9話 学問試験
「やめろ……! もう、いい……!」
「痛い……っ、痛い、やめてくれ……!」
自分の叫びで目が覚めた。鐘はまだ鳴っていなかった。
藁の上で肩が跳ねていた。手のひらに昨日の熱と冷たさの残像が、まだ薄く張り付いている。握りしめたまま硬くなった指を、ゆっくり開いた。
(夢か……)
薄暗い中、目が覚めたので身を起こす。小屋の奥で、もう一人の人影が先に起き上がっているのが見えた。
「うなされていたみたいだけど大丈夫か?」
人族の男だった。この屋敷に来て以来何度か視線だけを交わしてきた男。この前、「期待が消えれば、楽になる」と小さく言ってくれた、あの男だ。
「……大丈夫です」
声が少し掠れていた。自分でもわかった。
男はケイトのほうへ体を向けた。この前よりも、わずかにはっきりと。
「言っていなかったな。俺はトゥール」
「……ケイトです」
トゥールは小さく息を吐いた。顔つきは疲れていたが目だけがケイトの動きを追っていた。
「昨日、執務室に呼ばれていただろう」
「はい」
「何か言われたか?」
「……魔法の才能がないみたいで。存在する理由を示すように言われました」
トゥールは眉をわずかに寄せた。それから、ゆっくりと頷いた。
「そうか。頑張れよ。まだチャンスはあるんだろ?」
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鐘が鳴った。
その朝、また別のエルフが屋敷にやって来た。
前日まで試験室にいた魔法の家庭教師とは違う男だった。髪を後ろで束ね丸い眼鏡を鼻先にかけている。
「ケイト。お前が次の試験を受ける者か?」
「はい」
「学問を見る。読み書きから始める」
口調は淡々としていた。怒気も期待もない。前の家庭教師よりさらに事務的に見えた。
試験室の長机に羊皮紙が一枚置かれた。細かい文字がびっしりと並んでいる。
「読んでみろ」
ケイトは椅子に座って紙面に目を落とした。
声に出して読み始めた。最初の段落は詰まらなかった。
だが次の段落で止まった。
音は出せた。けれど、その音が頭の中で像を結ばない。知らない単語だった。
エルフが気配を察したように顔を上げた。
「どうした?」
「……この語の意味が、わかりません」
指先で文字を指した。エルフは覗き込んで短く言った。
「この国で信仰されている神の名だ。続けろ」
ケイトは読み進めた。音だけは滑らかに出た。だが段落を追うごとに意味の分からない単語が増えていった。地名らしきもの、何かの儀式の名前らしきもの。音は取れても文が頭の中で形にならない。
エルフが手を上げた。
「もういい」
書類に何か書き付けながら続けた。
「発音はできる。だが、知らない単語は理解できないみたいだな」
次に羽根ペンと白い羊皮紙が差し出された。
「この文字を写せ」
見本の紙が置かれた。短い単語が一行だけ。
ケイトはペンを握り見本を見ながらゆっくり真似て書いた。拙いが形にはなった。
エルフは紙を覗き込み短く頷いた。
「写すことはできるのだな。では次だ」
エルフは見本の紙を取り上げた。そして自分の口でひとつの単語を発音した。短い、ありふれた言葉だった。
「今の言葉を書け」
ケイトはペンを握ったまま止まった。
頭の中に書くべき形がまるで浮かばなかった。見本がないと、どこから始めればいいのかすら分からない。
しばらくしてケイトはペンを置いた。
「……書けません」
「一文字もか?」
「はい」
エルフはしばらく無言で羊皮紙を眺めていた。
「写せるが聞いた言葉を文字にできない。では次だ」
別の紙を渡された。足し算、引き算、掛け算。商取引の基礎のような計算問題が並んでいた。
ケイトは紙の数字を追いながら順番に答えを書いていった。これは手が止まらなかった。
エルフは答えを確かめ書類に一行書き足した。
「商人としての最低限の計算はできるようだな」
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翌日からは歴史、地理と試験が続いた。
この国の建国、竜神の名前、北の山脈の向こうにある都市。ケイトは何ひとつ答えられなかった。だがエルフが正解を読み上げるたびにこの世界の形がぼんやりと見えてきた。知らなかったことを知る。それだけが試験室で唯一の収穫だった。
律法の試験で少しだけ手応えがあった。
「奴隷の所有者が死亡した場合、奴隷の身分はどうなる?」
「……契約の一方がいなくなれば無効になるのでは」
前の世界の契約の考え方だった。エルフが手を止めてケイトを見た。
「間違いではない。だが、この国の法はそう単純ではない」
それきりだった。正しいかどうかではなく、この国の知識があるかどうかだけが基準だった。
日が進むにつれエルフが角度を変えてきた。
「お前は前の世界で何を知っていた? この世界にない知識があるなら、言え」
ケイトは前職で身についた範囲のことを話した。契約の段取り、納期の管理、交渉の組み立て。
「この世界には魔法があり、王政があり、奴隷制度がある。お前の知る仕組みとは前提が違う。参考にならない」
問いは続き答えは並ばなかった。エルフの口数は日ごとに減り、やがて「無駄だな」が試験室の唯一の声になった。
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日が傾いた頃、執事が小屋に来た。
「来い」
また執務室だった。一度通った廊下の感触。扉が閉まる音。机の向こうのダエリス。
ダエリスは書類を一枚めくって顔を上げないまま言った。
「学問も無駄だったそうだ」
「……」
「明日からは屋敷の護衛に見せる。身体能力を測る。それも無駄なら別の使い道を考える」
「……はい」
「下がれ」
執事に促されて部屋を出る時、ケイトは振り返らなかった。
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夜、小屋に戻るとネアが隅で待っていた。
「お疲れさまです」
ケイトは返事を返せないまま壁際にゆっくり腰を下ろした。
沈黙があった。壁の隙間から夜の音が入ってきた。
「……ケイトさんは、前は何をしていたんですか?」
小さな声だった。いつもなら聞かないようなことをネアが聞いた。
ケイトは少し迷ってから答えた。転移のことは言わなかった。
「書類仕事と、人と人を繋ぐ仕事を。大きな町で、たくさんの人と会っていた」
「そう、ですか」
「毎日、誰かに頭を下げていた気がする。仕事のことでも、そうでないことでも」
「こちらの町の人ですか?」
「……遠くの町だ。もう戻れない」
「そうですか。私は、妹と二人で小さな村にいました。姉さんと呼んでくれる子が、一人だけいたんです」
「妹は?」
「別の場所に売られました。どこに行ったのかは知りません」
「……そうか」
「村は山のふもとにありました。小さな集落で、みんな狐獣人で」
ネアは膝を抱えたまま、遠くを見ているような目をしていた。
「父は森で狩りを。母は薬草の扱いが上手で、村で具合の悪い人が出るといつも呼ばれていたんです」
一度、言葉を切った。
「狐獣人は耳と鼻がいいから。森の仕事が向いているんです。何年か前に村で病気が流行して両親は亡くなってしまったので、それからは妹と二人で……村の人に助けてもらって何とか暮らしていました」
ネアは短く息を吐いた。
「久しぶりに、こんなに話しました。ケイトさんと二晩続けて」
ネアは少し笑ったように見えた。
ケイトは返す言葉を探したが、見つからなかった。代わりに一つだけ言った。
「……ありがとう」
何への礼なのか自分でもはっきりしなかった。ただ今日一日、ネアの声があったから今ここまで戻ってこられた気がした。




