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傷喰いの異世界奴隷 〜痛みは俺の糧になる〜  作者: Astera
章2覧

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13話 傷喰い

 ケイトはネアの遺体の隣に座っていた。拳を握っては開き、握っては開く。その動きだけが、自分の中で何かが変わったことを繰り返し教えてきた。


 どれだけ経っただろう。窓のない小屋に変化はなく、寒さだけが足元から這い上がってきている。ネアの体はもう冷たい。だがケイトの体は、いつの間にか温まっていた。


 扉が開く。


 執事が立っていた。


「旦那様からのご指示です。二人とも執務室まで来てください」


 執事の目が、藁の上に動かないネアを捉える。


 数秒の沈黙。


「……死んだか。旦那様に報告する必要がある」


 感情のない声だった。


 ケイトは立ち上がる。


 昨日までの立ち方ではなかった。膝の痛みがない。背中の重さがない。両足で床を掴むように立つと、執事との距離が急に短く感じられた。


「待て」


 ケイトは迷いなく言った。


 執事が顔を上げる、その前に、ケイトの手は執事の喉元を掴んで、壁に押しつけた。執事の踵が床から浮く。


「どこにこんな力が……」


 執事が手を振りほどこうとしたが、ほどけなかった。


「ダエリスは今、どこだ?」


「……執務室です」


「護衛は?どこにいる?」


「……三人。執務室の隣の部屋で待機している」


「他の使用人は?」


「……夜は下がっているので私以外はいない」


 執事の目が、いつもの事務的な色から違うものへ変わっていく。恐怖、ではない。戸惑い。自分が制圧される側になったことへの、戸惑いだった。


「お前も、こうされる日が来るとは思っていなかっただろう?」


 ケイトは囁くように言った。執事は答えない。苛立ちで手に力が入った。


 執事の体がわずかに震えて、動かなくなる。


 ケイトはゆっくり手を離した。執事の体が床に倒れた。


 人を一人殺しても動揺していない。


 執事の腰から鍵束を抜き、ネアの方を向いた。


「戻ってくる」


 声に出して、小屋を出た。


---


 夜の屋敷は静かだった。廊下を進み、執務室の扉の前に立つ。ノックはせずに押し開けた。


 ダエリスが書類机で何かを書いていた。


「執事はどうした?」


 いつもの声だった。


「死んだ」


 ダエリスの手が止まり、顔を上げた。


 初めて見る表情だった。感情のない目が、今は薄く開いている。


「……そうか」


「ネアもな。次はお前だ」


 ダエリスはケイトを見て書類を静かに置いた。


「奴隷のお前に何ができる?」


「護衛!」


 ダエリスが護衛を部屋に呼んだ。


 隣の控え室から三人の護衛が入ってくる。若い剣士が二人。そして毎日ケイトに木剣を振らせた男だった。


 男もケイトを見ている。剣に手をかけるでもなく、ただ立って、ケイトの立ち方を見ていた。その目にわずかな驚き。


 若い剣士が先に動いた。


 一人目が剣を抜いた。


 ケイトは避けなかった。


 剣先が肩に入る直前に、体が勝手に動いていた。一歩、横に。剣先が空を切る。護衛の目が少し見開いた。


 二人目が踏み込んできた。


 ケイトは剣の腹を掌で受けた。重さを感じたが、皮膚は切れない。骨に響くはずの衝撃が、奥まで通らなかった。


 自分の体が硬くなっている。


 一人目がもう一度振ってくる。今度はケイトの方が先に動いていた。掌が護衛の顎に入り、体が崩れる。


 二人目が距離を取った。


 最後の男が、初めて声を出した。


「下がれ」


 二人目が後ろに引いた。男が若い剣士の前に出た。


 剣に手をかけると、剣先から熱のようなものが伝わってきた。剣術強化のスキル。連撃の予兆。訓練では一度も見ることがなかった、本来の実力だろう。


 男が踏み込んだ。


 速かった。さっきの若い剣士の数倍。ケイトの目がかろうじて追いつく。


 一撃目、肩。避けた。

 二撃目、脇腹。受けた。

 三撃目、首筋。皮膚が少し切れたが、かろうじてかわした。


 男の目が見開いた。今までのケイトならかわせない連撃。


「……どうなっているんだ?」


 男が呟いた。


 そして——


 (入ってくる)


