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傷喰いの異世界奴隷 〜痛みは俺の糧になる〜  作者: Astera
第4章

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23話 紐

 少女が睨んでいる。


 ケイトは左手首に目を落とした。赤と茶の編み込み。端の小さな結び目。ネアの髪をまとめていたものと同じ紐が、目の前の少女の髪にもある。


 偶然ではないと、わかっていた。


<……ケイト>


 ハクの声が遠くで聞こえた気がしたが、ケイトは答えなかった。


 少女は地面に座ったまま、片足を庇うようにして身を引いている。立てない。森の中に取り残せば、次の魔物が来たときに逃げられない。


 ケイトは一歩踏み出した。


 少女の目が鋭くなる。低い唸り声が喉の奥から漏れ、犬歯が剥き出しになった。


「触るな」


 短い声だった。


 ケイトは構わず屈み、少女の背中と膝の裏に腕を通して抱え上げた。


 爪が頬を引っ掻いた。牙が肩口に食い込む。少女が全身で暴れ、腕の中でもがいた。


「離せっ!」


 ケイトは何も言わず歩き始めた。


 少女は拳でケイトの胸を叩き、脇腹を蹴ろうとして痛めた足首に力が入り、短く息を詰まらせた。


「……っ」


 それでも暴れることをやめなかった。噛みつき、引っ掻き、身をよじる。ケイトの腕に赤い線がいくつも走る。


 構わなかった。山で受けた傷に比べれば、何でもない。


 森を抜け、廃村の通りに入る頃には少女の抵抗は弱まっていた。体力が尽きたのか、諦めたのか。腕の中で荒い息をしながら、それでもケイトの顔を睨み続けている。


 拠点にしていた家に着き、少女を床にそっと下ろした。


 少女はすぐに壁際まで這って、背中を壁に押しつけた。


---


 ケイトはマジックバッグから布と薬草を取り出した。


 少女の足首は腫れている。折れてはいない。捻挫だろう。


 ケイトが近づくと、少女はまた唸った。三角の耳が後ろに倒れ、目が細くなる。


「足を見せろ」


「……」


「放っておけば歩けなくなるぞ」


 少女は答えなかった。ケイトは黙って少女の足首に手を伸ばした。


 少女が身を引く。唸り声が漏れる。それでもケイトは手を止めず、腫れた足首に薬草を当て、布で巻いた。少女は歯を食いしばって耐えている。


 巻き終えると、ケイトはすぐに離れて竈に向かい、火を起こし始めた。


---


 火が安定した頃、小さな音が聞こえた。


 腹の鳴る音。


 少女の耳がぴくりと動き、顔が横を向いた。


 先ほど斬った魔物の中から食える部位を切り出し、串に刺して火にかけた。


 焼けた肉を一本、少女の前に置く。


 少女は睨んだまま動かない。


 ケイトが背を向けて自分の分の焼きあがりを待っている間に、後ろで小さな咀嚼の音がした。


 焼けるまでの間にマジックバッグから干し肉を取り出し、齧った。山で保存していた魔獣のものだ。


 その時、背後から風のような速さで何かが動いた。


 串が手から消えていた。


 振り返ると、少女が串を握ったまま立っていた。痛めた足で。顔が強張っている。


「バカ! 何やってんの!」


 少女が叫んだ。


「これ魔獣の肉だよ! 匂いでわかんないの!? 人族が食べたら死ぬんだけど!」


 ケイトは目を瞬かせた。


「……知ってるのか?」


「知ってるも何も、こんな濃い魔力の匂い嗅いだら獣人なら誰でもわかるわよ! あんた死にたいの!?」


 少女は串を地面に叩きつけた。肩で息をしている。足首を庇って片足に重心が寄り、体が揺れていた。


 ケイトはしばらく黙って、それから言った。


「……ありがとう」


「別にあんたのためじゃない。目の前で人が死んだら寝覚めが悪いだけ」


 少女はそう言い捨てて、壁際に戻ろうとした。痛めた足がもつれて、ケイトが手を出す前に自分で壁を掴んで体を支えた。


 火がぱちりと爆ぜた。


「……リア」


 少女が壁に背をつけたまま、小さく言った。


