17話 氷槍
森が終わった。
ケイトは岩だらけの地面に出た。木々は背の低い針葉樹だけになっていて葉の隙間から灰色の空が見えている。風が肌を切るように冷たい。
ここが山岳の入口だった。
歩いてきた東の方角を振り返った。深部の暗い森がもう遠くなっている。前を向くと岩の向こうに山の稜線が見えた。雪が積もっている。
呼吸が白く濁った。深部の冷たさとは質が違う。空気そのものが凍っているような冷たさだ。
ケイトはマジックバッグを覗いた。水袋一つ。食えるものはない。最後に食べたダイアウルフの肉も、深部を抜ける前には尽きていた。山岳に入ってから二日。空腹が既に限界に近づいている。
それでも歩いた。
ここで止まれば寒さで先に死ぬ。
---
岩場の影で白いものが動いた。
最初は雪が崩れたのかと思ったが違った。生き物だ。
胴体の長い、毛の白い小型の獣。フェレットに似ていた。耳が小さく、つぶらな黒い目をしている。鼻先が桃色で、口元の毛がもこもことしていた。背中まで含めてもケイトの脛より低い。
可愛らしい、と一瞬思った。
その瞬間、白い獣の口元で何かが光った。青白い光。
(まずい)
体が動く前に、光が伸びた。氷の槍のような形をして、ケイトの横腹を掠める。
氷槍。
息が止まった。革鎧越しに裂ける感覚。後ろに飛ばされて岩に背中を打った。
意識が薄れかけた。
岩陰から二匹、三匹と同じ獣が出てくる。全部で五匹。それぞれの口元で青い光が集まり始めていた。
群れだった。
剣を握ろうとしたが腕が動かない。寒さと衝撃で体が言うことを聞かなかった。体の中が冷たい。寒さが肺を凍らせていく。呼吸ができない。
二発目の氷槍が肩を貫いた。三発目は太ももを貫いて立てない。
地面が冷たい。
---
(もう、いいかもしれない)
寒い。痛い。腹が減っている。動けない。
屋敷の地下で執事に水をかけられていた時のことを思い出した。あの時も呼吸ができなかった。痛みを引き受ければ何かが変わると信じていた。
今は何も変わらない気がした。
一人で強くなって何になる。復讐するために体を鍛えて、その途中で獣に食い殺されて終わりだ。結局、一人で走り続けて、一人で限界が来て、一人で倒れる。
ネアの顔がよぎった。トゥールの目。ガレスの最後の動き。
あいつらに報告する言葉がない。俺は山の中で獣に殺されましたなどと、どの顔で言えばいい。
四発目の氷槍が胸を貫いた。
---
何かが体の中で割れた。
胸の奥で凍っていた何かが砕けて別の形になって流れ出す。冷たさが熱に変わっていく。違う。冷たさが自分のものになっていく。
(……これは)
吸い込んでいた。氷を自分の中に。
呼吸が戻った。
あの日、樹の前で思ったことを覚えている。魔法が欲しい。何か一つでいいから。
こんな形で来るとは思わなかった。殺されかけた相手からもらうことになるとは。
肺の中の冷たさが外に向かって動いた。胸の傷に集まる。集まったものが形を持って指先まで流れていく。
ケイトは右手を上げた。
掌の上に青白い光が集まり形を成した。氷だった。あの獣たちが放っていた槍状ではないが塊の氷が凍りついている。
---
獣たちが固まった。
ケイトは光を近くの一匹に向かって振った。
氷撃を放った。氷の塊が掌から飛び、獣の白い体を打つ。獣は弾かれて岩肌にぶつかり、動かなくなった。
残りの四匹が動いた。それぞれの口元で青い光が集まり始めている。
ケイトは屋敷から持ってきた盾をマジックバッグから取り出した。
二匹目の氷槍が飛んでくる。盾で受けた。盾の表面に氷の破片が散る。腕にずしりと重さが来たが貫通はしない。
氷撃を出すのに何かが消費される感覚がある。連発はできない。だが少し待てばまた使える。
息を整えた。盾を構えたまま間合いを保つ。獣の魔法も連射が利くわけではないらしい。次の光が集まるまでの間に、ケイトの掌にも光が戻ってきた。寒さはもう感じない。肩で吸う息も白く濁らなくなっている。
二匹目に向けて氷撃を放った。氷の塊が獣の側面を強打する。獣は転がって動かなくなった。
残った三匹が散って、回り込もうとした。ケイトは盾を回して攻撃を逸らしながら、また間を待った。光が戻る。三匹目の頭に氷撃を叩き込む。
四匹目と五匹目は逃げ出した。追わなかった。追う力が、もう残っていない。
ケイトはその場に倒れこんだ。
胸と肩と脚と横腹の傷から血が落ちていた。
ふと前を見ると、氷撃に打ち倒され既に凍っている獣が、すぐ近くにいるのが目につく。
(このままだと死ぬ……死んでたまるか……)
何とか這いつくばって獣の前までたどり着き、剣で皮を切り裂いて凍った肉に手をかけた。火を起こす余裕はもうない。料理する余裕もない。
凍ったままかぶりついた。
口の中で肉が砕けた。冷たい。まずい。それでも飲み込んだ。次の一口を噛む。
体の奥でまた何かが動いた。
熱が胃から胸へ、胸から体の奥へ移っていく。蛇に噛まれた時とは違う。蜘蛛とも違う。もっと深いところで、何かが湧き出てくる感覚があった。
ケイトは咳き込んだ。胃の中が燃えるように熱い。体が拒絶している。それでも歯を食いしばり、また肉に噛みついた。そして気を失った。
気づいた頃には日が傾いていた。
ケイトは口の周りを手の甲で拭った。血と肉の汁がこびりついている。
掌の上にもう一度氷を出してみた。光が灯る。先ほど攻撃してきた魔物と同じ氷の槍、まさに氷槍が姿を現す。
可愛らしい姿の獣を自らの手で殺して、凍ったまま生で喰って、そこから能力を盗んだ。前世の自分が見たら、たぶん正気を疑う。
だが前世の自分はもう横断歩道の上で死んでいる。
今ここにいるのは、獣の肉を生で喰ってでも立ち上がる方を選んだ男だ。
ケイトは立ち上がった。
寒さは消えていた。傷の痛みも、もう半分は引いている。
山の奥にもっと強い何かがいるはずだった。あの白いフェレットより上の獣。氷より強い力を持った何か。
今夜の寝床を探さなければならない。傷も癒やしておきたかった。
ケイトは岩の道を北東に向かって歩き始めた。