 何かが、ケイトの体の中に流れ込んできた。ケイトの体がそれを真似た。


 一動作で男の肩に入った。男が受け流す。二撃目。受け流された。三撃目。——通った。


 男が膝をついた。四撃目が首筋に入る。男は何も言わず、倒れた。


 二人目の若い剣士が距離を詰めてくる。迷いの目。ケイトは男から吸収したばかりの連撃を、そのまま二人目にぶつけた。一撃で崩れ落ちる。


 静かになった。


 ケイトはダエリスに近づいた。


 刻印が焼けた。


 首筋が一瞬で熱くなり、視界が揺れた。皮膚の下まで焼かれるような感覚が、刻まれた日の施術の瞬間と同じ強さで走る。


 ケイトは止まらなかった。


 一歩進んだ。


 (この痛みごと食ってやる……)


 もう一歩。刻印の熱が引いていく。


 ダエリスの前に立った。


 ダエリスが椅子を引いた。脚が床を擦る音が執務室に響く。机の角に手をかけ、立ち上がろうとして、止まった。


「待て——。奴隷契約が発動するぞ」


 声が上ずっている。ケイトは聞かなかった。護衛から奪った剣を、ダエリスの首に当てる。


「ネアを。トゥールを。ガレスを」


 一拍置いた。手は震えていない。


「そして、俺を」


 刃が入った。


 ダエリスの体が傾いた。机に倒れ込むように、音を立てて沈む。


 ケイトは手を離した。


 首筋に手を当てると、紋様が指先に触れる感触ごと消えていく。


 ケイトは、しばらく何も言わなかった。


---


 執務室の引き出しを引いた。


 古びた革袋が一つ、入っていた。見た目は何の変哲もない。口を開けると金貨の袋が出てきた。もう一つ。書類の束。さらに金貨袋。


 入るはずのない量だった。


 革袋をもう一度覗き込む。底が見えない。前世のゲームで何百回と見たアイテムが、目の前にある。


 ケイトは残りの引き出しを次々に引いた。端から革袋に流し込む。吸い込まれるように消えていく。


 武器庫と食糧庫は、執事から奪った鍵束で開いた。片手剣と革鎧を身につけ、予備の剣、盾、弓と矢筒、毛布、着火具、包帯、黒パン、干し肉、水袋——持てる限り革袋へ放り込んだ。袋の重さは、ほとんど変わらなかった。


 ケイトの荷物はどこにもなかった。


---


 一通り準備を終え、ケイトは小屋に戻った。


 ネアの遺体が、出た時のままそこにある。


 地下のことが頭をよぎった。トゥールとガレスがまだあの部屋にいる。連れ出してやりたかったが、夜が明ければ使用人が戻る。時間がない。


 ケイトはネアを抱き上げた。


 小屋の前、土の柔らかい場所に横たえる。


 髪に絡んだ紐が目に留まる。細い色糸を編み込んだ髪紐。赤と茶の糸が交互に組まれ、端に小さな結び目がある。奴隷小屋に来た日からずっとネアの髪をまとめていた。


 ケイトはそっと紐を外して、自分の左手首に巻いた。


 土を少しだけかけ、石を一つ上に置く。


 ネアの最後の声が耳の奥にある。生きろ。あの声にどう返せばいい。何を言っても、ネアには届かない。


 ケイトは石に手を置いた。


 言葉の代わりに、しばらくそうしていた。


 顔を上げる。森の方に、わずかな月明かりが射している。


 ケイトは背を向け、森の方へ歩き出した。

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