村の伝説、全部違うじゃない……」
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焚き火の薪が爆ぜた。
リアはしばらく黙って火を見ていた。さっきまでの勢いが消えて椀を抱える手だけが残っている。
「……この話ね、おばあちゃんが一番得意だったんだ」
静かな声だった。
「冬の夜に囲炉裏の前で、何回も何回も。竜神さまの話、英雄の話、森の精霊の話。あたしが怖がると嬉しそうにするの。意地悪なんだから」
火の粉が夜に昇っていく。
「……もっと色んな話、聞きたかったな」
ケイトは何も言わなかった。言葉の代わりに薪を一本、火にくべる。
ハクも黙っていた。
しばらくして左手から低い声がした。
『……小娘』
「小娘って言うな」
『そなたの村の者が、我のせいで不安な夜を過ごしておったのなら——まあ、多少は、気にせんでもないぞ』
リアが目をしばたたいた。
「何それ。謝ってるの?」
『謝ってはおらぬ。気にせんでもないと言うただけじゃ』
「素直じゃないなあ……」
リアが小さく笑った。
「でもさ、あたし今、おばあちゃんの伝説の竜神さまと焚き火を囲んで喋ってるんだよね。すごくない?」
『正確には喋っておるのは左手じゃがな』
「うるさいわね」
リアは椀に残ったスープを口に運んで、それから夜空を見上げた。
「おばあちゃんに教えてあげたかったな。竜神さまの正体、寝てるだけのメスの竜だったよって」
『おい』
「いびきで山を鳴らす、面倒くさがりの」
『おい』
「でも、ちょっとだけ優しい竜だったよって」
ハクが黙った。
焚き火の向こうでケイトが小さく笑う気配がして薪がまた一つ、爆ぜた。




