一四:夜を騒がす馬車のこと
「君、旧約聖書を読んだことは」
突拍子もない質問に面食らいながらも、安枝はなんとか頷いた。
「あります」
「ダニエル書は?」
「ええ、それも」
「よろしい。そこにこういう一節があったのを覚えているかな。バビロン王に囚われたダニエルは、王と共に宮廷の食堂で食事を摂るよう求められた。だが敬虔なるユダヤ教徒であるダニエルは、カシュルート――ユダヤ教徒に定められた食事の規律だ。豚、鶏、牛、犬に猫、そして人肉の食用を禁じている――に則った食事をせねばならないため、これを断った……」
そのくだりならば安枝も覚えている。
共に食事を摂るよう強いる王に、ダニエルはひとつの提案をする。ユダヤ教徒をふたつの組に分け、一方は豆だけの質素な食事を、もう一方は王と共に健康的な食事を数日間摂り続けるというものだ。ダニエルは、王と共に食事した方は必ずや健康を害する、もしそうならなければ死んでもよいとまで断言する。その結果は……
「結局、ダニエルの言った通りになった。王と共に滋養ある食事を摂った者は体調を崩し、豆だけを食らった者は健やかな身体を維持できたという」
「あの、お話の意図が分かりません」
「分からない! 嘆かわしい。ちょっとは頭を使ったらどうだ。つまり僕が言いたいのは、だ。普通、そのような食事を摂っていれば健康を損なうのはどちらか――当然、豆だけの食事の方だ。しかしそうはならなかった。なぜか? 彼らには『カシュルートを守らねばならない』という強い戒律意識があったからだ。その思いが、思い込みが、健康的な食事を摂ったはずの男達の身体を病ませたのだ。思い込みの力が、時に精神や肉体にまで影響を及ぼすという最古の事例といえよう。つまり……」
「安枝さんは、御者の首吊りを知っていたから、その物音を馬車の音だと思い込んだ?」
「その通り! いいぞ、りつ子くん!」
蛇川は、突然の闖入者――りつ子に向き直ると最上級の笑みを浮かべ、讃えるように腕を広げた。りつ子は少し面食らった様子だったが、嬉しさを隠しきれず、もじもじと身体を揺らしている。
やりきれないのは安枝だった。
「そんなまさか! だって、確かに蹄鉄の音が……」
蛇川は手近のテーブルに寄ると、湯呑みと碗を取り上げた。碗には味噌汁が入っていたが、少し考えた末、半分ほどが残った白米の上にぶちまける。
「骨董屋! 何をするんだ!」
突然の横暴に、話を聞きつつ定食を楽しんでいた山岡巡査が悲鳴をあげるがお構いなしだ。蛇川は両手に持った湯呑みと碗を軽く振り、残っていた水滴を飛ばすと、それを逆さまにしてテーブルに置いた。それを右、左と、絶妙に傾けながら動かして、
カッポ、カッポ……
「あ、ああ……」
「碗の素材や厚みなんかでも変わるだろうが、近しい音などいくらでも出せる。車輪の音とて同じだ。蓋をした大きめの桶に幾つか石を散らばせておいて、体重をかけて回したならば、きっと似た音になるだろう」
「でも、私、見たんです!」
いつしか安枝も立ち上がっている。それで両脚を精一杯踏んばって、
「人魂を!」
そう叫んだが、蛇川のため息にかき消された。
「莫迦か君は」
追い討ちのように、呆れた声が被せられる。
「さっき自分で、新月だった、灯りがなければとても動けやしなかったと言ったじゃないか。人魂の正体は、目的を果たして帰路についた人物の懐中電灯だろう」
「でも、ゆらゆらと青っぽい炎が……まるで彷徨うように不確かな動きで、馬車小屋の方へと」
「呆れた無学だ。青い炎など燃やす材料を変えればいくらでも作れる。銅、鉛、アンチモン、錫、まだ言おうか? カリウム、セシウム……」
「もう充分です!」
安枝はたまらず悲鳴をあげた。
なんという男だ!
