21話 届く
白い濁流が来た。
空気そのものが凍る音。盾の表面が一瞬で覆われ、砕けた。
冷気がケイトの体を飲む。
肺が止まり、心臓が止まり、視界が白く塗られていく。
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(あぁ、ここで終わるのか)
顔が浮かんでは消える。名前のない顔。名前のあった顔。どれも同じ目をしていた。
何の取り柄もない。使えない。お前には価値がない。
声は違う。言葉も違う。だが全てが同じことを言っている。どこにいても、何をしても、同じ結論に行き着く。
その中に、一つだけはっきりと見える顔があった。
ダエリスの執務室。感情のない目がこちらを見下ろしていた。
「お前にどんな価値がある?」
あの声だけが、沈んでいく意識の底まで追いかけてくる。他の声は遠くなっていく。上司も、元妻も、シルヴァンの笑顔も、全部が一つの色に混ざって消えていく。
(どこへ行っても結局こうなるのか。皆すまない……)
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声が聞こえた。
「期待を捨てるな」
トゥールの声だった。
なぜこの声なのか、わからなかった。屋敷で最初にもらった言葉は「期待が消えれば、楽になる」だったはずだ。真逆のことを言っている。
だがその声は、沈んでいくケイトの体に引っかかった。
ケイトは目を開けた。
体の奥底で何かが燃えている。痛みなのか熱なのかわからない。ただ、確かに自分の中から湧き上がってくる。掴もうとしても掴めない。だがそれは自分のものだった。
(このままでは——死ねない)
その熱が、体の外に向かって溢れた。
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白い空気がケイトの体を通り抜けた。
胸の奥が灼ける。受けた冷気が来た方向へ跳ね返る。来た時よりずっと重く、ずっと速く。
空気が割れる音。
次の瞬間、ドラゴンの胸が弾けた。
巨体が空中で翻り、雪原の上に墜落する。
ケイトは立っていた。立っているだけだった。体が何をしたのか、頭が追いついていない。ただ胸の奥に残る熱だけが、脈を打つように揺れている。
左腕は凍ったまま。盾は砕けている。剣は折れている。
ドラゴンが立ち上がった。蒼い瞳にはまだ力がある。爪を振り下ろす。
爪がケイトに届く前に、根元から砕けた。鱗の破片が雪に散る。
胸の熱が、また動いた。体が受けたものを、そのまま相手に返している。止め方がわからない。だが止める気もなかった。
ドラゴンの口が開く。噛みつきがケイトの肩を狙った。歯が根元から折れ、口の端から血が垂れる。
尾が振られた。山の斜面を削るほどの一撃。尾が真ん中から砕ける。
ドラゴンが口を開いた。弱い凍結息吹が吐かれる。ブレスはケイトの体を通り抜け、倍の冷気となってドラゴン自身に降った。首の片側が自分のブレスで凍る。
だがドラゴンは耐えた。鱗の下から血が滴っても、まだ立っている。
これだけ受けて、まだ倒れない。
ケイトは新しい剣を取り出した。
胸の奥の熱に手を伸ばすように、剣を握り直す。灼熱息吹で光るほど熱を帯びた鱗に刃を入れた。連撃。一撃、二撃、三撃。
ドラゴンが大きく震え、動かなくなった。
ケイトも限界だった。ドラゴンの横に倒れこむ。
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何時間経っただろう。
白い雪原。風はない。空も白い。
目の前にはドラゴンの亡骸が横たわっている。
左手は動かない。右手だけ動く。
ケイトは右手で剣を持って、ドラゴンの首元の鱗を剥がし、逆鱗の周りの肉を切り出して口に運んだ。
喉の奥に冷たさと熱さが同時に落ちる。胃から胸へ、胸から左腕へ。
左腕の感覚が戻る。指先が動く。
ケイトは左手を握った。開いた。動く。
その時、左腕の奥から声が響いた。頭の中に直接届く声だった。
<……よくぞ届いた。我が力、そなたに貸してやろう>
ケイトは黙っていた。
雪の上に膝をつく。手を見る。指先まで温度がある。傷が目の前で塞がっていく。腕の凍傷の痕が引いている。
水面に映る自分の顔は、覚えのない若さだった。二十代半ばに見える。さっきまで死にかけていた男の顔ではない。
ケイトは小さく息を吐いた。空を見上げた。
「ネア」
「トゥール」
「ガレス」
<……どうじゃ?我の肉は美味かったかのう?>
「えぇぇぇーーーーーー!?」
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ケイトは脳内のドラゴンに名前を付けた。白。
<我に名などない。必要なら何か付けるがよい>
「じゃあハクで。シロやポチじゃないだけましだろう」
<……安い名じゃのう>
「文句があるなら自分で考えろ」
<ない。好きに呼べ>
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<そなた、変わった力をもっておるが、使いこなせておらんのう>
「それは自分でもわかってる」
<意志で返せるようにせんと、人に触れることすらできんぞ?>
ハクの言葉は正しかった。
最初の冬、ケイトは山を下りて獣を探した。攻撃を受け続けた。体が勝手に返す。止められない。
岩に寄りかかっただけで岩が割れた朝もあった。
<力に振り回されておるのう。情けない>
「うるさい」
<怒るな怒るな。じゃがのう、力を押さえ込もうとするから暴れるのじゃ。受け入れてから流れを変えろ>
意味がわからなかった。だが他に手がかりもない。試した。何度も。痛みを受けるたびに、体の中で何が起きているのか感じようとした。冬が終わり、また冬が来るまで。
二度目の冬、追い詰められた熊の爪が腹に入った瞬間、ケイトは初めて選んだ。返すか、受け止めるか。
熊は吹き飛んだ。だが今回は自分の意志で返していた。
<……ほう。遅いが、筋は悪くないのう>
「褒めてるのか?」
<褒めておらん。まだ追い詰められなければ使えんじゃろう>
その通りだった。
三度目の春、狙って受ければ返せるようになっていた。不意の一撃にはまだ体が勝手に動く。完全ではない。
<不意を打たれれば命取りじゃぞ?>
「わかってる。でも三年前は何もできなかった」
<……そうじゃの>
ハクはそれ以上何も言わなかった。
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ある日、ケイトはハクに聞いた。奴隷になる前、竜神の話を聞いたことをふと思い出していた。
「竜神の名前を聞いたことがある。あれはお前のことか?」
ハクは少しの間、黙っていた。
<……我は神ではない。じゃが神だと崇められておった時代はあったのう>
苦笑のような気配だった。
ケイトは深追いしなかった。




