23話 紐
少女が睨んでいる。
ケイトは左手首に目を落とした。赤と茶の編み込み。端の小さな結び目。ネアの髪をまとめていたものと同じ紐が、目の前の少女の髪にもある。
偶然ではないと、わかっていた。
<……ケイト>
ハクの声が遠くで聞こえた気がしたが、ケイトは答えなかった。
少女は地面に座ったまま、片足を庇うようにして身を引いている。立てない。森の中に取り残せば、次の魔物が来たときに逃げられない。
ケイトは一歩踏み出した。
少女の目が鋭くなる。低い唸り声が喉の奥から漏れ、犬歯が剥き出しになった。
「触るな」
短い声だった。
ケイトは構わず屈み、少女の背中と膝の裏に腕を通して抱え上げた。
爪が頬を引っ掻いた。牙が肩口に食い込む。少女が全身で暴れ、腕の中でもがいた。
「離せっ!」
ケイトは何も言わず歩き始めた。
少女は拳でケイトの胸を叩き、脇腹を蹴ろうとして痛めた足首に力が入り、短く息を詰まらせた。
「……っ」
それでも暴れることをやめなかった。噛みつき、引っ掻き、身をよじる。ケイトの腕に赤い線がいくつも走る。
構わなかった。山で受けた傷に比べれば、何でもない。
森を抜け、廃村の通りに入る頃には少女の抵抗は弱まっていた。体力が尽きたのか、諦めたのか。腕の中で荒い息をしながら、それでもケイトの顔を睨み続けている。
拠点にしていた家に着き、少女を床にそっと下ろした。
少女はすぐに壁際まで這って、背中を壁に押しつけた。
---
ケイトはマジックバッグから布と薬草を取り出した。
少女の足首は腫れている。折れてはいない。捻挫だろう。
ケイトが近づくと、少女はまた唸った。三角の耳が後ろに倒れ、目が細くなる。
「足を見せろ」
「……」
「放っておけば歩けなくなるぞ」
少女は答えなかった。ケイトは黙って少女の足首に手を伸ばした。
少女が身を引く。唸り声が漏れる。それでもケイトは手を止めず、腫れた足首に薬草を当て、布で巻いた。少女は歯を食いしばって耐えている。
巻き終えると、ケイトはすぐに離れて竈に向かい、火を起こし始めた。
---
火が安定した頃、小さな音が聞こえた。
腹の鳴る音。
少女の耳がぴくりと動き、顔が横を向いた。
先ほど斬った魔物の中から食える部位を切り出し、串に刺して火にかけた。
焼けた肉を一本、少女の前に置く。
少女は睨んだまま動かない。
ケイトが背を向けて自分の分の焼きあがりを待っている間に、後ろで小さな咀嚼の音がした。
焼けるまでの間にマジックバッグから干し肉を取り出し、齧った。山で保存していた魔獣のものだ。
その時、背後から風のような速さで何かが動いた。
串が手から消えていた。
振り返ると、少女が串を握ったまま立っていた。痛めた足で。顔が強張っている。
「バカ! 何やってんの!」
少女が叫んだ。
「これ魔獣の肉だよ! 匂いでわかんないの!? 人族が食べたら死ぬんだけど!」
ケイトは目を瞬かせた。
「……知ってるのか?」
「知ってるも何も、こんな濃い魔力の匂い嗅いだら獣人なら誰でもわかるわよ! あんた死にたいの!?」
少女は串を地面に叩きつけた。肩で息をしている。足首を庇って片足に重心が寄り、体が揺れていた。
ケイトはしばらく黙って、それから言った。
「……ありがとう」
「別にあんたのためじゃない。目の前で人が死んだら寝覚めが悪いだけ」
少女はそう言い捨てて、壁際に戻ろうとした。痛めた足がもつれて、ケイトが手を出す前に自分で壁を掴んで体を支えた。
火がぱちりと爆ぜた。
「……リア」
少女が壁に背をつけたまま、小さく言った。
「名前。聞いてないでしょ」
「ケイトだ」
「ケイト」
