12話 後悔
いつもの地下への道だった。石の階段。鍵の音。
執事が扉を押し開けた。
部屋の中に、今日は三人がいた。
血と汗の匂いが鼻を突いた。いつもの地下室と同じ空気のはずが、それよりずっと濃い。
壁の鉄の環に通された鎖に、三人が吊るされていた。
ケイトの足が止まった。
最初に目に入ったのはガレスだった。体中に傷があった。血が床に滴っている。呼吸が浅かった。
トゥールがその隣にいた。片目は腫れて塞がっている。もう一方の目がケイトを見た。何も言わない。だがその目の中に、何かを伝えようとする光があった。
そして、ネアがいた。
小柄な体が鎖にぶら下がっていた。粗布は血で染まり、首が弱く前に傾いている。まだ息はあった。ただそれだけだった。
ケイトは動けなかった。声も出なかった。
「来たか」
部屋の奥にダエリスが立っていた。こちらを見ていた。
「色々試したが、まだ何も結果が出ていないらしいな」
感情のない声だった。いつもと同じ、事実を読み上げる調子だった。
ダエリスは執事に目で合図した。
執事がトゥールの鎖を外した。鉄が鳴った。トゥールの体は自分で立てなかった。執事が腕を取って、ダエリスのもとまで引きずるように連れていった。
ダエリスは傍らの台から短刀を取り上げた。刃を一度、光の方に向けて確かめた。
「やめろ……!」
ケイトの声がようやく出た。足は動かなかった。声だけが体から抜けていった。
だがダエリスの手は止まらなかった。
トゥールの腫れていない方の目が、最後にもう一度、ケイトを見た。何かを言いかけたような光があった。その光が、刃が深く入った瞬間に消えた。
トゥールの体がわずかに揺れて動かなくなった。血が床に広がっていく。暖かい色がゆっくりと広がる。
ケイトの膝が崩れた。
ダエリスは血のついた短刀を、傍らの布で拭いた。丁寧な動きだった。
「次」
ダエリスが言った。
執事がガレスに近づいて同じようにダエリスのもとまで連れていった。
ガレスは薄く目を開けてケイトを見た。何か言いかけた口が動かないまま止まった。
「ふざけるな!ぶっ殺してやる!」
どこにそんな力が残っていたのか。執事の手を振り払って、ガレスが駆け出した。武器はない。ただダエリスの首筋に噛みつこうと、全身で飛びかかった。
次の瞬間、ガレスが床に倒れた。悶え、歯を食いしばり、やがて動かなくなった。
ケイトは言葉を失った。目が見開かれたまま、二つの遺体から視線を外せなかった。
「奴隷契約をしているのだから、危害を加えられる訳ないだろう?」
ケイトを見た。感情がない目だった。
「どうだ。何か変わったか?」
「……」
ケイトは何も答えられなかった。喉の奥が渇いている。唾を飲むのも難しい。
「お前が結果を出さないと、次は、この狐獣人だぞ」
ダエリスが指した先にネアがいた。
ケイトの中で何かが裂けた。怒り。絶望。復讐。全部が一瞬で押し寄せた。
ケイトは膝で床を這った。手をついた。血で濡れた床が手のひらに張り付いた。
「待ってくれ!頼むから待ってくれ!やるなら俺をやれ!」
声が自分のものとは思えなかった。
ダエリスは振り返らなかった。
「執事。次を連れてこい」
「はい、旦那様」
ダエリスは短刀を台に戻した。同じ台から鞭を取った。
何度目かの打撃音が聞こえた後、ケイトの頭に響いていたのは、音そのものではなかった。音が止まるわずかな間——その間に、ネアが短く息を吐く音だった。
ネアはもう叫ばなかった。
---
瀕死のネアを小屋に運んだのはケイトだった。
小屋に入った。ネアの藁、トゥールの藁、ガレスの藁。トゥールとガレスの藁には、もう誰も戻ってこない。
ネアを藁の上に寝かせた。息は浅い。だが止まっていない。ケイトは自分の粗布を裂き、ネアの傷を押さえる。水を汲んできて、洗った。
ケイトはネアの顔を見た。薄く息をしている。まだ生きている。
「ネア。ごめんな。俺がもっとしっかりしていなかったばっかりに。トゥールもガレスも犠牲になってしまった……」
声をかけた。返事はなかった。
「生きろ」
小さく言った。
窓の隙間から差し込む光が、だんだん赤くなっていった。日が傾いていく。それでもネアは動かなかった。ケイトはネアの手を握ったまま、離さなかった。
気温が下がってきた頃、ネアが目を覚ました。
「……ん。ケ……ケイト……」
「気づいたか!無理してしゃべるな!俺が生かす」
拳を握った。
「……ありがとう……ケイト……。でも多分もう私はダメみたいです……」
「そんなことない!俺だって毎日のように拷問を受けてきたけど何とかなった!」
(何とかなった?)
自分で言葉にしておいて違和感があった。毎日の拷問で感覚が麻痺していただけだと思っていたが、次の日には回復していた。
「こんな環境ですけど、私……みんなに会えてよかったと思っているんです」
ネアは途切れ途切れに続けた。
「トゥールさんは大人しくて、優しくて。ガレスさんは口がぶっきらぼうだけど、本当は皆のことを一番心配していて。ケイトは……短い期間でしたけれど、毎日辛い思いをしているのに、いっぱい我慢していて」
短く息を吸った。
「知っていますか?ケイトが来る前、私たち、ほとんど話もしなかったんです。逃げようなんて、誰も口にしなかった」
「……ケイトが、私たちに、次に行く勇気をくれました」
ケイトは何も言えなかった。
「だから、ケイト。今までありがとう」
ネアの声が、さらに細くなった。
「一人で逃げて……私たちの分も、幸せになって……」
ネアはゆっくり目を閉じた。
ケイトが握っていた手から、わずかに力が抜けた。暖かさはまだ残っている。でも、応える力はもうない。
その瞳は二度と開かれなかった。
「おい……」
ケイトはネアの肩を揺すった。軽かった。驚くほど軽かった。
「嘘だろ。起きろ。頼むから起きてくれよ……」
返事はなかった。
(あいつらを殺す)
ダエリスを。執事を。そのあと全部。ネアを巻き込んだ全てに、落とし前をつけてやる。
ケイトは拳を握った。今までこの拳は、自分の体の重さすら支えられなかった。今は——違う。いつから違うのか、まだわからない。だが、違う。




