13話 傷喰い
ケイトはネアの遺体の隣に座っていた。拳を握っては開き、握っては開く。その動きだけが、自分の中で何かが変わったことを繰り返し教えてきた。
どれだけ経っただろう。窓のない小屋に変化はなく、寒さだけが足元から這い上がってきている。ネアの体はもう冷たい。だがケイトの体は、いつの間にか温まっていた。
扉が開く。
執事が立っていた。
「旦那様からのご指示です。二人とも執務室まで来てください」
執事の目が、藁の上に動かないネアを捉える。
数秒の沈黙。
「……死んだか。旦那様に報告する必要がある」
感情のない声だった。
ケイトは立ち上がる。
昨日までの立ち方ではなかった。膝の痛みがない。背中の重さがない。両足で床を掴むように立つと、執事との距離が急に短く感じられた。
「待て」
ケイトは迷いなく言った。
執事が顔を上げる、その前に、ケイトの手は執事の喉元を掴んで、壁に押しつけた。執事の踵が床から浮く。
「どこにこんな力が……」
執事が手を振りほどこうとしたが、ほどけなかった。
「ダエリスは今、どこだ?」
「……執務室です」
「護衛は?どこにいる?」
「……三人。執務室の隣の部屋で待機している」
「他の使用人は?」
「……夜は下がっているので私以外はいない」
執事の目が、いつもの事務的な色から違うものへ変わっていく。恐怖、ではない。戸惑い。自分が制圧される側になったことへの、戸惑いだった。
「お前も、こうされる日が来るとは思っていなかっただろう?」
ケイトは囁くように言った。執事は答えない。苛立ちで手に力が入った。
執事の体がわずかに震えて、動かなくなる。
ケイトはゆっくり手を離した。執事の体が床に倒れた。
人を一人殺しても動揺していない。
執事の腰から鍵束を抜き、ネアの方を向いた。
「戻ってくる」
声に出して、小屋を出た。
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夜の屋敷は静かだった。廊下を進み、執務室の扉の前に立つ。ノックはせずに押し開けた。
ダエリスが書類机で何かを書いていた。
「執事はどうした?」
いつもの声だった。
「死んだ」
ダエリスの手が止まり、顔を上げた。
初めて見る表情だった。感情のない目が、今は薄く開いている。
「……そうか」
「ネアもな。次はお前だ」
ダエリスはケイトを見て書類を静かに置いた。
「奴隷のお前に何ができる?」
「護衛!」
ダエリスが護衛を部屋に呼んだ。
隣の控え室から三人の護衛が入ってくる。若い剣士が二人。そして毎日ケイトに木剣を振らせた男だった。
男もケイトを見ている。剣に手をかけるでもなく、ただ立って、ケイトの立ち方を見ていた。その目にわずかな驚き。
若い剣士が先に動いた。
一人目が剣を抜いた。
ケイトは避けなかった。
剣先が肩に入る直前に、体が勝手に動いていた。一歩、横に。剣先が空を切る。護衛の目が少し見開いた。
二人目が踏み込んできた。
ケイトは剣の腹を掌で受けた。重さを感じたが、皮膚は切れない。骨に響くはずの衝撃が、奥まで通らなかった。
自分の体が硬くなっている。
一人目がもう一度振ってくる。今度はケイトの方が先に動いていた。掌が護衛の顎に入り、体が崩れる。
二人目が距離を取った。
最後の男が、初めて声を出した。
「下がれ」
二人目が後ろに引いた。男が若い剣士の前に出た。
剣に手をかけると、剣先から熱のようなものが伝わってきた。剣術強化のスキル。連撃の予兆。訓練では一度も見ることがなかった、本来の実力だろう。
男が踏み込んだ。
速かった。さっきの若い剣士の数倍。ケイトの目がかろうじて追いつく。
一撃目、肩。避けた。
二撃目、脇腹。受けた。
三撃目、首筋。皮膚が少し切れたが、かろうじてかわした。
男の目が見開いた。今までのケイトならかわせない連撃。
「……どうなっているんだ?」
男が呟いた。
そして——
(入ってくる)
何かが、ケイトの体の中に流れ込んできた。ケイトの体がそれを真似た。
一動作で男の肩に入った。男が受け流す。二撃目。受け流された。三撃目。——通った。
男が膝をついた。四撃目が首筋に入る。男は何も言わず、倒れた。
二人目の若い剣士が距離を詰めてくる。迷いの目。ケイトは男から吸収したばかりの連撃を、そのまま二人目にぶつけた。一撃で崩れ落ちる。
静かになった。
ケイトはダエリスに近づいた。
刻印が焼けた。
首筋が一瞬で熱くなり、視界が揺れた。皮膚の下まで焼かれるような感覚が、刻まれた日の施術の瞬間と同じ強さで走る。
ケイトは止まらなかった。
一歩進んだ。
(この痛みごと食ってやる……)
もう一歩。刻印の熱が引いていく。
ダエリスの前に立った。
ダエリスが椅子を引いた。脚が床を擦る音が執務室に響く。机の角に手をかけ、立ち上がろうとして、止まった。
「待て——。奴隷契約が発動するぞ」
声が上ずっている。ケイトは聞かなかった。護衛から奪った剣を、ダエリスの首に当てる。
「ネアを。トゥールを。ガレスを」
一拍置いた。手は震えていない。
「そして、俺を」
刃が入った。
ダエリスの体が傾いた。机に倒れ込むように、音を立てて沈む。
ケイトは手を離した。
首筋に手を当てると、紋様が指先に触れる感触ごと消えていく。
ケイトは、しばらく何も言わなかった。
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執務室の引き出しを引いた。
古びた革袋が一つ、入っていた。見た目は何の変哲もない。口を開けると金貨の袋が出てきた。もう一つ。書類の束。さらに金貨袋。
入るはずのない量だった。
革袋をもう一度覗き込む。底が見えない。前世のゲームで何百回と見たアイテムが、目の前にある。
ケイトは残りの引き出しを次々に引いた。端から革袋に流し込む。吸い込まれるように消えていく。
武器庫と食糧庫は、執事から奪った鍵束で開いた。片手剣と革鎧を身につけ、予備の剣、盾、弓と矢筒、毛布、着火具、包帯、黒パン、干し肉、水袋——持てる限り革袋へ放り込んだ。袋の重さは、ほとんど変わらなかった。
ケイトの荷物はどこにもなかった。
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一通り準備を終え、ケイトは小屋に戻った。
ネアの遺体が、出た時のままそこにある。
地下のことが頭をよぎった。トゥールとガレスがまだあの部屋にいる。連れ出してやりたかったが、夜が明ければ使用人が戻る。時間がない。
ケイトはネアを抱き上げた。
小屋の前、土の柔らかい場所に横たえる。
髪に絡んだ紐が目に留まる。細い色糸を編み込んだ髪紐。赤と茶の糸が交互に組まれ、端に小さな結び目がある。奴隷小屋に来た日からずっとネアの髪をまとめていた。
ケイトはそっと紐を外して、自分の左手首に巻いた。
土を少しだけかけ、石を一つ上に置く。
ネアの最後の声が耳の奥にある。生きろ。あの声にどう返せばいい。何を言っても、ネアには届かない。
ケイトは石に手を置いた。
言葉の代わりに、しばらくそうしていた。
顔を上げる。森の方に、わずかな月明かりが射している。
ケイトは背を向け、森の方へ歩き出した。