リアは一度だけ繰り返して、それきり黙った。
---
日が落ちて、火の明かりだけが残った。
ケイトは竈の前に座り、リアは壁際に背をつけたまま膝を抱えている。
横顔に火の光が当たる。耳の形。俯く角度。
ケイトは左手首に視線を落とした。赤と茶の編み込み。
リアの髪にも、同じ紐。
「……その紐」
リアの声だった。
ケイトが顔を上げると、リアの目がケイトの左手首を射抜いていた。
「どこで手に入れたの?」
声の温度が違った。さっきまでの苛立ちとは違う、低い声。
「その編み方は、あたしの村のもの。家族ごとに色と組み方が決まってる。赤と茶でこの結び方をするのは、あたしの家だけ」
リアが壁から背を離した。
「なんで人族が、あたしの家族の紐を持ってるの?」
立ち上がっていた。痛めた足を引きずりながら、リアがケイトに掴みかかる。
胸ぐらを掴まれた。爪が首筋に食い込み、牙が剥き出しになる。
「返せ! それはあんたのものじゃない!」
ケイトは抵抗しなかった。
「話を聞いてくれ」
「うるさい!」
拳が頬に入った。続けて胸を叩き、肩を引っ掻く。リアの目は濡れていた。怒りと恐怖が混ざった目だった。
「話を——」
「黙れ! お姉ちゃんに何したの!?」
ケイトは殴られるままだった。両腕を下ろしたまま動かない。
リアの拳が弱くなっていく。息が荒くなり、痛めた足が限界を迎えて膝が折れた。
ケイトの前にしゃがみ込んだまま、肩で息をしている。
「……お姉ちゃんを、知ってるんでしょ」
声が震えていた。
「お姉ちゃんはどこ? どこにいるの?」
「ネアという狐獣人の女性を知っているか?」
ケイトは静かに言った。
「俺はネアと同じ場所にいた。貴族の屋敷の奴隷小屋だ。ネアと、他に二人。三ヶ月ほど一緒にいた」
リアの目が見開かれる。
「お姉ちゃんは……」
「死んだ」
リアの手が地面を掴んだ。爪が土に食い込む。
「……嘘」
「嘘じゃない」
ケイトは火から目を逸らさなかった。
「屋敷の主人に殺された。俺の目の前で。俺は……何もできなかった」
声が細くなる。自分の喉が詰まっていることに気づいた。
「助けられなかった。すぐ隣にいたのに」
リアは何も言わなかった。
火がぱちぱちと鳴る音だけが続く。
「ネアは最後まで、お前のことを話していた」
ケイトは左手首の紐に触れた。
「妹がいると言っていた。別の場所に売られたと。どこに行ったかわからないと」
リアの息が止まった。
「ネアは、お前が奴隷として売られたと思っていた。最後まで」
「……それは」
リアの声が掠れた。
「違う。あたしは……逃げたの。幻術で姿を消して、一人で逃げた。お姉ちゃんが連れて行かれるのを見てたのに、あたしは……」
声が途切れた。
リアの肩が震え始めた。膝を抱えた腕に力が入り、顔が膝に埋もれる。声を殺して泣いている。歯を食いしばって、漏れそうになる声を押し込んでいる。
ケイトは動けなかった。
ネアの声が耳の奥にある。あの夜、冷たくなっていく手を握っていた感覚が、指先に蘇る。
一人で逃げて。私たちの分も、幸せになって。
その言葉に、何も返せないまま走り続けた。山を登り、獣を喰い、竜を倒した。ネアの紐を左手首に巻いたまま。
それでも。
何一つ、返せていない。
目の前でネアの妹が泣いている。ネアが最後まで心配していた妹が、自分を責めて泣いている。
「すまない」
ケイトの目から涙が落ちた。頬を伝い、顎から地面に落ちる。
リアが顔を上げた。泣いている人族の男が、そこにいた。
堰が切れた。
リアの口から声が漏れた。押し殺していた嗚咽が喉を突き破り、体を折り曲げて泣いた。




