一六:夜を騒がす馬車のこと
悪いことに、その人物らは月を背負う形で立っているため顔立ちまでは分からない。しかしその優れた上背を見るに、どちらも成人男性かと思われた。
やっぱり、本当に人だったんだ。
生きた人が、幽霊騒動を装っていたんだ。
一瞬、置かれた立場も忘れ、蛇川の推理が的中していたことにただ驚いていた安枝だったが、しかしひとつ呼吸をする頃には恐怖が身体を震わせていた。
馬車の音は幽霊ではなかった。生身の人間が、何かしらの目的を持ってそう錯覚させるための働きかけをしていたのだ。
となると、その目的とは何か? こんな夜更けに、人目を憚って行動するような男達だ。まず真っ当な意図があるとは思えない。
気付けば安枝は地面にへたり込んでいた。すぐにも植え込みに逃げ込めばどうにかなったかもしれないのに、現実的な恐怖が身体中から力を奪っていた。
がたがたと全身を震わす安枝に向けて、懐中電灯の灯りが差し向けられた。黒い布で覆い、これまでは灯りを隠していたものらしい。あまりの眩しさに、安枝は思わず顔を背けた。
もしかして、殺されてしまうのだろうか。見てはいけないものを目撃したのだから。
あるいは売り飛ばされたりして……いや、この器量ならば大した売値もつかないだろうし、結局のところ、魚の餌になるのが精々なのかも。
恐怖と混乱で素っ頓狂なことを考えている安枝の耳に、聞き覚えのある嘲笑が聞こえてきた。
「僕は君のことを見誤っていたかもしれないな、安枝くん」
「……へ?」
シュッ、とマッチを擦る音が聞こえ、もうひとつ灯りが点けられた。洋燈だ。
一気に往来が明るくなり、安枝は目を瞬かせた。眩しさではなく、驚きのために。
「へ、蛇川真純……ッ!」
「はあ? 生意気な小娘だな。それが年長者に対する態度か。敬意を持て、敬意を」
「どの口が言うか」
立っていたのは、昼間、散々安枝に赤っ恥をかかせた悪辣漢・蛇川だった。洋燈を掲げ、すかさず口を挟んできたのは和装の大男である。定食屋『いわた』で安枝を応援してくれた男だ。藍染の襟巻きに口の半ばまでを埋め、にこにこと人好きのする笑みを見せている。
へたり込んだまま呆然としている安枝に、革手袋をはめた手が差し出された。何が何やら分からぬまま、唖然としてその手を見つめていると、焦れたように手がひらひら揺れる。
ようやくその意図を理解し、安枝が両手でしがみつくと、なんの予備動作もなくするりと助け起こされた。やはり、鍛えているらしい。確かに己の脚で立っているはずなのに、なんだか地面がふわふわして感じる。
安枝が呆けたままでいると、革手袋の手が水の流れのように指の間を抜けていった。しっかりと力を入れて握っていたはずなのに、僅かな熱だけを残し、手は訳もなく流れ去ってしまう。
「フン、見上げた負けず嫌いだ。昼間のことがよほど口惜しかったらしい。さすがの僕も、まさかここまでとは思わなかったよ。どうやって寝所を抜け出してきた?」
「……二階だったから。窓の近くの木を伝って」
「ハ! いいぞ、あんたのことを気に入りそうだ。どう思う、吾妻」
「蛇川ちゃんはこう言うけれど、本当は駄目なんだからね? もし相手が悪い男だったらどうするつもりだったの。お転婆もほどほどにしなきゃ」
大男が突然発した女言葉にぎょっと身を竦めているうちに、吾妻と呼ばれたその男は、土まみれになった安枝の全身をはたはたと叩いた。言葉遣いこそ妙ちきりんだが、その手つきには害意がないことに気付き、全身の強張りが失せていく。
と、ふと置かれたままの懐中電灯傍に、黒塗りの椀がふたつ並んでいるのに気がついた。すぐに合点した安枝が鋭い悲鳴を上げる。
「ちょ、ちょっと……あの音の正体、あなただったんですか!?」
「莫迦ッ、何時だと思っている!」
間近に詰め寄られ、口を塞がれて心の臓が止まりそうになる。
いかに中身が悪逆非道の暴君であると分かっていても、その器はこの上なく美しく磨き上げられているので敵わない。歯を剥き、眉間に醜悪なシワを寄せていたとて、思わずため息を漏らしてしまう麗しさだ。
