一五:夜を騒がす馬車のこと
歩く道道、蛇川は首を捻り捻りたくさんのことを話した。
話すのは全て馬車幽霊のことであったが、しかし吾妻に意見を求めることはほとんどない。どうやら、己の考えをまとめるための良き聞き手を求めて吾妻を誘ったらしい。少し拍子抜けした吾妻だったが、それでも、この男が他人の助けを借りようとするとはまた大きな変容だ。好意的に受け容れてやるがよかろう。
「幽霊騒動のことはあんたも知っていたのか?」
「うん、まあ、噂程度には」
「さすがは情報屋。まだ新聞記事にもなっていなかったはずだがね。馬車は、あの寄宿舎前以外にも現れるのか」
「いいえ、アタシが聞いた話はあそこだけ」
「ふうん」
蛇川はポケットから手を出し、伸びていた手近の草をむしり取った。教鞭のようにそれを振り回しながら続ける。
「あんたが聞いていないとなれば、馬車は寄宿舎に限って現れるか、あるいは他所でも現れているが地味すぎる、または話題が新しすぎてまだ情報が出回っていないか……そうでなければあんたの腕が鈍っているかのどれかだな」
「まあッ、失礼しちゃう。情報の収集力にかけては自信があるわ」
向けられた教鞭――もとい雑草をぱしりと叩き、吾妻がむくれて見せる。蛇川はにやにやと笑いながら、折れた草を放り投げた。
「推理とはね、穴掘りのようなものなのだ。情報の収集、そして仮説の構築・実証・打ち消しを繰り返して土を掘り進め、地中に埋もれた真実を掘り起こす。つまりだ、吾妻くん。まずどこにシャベルを刺すか、どこから始めるかというのがとても重要になるのだよ。真実から程遠い場所にシャベルを突き立てでもすれば大変だ。掘り進めているつもりが実際にはただ土を右から左に移しただけで、いっかな真実に辿り着けない。
「僕は、今回の件でまずどこにシャベルを刺すべきか、実は少し迷っている。すなわち、幽霊騒動の目的がその『場所』に関連しているか否か、ということだ。あんたの情報収集力とやらを信ずるならば、今のところ、馬車幽霊は女学院の寄宿舎前にしか現れていない可能性が高い。あすこは、ちょうど近くで御者の首吊りがあったことだし、馬車の幽霊が現れるには場所としても最適だ。それに、女学生なんてものは噂好きでおしゃべりだと相場が決まっている。馬車幽霊の話題は、瞬く間に世間へと広がっていくだろう。
「問題は、騒動を起こした犯人の目的が、ただあの場所を騒動のきっかけとして本命に王手をかけんとすることなのか、それとも、あの場所で騒ぎを起こすこと自体に意味があってそうしているかのどちらなのかを見極めることだ。それによってこの件の難易度は大きく変わる」
「難易度? アタシにはもう既に充分ややこしい話に思えるけれど」
「ハ! 力量が天と地ほども違う者同士を同じ土俵で闘わせんとすること自体が愚かなのだ。もし犯人の目的が後者であれば、断言できる、事件はあの陽が沈む頃にはもう解決しているだろう。しかし前者であれば……」
蛇川は口元で両の掌をこすり合わせた。色みの薄い唇が三日月状に吊り上がっている。
「この件はもっと面白くなるぞ」
「こりゃ一種の病気だわ」
呆れて見せながら、しかし吾妻も少し楽しくなってきている己を自覚せざるを得ない。
本当に、この男といれば退屈しないから不思議だ。見慣れた景色が、型に嵌った日常が、狂おしいほどの興奮と驚きとで塗り替えられていくこの瞬間。
「まあ、乗り掛かった船ってやつね。アタシに出来ることなら協力するわ」
蛇川は凶悪に美しい笑みを浮かべたままで吾妻を振り返った。
「元よりそのつもりだ。さあ、見えたぞ、友愛女学院だ!」
◆ ◆
寝付けない。
安枝はもう何度目かも分からない寝返りを打ち、苛立たしげに吐息をついた。