「名前。聞いてないでしょ」


「ケイトだ」


「ケイト」


 リアは一度だけ繰り返して、それきり黙った。


---


 日が落ちて、火の明かりだけが残った。


 ケイトは竈の前に座り、リアは壁際に背をつけたまま膝を抱えている。


 横顔に火の光が当たる。耳の形。俯く角度。


 ケイトは左手首に視線を落とした。赤と茶の編み込み。


 リアの髪にも、同じ紐。


「……その紐」


 リアの声だった。


 ケイトが顔を上げると、リアの目がケイトの左手首を射抜いていた。


「どこで手に入れたの?」


 声の温度が違った。さっきまでの苛立ちとは違う、低い声。


「その編み方は、あたしの村のもの。家族ごとに色と組み方が決まってる。赤と茶でこの結び方をするのは、あたしの家だけ」


 リアが壁から背を離した。


「なんで人族が、あたしの家族の紐を持ってるの?」


 立ち上がっていた。痛めた足を引きずりながら、リアがケイトに掴みかかる。


 胸ぐらを掴まれた。爪が首筋に食い込み、牙が剥き出しになる。


「返せ! それはあんたのものじゃない!」


 ケイトは抵抗しなかった。


「話を聞いてくれ」


「うるさい!」


 拳が頬に入った。続けて胸を叩き、肩を引っ掻く。リアの目は濡れていた。怒りと恐怖が混ざった目だった。


「話を——」


「黙れ! お姉ちゃんに何したの!?」


 ケイトは殴られるままだった。両腕を下ろしたまま動かない。


 リアの拳が弱くなっていく。息が荒くなり、痛めた足が限界を迎えて膝が折れた。


 ケイトの前にしゃがみ込んだまま、肩で息をしている。


「……お姉ちゃんを、知ってるんでしょ」


 声が震えていた。


「お姉ちゃんはどこ? どこにいるの?」


「ネアという狐獣人の女性を知っているか?」


 ケイトは静かに言った。


「俺はネアと同じ場所にいた。貴族の屋敷の奴隷小屋だ。ネアと、他に二人。三ヶ月ほど一緒にいた」


 リアの目が見開かれる。


「お姉ちゃんは……」


「死んだ」


 リアの手が地面を掴んだ。爪が土に食い込む。


「……嘘」


「嘘じゃない」


 ケイトは火から目を逸らさなかった。


「屋敷の主人に殺された。俺の目の前で。俺は……何もできなかった」


 声が細くなる。自分の喉が詰まっていることに気づいた。


「助けられなかった。すぐ隣にいたのに」


 リアは何も言わなかった。


 火がぱちぱちと鳴る音だけが続く。


「ネアは最後まで、お前のことを話していた」


 ケイトは左手首の紐に触れた。


「妹がいると言っていた。別の場所に売られたと。どこに行ったかわからないと」


 リアの息が止まった。


「ネアは、お前が奴隷として売られたと思っていた。最後まで」


「……それは」


 リアの声が掠れた。


「違う。あたしは……逃げたの。幻術で姿を消して、一人で逃げた。お姉ちゃんが連れて行かれるのを見てたのに、あたしは……」


 声が途切れた。


 リアの肩が震え始めた。膝を抱えた腕に力が入り、顔が膝に埋もれる。声を殺して泣いている。歯を食いしばって、漏れそうになる声を押し込んでいる。


 ケイトは動けなかった。


 ネアの声が耳の奥にある。あの夜、冷たくなっていく手を握っていた感覚が、指先に蘇る。


 一人で逃げて。私たちの分も、幸せになって。


 その言葉に、何も返せないまま走り続けた。山を登り、獣を喰い、竜を倒した。ネアの紐を左手首に巻いたまま。


 それでも。


 何一つ、返せていない。


 目の前でネアの妹が泣いている。ネアが最後まで心配していた妹が、自分を責めて泣いている。


「すまない」


 ケイトの目から涙が落ちた。頬を伝い、顎から地面に落ちる。


 リアが顔を上げた。泣いている人族の男が、そこにいた。


 堰が切れた。


 リアの口から声が漏れた。押し殺していた嗚咽が喉を突き破り、体を折り曲げて泣いた。


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