安枝がおとなしくなったのを見ると、蛇川は首を振りながら身を離した。
「確かに先程の音は僕の仕業だ。昼間、この界隈でいろいろと情報を集めてみたんだが、これという収穫を得られなかったのでね」
努めて淡々と話しているが、その実はひどく口惜しかったに違いない。
蛇川は、吾妻も呆れるほどの勢いで無数の仮説を並び立て、次々にそれを実証できる証拠がないかを探し回った。まるでよく訓練された警察犬のように機敏なその動きには、鬼気迫る気迫のようなものすらあった。仮説の中から「不可能」を排除していけば、そこには真実が残るはず……そうはいうものの、蛇川の立てる仮説はあまりに膨大で、とても半日では追いきれなかったのだ。
「もしや、御者の首吊りは見せかけで、何か見聞きしてはならぬことを知ってしまったがために消されたのではないか? この音は、その事実を知る何者かが御者を消した者を焙り出すための仕掛けではないか……そう仮説立ててみたんだが、明らかにこれはまずい仮説だった。過去の経験に囚われすぎるのもよくないといういい教訓になったがね。それで、まあ、夜も更けたことだし、何か発見できればいいと思って同じ場所で同じ行動を取ってみたというわけだ」
「この音が何かの符丁で、仲間なり、取引相手なりと落ち合う合図っていう線で探る意味もあったのだけど……これも収穫なし、かなあ」
もう夜も遅い。昼の間も休みなく動き回っていたとなれば、その疲労ももう限界だろう。疲れの色を見せながら、吾妻が大きく伸びをした、その時だった。
「洋燈を消せ!」
蛇川が鋭く叫び、自らも懐中電灯に飛びついてその灯りを布で覆った。すかさず椀を拾い上げると、立ち上がり、安枝の元へと駆け戻る。
「おいッ、あんたどこから道路に出てきたんだ」
「え……そこの植え込みの隙間から」
「隠れよう、早く!」
有無を言わさず隙間へと押し込まれる。文句を言おうとしたが、次いで押し込まれた吾妻が覆い被さってきて、安枝はむぎゅうと情けない声を出した。とても重い。
「オホホ、ごめんあそばせ……」
四つ這いになったままで笑う吾妻に苦笑を返していると、最後に蛇川が飛び込んできた。吾妻がびくともせずにその体重を背中で受け止めたからよかったものの、もし大人ふたりが倒れこんできたら大惨事だった。
言われるがままに身を隠したはいいが、このことが誰かに露見でもすれば大事だ。理由はどうあれ、こんな時間に、大人の男をふたりも――うちひとりは女形らしいが――寄宿舎内に手引きしたことになるのだから。
「蛇川さん、いったい何が……」
「シッ」
動くな、と身振りで制しておいて、蛇川は植え込みの隙間に顔を近付けた。食い入るようにして往来を睨みつけている。
やがて、安枝にも蛇川の行動の意味が読めてきた。
微かに足音が近付いて来るのだ。辺りを憚るかのように、抜き足、差し足でこちらに向かってくる。その執拗なまでの忍び足は、ただ時間帯だけを気遣っているわけではなさそうだった。
音は植え込みに隠れた安枝らのすぐ前で止まった。目を凝らしてよくよく見てみれば、星明かりの下で身を屈めているのは中肉中背の男である。
男は、脇に抱えていた大きな桶を地面に置くと、懐からふたつの椀を取り出した。辺りに素早く目を配ってから、それを地面に交互に打ち付けて、
――カッポ、カッポ……
そうして今度は桶を取り上げ、横に倒すと力を込めて、
――ガラ……ガラ……
なるほど蛇川の言った通りだ。桶には蓋がされていて、どうやら中には石か何かが入れられているらしい。
その正体を見て間近で聞けば、なんということない音のはずなのに、すっかり馬車の音だと思い込んでしまっていた。旧約聖書の通りである。思い込みが敬虔な信者の身体を病ませ、思い込みが安枝の目と耳を曇らせていた。
同じように目を凝らしていた吾妻が声を潜めて言う。
「ごくごく普通の男じゃない。いったい何を……?」