初めて馬車幽霊が現れた三日前から、恐ろしくてほとんど眠れないのだ。夜がくるのが恐ろしい。いっそ寝不足の疲れで泥のように眠れたら……そう思っているのに、神経が昂ぶっているのか、まるで眠れない。
このまま夜更けを迎えてしまうと、またあのおぞましい音が聞こえてくる。そうなるともっと眠れなくなる。そう思っているのに、結果はいつも同じこと。
それに……
息をのむほどに美しい顔が、まるで雲間から覗く月光のように安枝の脳裏に浮かび上がる。陶磁器のようなその顔は、しかしみるみるうちに嘲笑に歪んでゆく。
――嘆かわしい。ちょっとは頭を使ったらどうだ。
――莫迦か君は……呆れた無学だ。
こみ上げてくる腹立たしさに思わず叫び声を上げそうになり、しかし寸前で堪えて安枝は枕を拳で叩いた。蕎麦の実がさわさわと音を鳴らす。なんだかその音にすら小馬鹿にされたような気がして、安枝は口惜しさに唇を噛んだ。
いっそ、校内新聞に寄稿してやろうか。殿上人ノ化ケノ皮剥イダリ! 其ノ正体ハ傲岸不遜の悪辣漢……
ううん、きっと駄目だ。いくら安枝が筆致を尽くして蛇川を悪しざまに書いたところで、同級生らは信じるどころか、むしろ安枝を非難するに違いない。どうせ、安枝みたいなちんちくりんの眼鏡女が騒いだところで、ただやっかみを言っているだけと思われるのが関の山だ。
口惜しさが悲しさに変わり、蒲団を頭からかぶった、その時だった。
――カッポ、カッポ……
まただ!
安枝は引き上げたばかりの蒲団を跳ね飛ばした。心臓がどくどくと飛び跳ねている。
いつもなら、この音を聞くなり蒲団の中で丸くなり、一刻も早く朝が来るよう祈り怯えることしかできなかった。
だけど今日の安枝は違う。あれほど好き放題言われておいて、おとなしく引き下がることなんてできるか!
蛇川は安枝を「負けん気が強い」と見抜いた。それは決して間違いではない。だが、ひとつ付け加えさせてもらうとすれば、安枝はただ負けん気が強いわけではない――「恐ろしく負けん気が強い」のだ。
幸いにも今日は星が出ていて、灯りがなくとも充分に動ける。
寝間着の上から丈の短くなったジャケツを羽織り、ビン底眼鏡をかけ、安枝は決心したように木の窓枠を睨みつけた……
外の寒さに少し涙目になりながら、それでも一歩一歩、慎重に足を進めていく。
星明かりがあると言っても、足元を確かめながらでないととても進めない。それに、この時間に正面玄関が開いているはずがないから、安枝は靴を履いていない。うっかり尖った石でも踏みつけようものなら大変だ。寄宿舎前の門へと向かう道のりが、いつもよりずっと長く感じる。
足を踏み出すごとに後悔が胸に募ってきたが、もう後戻りはできない。口惜しい気持ちをじっと堪えているくらいならば、ちょっとばかり怖い思いをしたって音の正体を確かめてやる。
もしも本当に幽霊だったら……もちろん途方もなく恐ろしいけれど、あの、自信と嘲りに満ちた美しい顔を、今度は口惜しさで彩ってやれるかと思えば頑張れる。
もちろん門は固く閉ざされているが、傍の植え込みにちょうどいい具合の隙間があり、そこから往来に抜け出られることは誰だって知っている。知らないのは大人だけだ。
安枝は寝間着の裾を片手につかねると、植え込みの隙間に身体を押し込んだ。が――
緊張していたためか意気込みによる力みが過ぎたか、勢いをつけすぎたために安枝は往来へと倒れこんだ。
驚きのため、あまり可愛くない悲鳴が漏れて、安枝は慌てて口を覆った。
しかし遅かった。
往来にはふたりの人物がいた。
一方は寄宿舎の塀にもたれかかり、もう一方はそのそばで地面に屈みこんでいた。安枝の悲鳴を聞き取ったか、双方がゆったりと背を伸ばす……