憐れみや思いやり、気遣いといったものが欠片もない。
家族のことや、己の性格を言い当てられたことからも分かる通り、この男が相当な切れ者で、いっそ人智を超えた何かの能力を持っているとすら思ってしまうことは確かだ。
しかし、人間としては最低じゃないか。己の該博なるを誇り、無知な者をどこまでも無様にこき下ろし、軽蔑し、せせら笑う。まるで、天女の皮をかぶった悪魔だ!
怒りと恥ずかしさで顔を真っ赤に染めて、安枝は荒々しく鞄を掴んだ。いつもの癖で、鞄は蓋が開いたままになっていたから、反動で中身が外に散らばる。
山岡がそれを拾ってくれたが、喉が詰まってお礼が言えず、俯いたまま、引っ手繰るようにして落ちた本を受け取った。
「ああ、そうだ安枝くん。もうひとつのアドヴァイス」
ドアを開けた安枝に向かい、蛇川が歌うような調子で言う。目元を鋭くしたまま振り返ると、蛇川はカウンター席で足を組みながら舌を鳴らした。その姿の優雅さにいっそうむかっ腹が立つ。
「女だてらに探偵小説を読み漁るのは止したまえ。せめてその注意不足を直すまではな」
ぎょっとして鞄に目をやれば、開いた蓋から探偵全集の表紙が覗いていた。全身の血が、かっと顔に上がってくる。
「……最ッ低!」
「ハハハ! またのご来店を!」
荒々しくドアを閉めたにも関わらず、蛇川の哄笑は安枝の耳にはっきりと突き刺さった。
「あいも変わらず……」
眉を垂れ下げた吾妻が、項を掻きながら嘆息する。
「非道い男ねェ。いつか刺されるわよ」
「雌ガキに襲われておとなしく刺される僕と思うか。それに、僕は事実を言ったまでだ。指摘されて腹を立てるような事実を抱えていながら普段平然と過ごしているのならば、僕はその厚顔をこそ責めるべきだと思うがね」
吾妻はゆるゆると首を振った。この男に口喧嘩で勝てるなどとは露ほども思っていない。
「ねえ、ところで、今度の手妻はどうやったの」
「手妻?」
「彼女のこと。性格からなにから一瞬で見抜いてみせたじゃない」
「あれが手妻なものか。いつもの通り、ちょっと観察したまでだ。彼女の着ていた制服からは学校名が、スカァフからはその学年がすぐ分かる。羽織っていたジャケツは数年前に流行ったもの、つまりあれは姉からのお下がりだ。制服にもジャケツにも丈を縫い縮めたあとがあったが、その縫い目は真っ直ぐだった。しかし彼女の指には無数の小さな刺し傷があった、つまり彼女は針がまずい。よって縫い縮めたのは器用な姉だ。しかし彼女の指は針が当たる場所の皮が硬くなっていたから、姉に負けまいとして目下針仕事を特訓中」
「歳の差は?」
「彼女と同じように叱られたいか? 友愛女学院は五年制だ」
「なるほど、自明。だけど、お祖父さんの件は」
「どうした吾妻、随分と研究熱心なことだな!」
蛇川は鼻でせせら笑ったが、しかし満更でもなさそうだ。よほど機嫌がいいらしい。曇天はいつしか快晴へと変じていた。太陽が眩しい。
「開いたままの鞄から、随分と古い銀時計が見えた。その古さを見るに、元の持ち主は少なくとも二世代前の人間だ。それほど貴重なものを息子ではなく孫に譲る、それは息子との関係が良好でなかったことを表している。貴重品を譲るということは既にこの世にいないということ。そして鞄を開けたままにして大事な銀時計を無造作に突っ込んでいる孫娘が不注意でないと、誰が言える?」
ううむ、と吾妻は口中で唸った。毎度毎度、この男には驚かされることばかりだ。
「それで、この件についてはどうするの?」
「無論、幽霊騒動を起こした人物を突き止めて、その意図を探り出す。まずは友愛女学院周りを調べるか。あんたも来るかね?」
「あら珍しい! ぜひご一緒させていただくわ」
颯爽と定食屋『いわた』を出て行く蛇川のあとを、吾妻が尻をふりふり追いかけていく。
『いわた』には、哀しげな顔で猫まんまを食べる山岡巡査が残された。