「シッ、よく見ろ! もうひとりいるぞ!」
蛇川の言葉通り、道路の反対側、天水桶の傍にもうひとつの人影があった。仲間だろうかと思っていたが、しかし人影は動くことなく、むしろ馬車幽霊を装う男を観察しているように見える。
何やら手元を忙しなく動かしているその人影に、蛇川が押し殺した声で「そうか!」と小さく叫んだ。
「どうしたの?」
「男の目的が分かったんだ! 幽霊騒動は、騒動そのものにも、場所にも大して理由はなかった……いや、あるにはあっただろうが、ただ、奴は騒ぎが起こせられればそれでよかったんだ」
「ええと、世間から注目されたかった、ってこと?」
「莫迦を言え、答えが目の前にあるだろうが。女学生らが夜中の怪音を馬車の幽霊と勘違いする。噂はたちまち拡がってゆく。拡がれば、さてこれは面白いぞと飛んでくる輩がいるわけだ……見ろ、商魂たくましい新聞記者殿を」
蛇川のその囁きが終わらぬうちに、手元が狂ったか、記者が鉛筆を取り落とした。ちょうど天水桶の土台の上に落ちた鉛筆は、深夜の往来に硬質な音を響かせた。
次の瞬間、それまで一所懸命に馬車幽霊を装っていた男が、ぱっと弾かれたように立ち上がった。逃げるかと思えば、音がした方へと矢のように走って行く。
「いかん!」
間髪を入れず、蛇川も植え込みから飛び出している。まだ状況が把握できない吾妻は、それでもすかさず蛇川の背を追って行った。
暗闇の中で三人の男がもつれ合う。
蛇川は男の背に組みついていたが、火事場の莫迦力とでもいうべきか、凄まじい力に振り解かれてしまう。蛇川は瞬時に飛びすさって距離を取ったが、僅かに体勢が崩れている。見れば、押さえた左腕の袖が切り裂かれ、そこから血が滴り落ちていた。
「先生!」
「騒ぐな! それより洋燈、いや懐中電灯だ、吾妻!」
鋭く命じられ、吾妻が慌てて懐中電灯の布を取り払う。丸い灯りに照らされて、男達は思わず顔を覆った。
その瞬間、地を蹴った蛇川が男へと肉薄し、その右手を激しく蹴り上げた。矢のような蹴りが炸裂し、男は堪らず出刃包丁を取り落とす。慌てて拾おうと手を差し出すも、蛇川の革靴がその手ごと包丁を踏みつける。
「ぐわッ」
悲鳴を上げて仰け反ったところへ、もう一方の足が飛んでくる。
なんで堪ろう。強烈な蹴りを顎に受け、しかし手を踏まれているので後ろざまに倒れることも許されず、男は空いた手で宙を何度か掻いた後に昏倒した。蛇川は息のひとつも乱していない。
「……さて、記者殿」
「ひいッ」
背広の襟を引き、肩についた葉を払い落としながら、蛇川がゆっくりと足を進める。その幅分だけ、顔を青くした記者が後ずさりする。
一瞬間の乱闘のために小洒落た洋装は乱れていたが、しかし傷はないらしい。それでも、目の前で起こった情け容赦ない暴力にすっかり腰が引けたものか、記者は立ち上がることもできないようだった。
「わけを話してもらおうか。この男はあんたの顔見知りか?」
記者の背後には大きな天水桶。前には仁王立ちする蛇川がいる。仮に走って逃げたところで、先程蛇川が見せた俊敏さから察するに、到底逃げ切れはしないだろう。その算段を素早く済ませてしまうと、記者は情けなくこくこくと頷いた。
「よし、これで繋がったな」
「こっちは全然繋がらないんだけど」
昏倒した男を襟巻きで縛り上げ、凶器の包丁を道の脇へと蹴り飛ばしながら吾妻が言う。蛇川は記者から目を逸らさず、フン、と尊大に鼻を鳴らした。
「いいか、この男の目的は、幽霊騒動をでっち上げ、こちらの記者殿を誘き出すことにこそあったのだ。もしも記者殿の食指を動かすことさえできれば、場所も題材もなんだって良かったのだろう。しかし、なかなかうまいことを考えたものだ。意中の相手を、深夜、人の目に触れづらいところへ、わざわざ己の意思でやって来るように仕向けるとは。
「あんたはこの男に対して強い警戒心があった。そうでなければ、こんな回りくどいことをせずとも普通に呼び出してやればいいはずだからな。しかし、普通の呼び出しにあんたが応じないだろうことを見越していたから、男はこんな騒動を起こしたんだ。そして噂が拡大し、ついにあんたが現れた。凶器を持っていたことからも、男があんたに強い恨みを持っていたことは明白だな」
「さ、逆恨みだ!」
ようやく記者が口を開き、唾を飛ばして悲鳴を上げた。蛇川は飛んでくる唾をひらりとかわし、侮蔑の色が浮かんだ目で記者を冷ややかに見下ろした。
「弁明はご随意に。だが僕にそれを聞いてやる理由はないね。話したければ築地署で存分に吐くがいい」
蛇川は尖った顎を上げると、つい、と空を見上げた。薄っすらと白み始めた空に目を細める。
「夜が明ける。幽霊は彼の世へ還る時間だ」
その後、築地署に突き出された記者と男は、それぞれ詳細な取り調べを受けた。
記者はずっと身の潔白を主張し続けていたが、男の供述から、記者のいきすぎた取材と、誇張した出鱈目な記事についてが明らかとなり、スキャンダルを恐れた勤め先から解雇を申し渡されたらしい。さすがに罪には問えなかったようだ。
男はといえば、過去に記者の筆の餌食となった、近所の魚屋の主人であった。部数稼ぎたさに脚色された記事のために、曾祖父の代から続く大事な店を潰されたのだという。
その横暴を許すことができず、出刃包丁を持って記者を追い回していたのだが埒が明かず、ついにこの幽霊騒動を思いついたのが事の顛末だ。
どちらかといえば多分に魚屋主人へと肩入れしたその記事を読み終え、安枝は我知らずため息をついた。
魚屋主人を擁護するようなその記事からは、この度解雇された記者の二の舞になるまいという厭な策略が見て取れた。しかしまあ、哀れな魚屋にとって、世論を味方付けられるのであればそれは不幸中の幸いだろう。
あれ以来、安枝は骨董屋にも、定食屋『いわた』にも行っていない。
なんだかんだで、安枝の心を悩ませていた幽霊騒動を解決してくれたのだから、それに見合うだけの報酬を払うべきだと安枝は食い下がったが、しかし蛇川は「ガキから金が取れるか」の一点張りで、なけなしの小遣いも受け取ってはくれなかった。
――しつこいガキめ。いいから、その金で宝賀堂のへちま水でも買いたまえ。ビン底眼鏡どうこう以前に、そうも荒れた肌を晒していては男も寄り付くまいて。
せせら笑う蛇川の顔は、思い出すだけでもむかっ腹が立つ。だけど……
「花村さん、何を書いていらっしゃるの?」
学友に手元を覗きこまれ、安枝は笑顔を返して見せた。
「これ? ちょっと、学内新聞に寄稿してみようと思って」
「まあ! 花村さん、以前も小説を連載なさってらしたわよね。私、あなたのフアンなの。『友愛の倉持順平』だと思っていてよ!」
人気作家の名前を挙げられ、安枝がたちまち顔を赤らめる。さすがにちょっと持ち上げすぎではないかしら。しかし、褒められて悪い気はしない。
「ねえ、次の題材は何になさるの? 純愛話かしら?」
「まさか! 私にそんな……私が書きたいのは……」
安枝の脳裏に端整な顔が浮かぶ。
麗しの骨董屋亭主。しかしその実体は、口を開けば傍若無人、唯我独尊、他人を無知と嘲り笑って省みもしない。それに、一度暴力に火がついてしまえば、堰をもぶち破って流れる奔流のようなその男。
書きかけの原稿用紙には『骨董屋あらため』の文字が書かれている。ただ、その続きが思い浮かばない。
骨董屋あらため……『廃ビルの悪魔』、いやいや、そんな陳腐な言葉は似合わない。冴え渡る智謀と激情が同居する『不良探偵』? もしそんなことを書けば、彼はまた「つまらん探偵小説の読みすぎだ」と嘲笑うだろう。
骨董屋あらため。その先はまだ、空白だ。
それが一番いいのかもしれない。彼が実のところ何者であるかは、彼自身が決めることなのだから。
安枝はまだ見ぬ大作への期待に胸を躍らせた。
倉持順平は取材狂いだ。友愛の倉持順平としても、もっと、彼のことを取材する必要があるかもしれない……なんて、ね。
〈 夜を騒がす馬車のこと 了 〉




