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一三:夜を騒がす馬車のこと




 安枝はひどく緊張していた。しかし、今はそれ以上に疲れ切っていた。この恐怖と苦しみから逃れられるならば、どんなことだってやってみせる。それで、意を決して噂の骨董屋『がらん堂』を訪ねたのだ。


 帝都東京では、こんな歌が声も密やかに歌われている。


  ひとつ  困れば  あにさまへ

  ふたつ  困れば  かかさまへ

  みっつ  困れば  ととさまへ

  よっつ  困れば  鳥籠※へ

  それでも 無理なら 骨董屋

  ビスク・ドオルが  お出迎え

 (※鳥籠:駐在所の意)


 決して流行歌などではなかったが、困りに困った人の耳には不思議と届くこの歌。安枝もこれを聞いて骨董屋への依頼を思いついたのだ。


 しかし、ビルの前まで行って躊躇した。このみすぼらしいビルのことはよく知っている。安枝だけでなく、帝都中の女学生が知っているだろう。

 今にも傾きそうなこのおんぼろビル、通称・廃ビルの三階に居を構える骨董屋・がらん堂。その亭主は、見た者がうっとりとため息を漏らさずにはいられない麗しの青年である。


 お喋りな女学生らが集まる寄宿舎においては、日々彼の話題が口にのぼる。やれ三越の初売りで彼の姿を見かけただの、やれ愛らしい少女を連れていただの、時には「早朝の路地裏でおもむろに土を口に含んでいた」などという奇ッ怪な目撃談もあったが、大抵は往来で彼に追い越されたという自慢話だ。せっかちな骨董屋亭主は、歩く速度が異様に速い。


 追い抜かれるだけで話題になるようなその男に、直接相談を持ちかけるなんて。内気な安枝など、言葉を交わす以前に、真正面から顔を見ただけで卒倒してしまうかもしれない。

 それに、彼は安枝のことをどう思うだろう。

 低い鼻に、夜更かしのために荒れた肌。おまけに重くて不恰好なビン底眼鏡ときている。贅沢ができる身分ではないから、お古のジャケツはすっかり丈が短くなっている。みっともない容姿を見たら、彼はやっぱり嘲笑(わら)うだろうか。


 それで相談を躊躇ったのだが、もう何日も眠れておらず、疲れた足は廃ビルの前で粘ついたように動かない。

 ついに腹を括って階段を上り、三階の扉を押し開けた(・・・・・)のだが、そこで安枝を出迎えたのは麗しのビスク・ドオルではなく、人好きのする笑みを浮かべた好々爺だった……




「君が花村安枝くんだね! どうぞ!」


 しばし待っているよう言い置かれ、薫り高い珈琲(コーヒー)と共に店に残された安枝だったが、しばらくして戻ってきた好々爺からこの定食屋を教えられた。


 銀座の片隅にひっそりと佇む定食屋『いわた』。例の亭主がここの常連であることもまた周知の事実で、派手な子達は勉学の合間を縫ってはここに通っているらしいが、地味な安枝には声もかからない。

 それで、恐る恐る扉を開けたわけだが、店内にまだ足を踏み入れもしないうちから大声で名前を呼ばわれた。全身が驚きに強張るも、しかし足だけは不思議と前に進み、気付けば安枝は後ろ手でドアを閉めていた。貼り付けていたぎこちない笑みは、店中から注がれる様々な視線に一瞬でかき消された。


 向けられる目、目、目。控え目に生きていた安枝にとって、これほどの注目を集めることなど初めての経験だ。それに、視線の大半――これが噂の「親衛隊」かしら――は尖った敵意に満ちている。


 すっかり足が竦んでしまった安枝に、麗しの骨董屋亭主・蛇川(へびかわ)が大股に歩み寄る。


「どうした安枝くん、早く来てこちらに掛けたまえ。僕はね、時間が惜しいのだよ」


 言い終えないうちに手を取られ、比喩ではなく、安枝は本当に顔から火が出るかと思った。

 革手袋ごしに感じる筋張った手は、大人の男のそれだ。傍目には随分と華奢に見えるが、存外鍛えているらしい。しかし蛇川はそんな安枝を気にも留めず、ぐいぐいと奥のテーブル席へと引いてゆく。


 女性客らの視線はいっそう鋭さを増し、いっそ痛いくらいだ。しかしその痛みが、かえって安枝の勇気を奮い立たせた。


 向かい合ってテーブルにつくと、安枝は大きな深呼吸ののち口を開いた。


「あの、私、花村安枝と申します。実はあなたにご相談がありまして……」


 ようやく話し出した安枝に向かい、しかし蛇川は掌をひたりと突きつけた。安枝が黙り込んでしまうと、両肘をテーブルについて手を組んだ。組み上げた革手袋の向こうから、灰褐色の瞳が(じっ)と安枝を見つめる。


「蛇川真純だ、蛇川と呼んでくれて構わない。それに自己紹介は結構、僕は君のことも、君が相談したいこともおおよそ正確に把握していると思う。時間を無駄にしたくないから僕が話そう、君は友愛女学院の四年生で、五歳以上歳の離れたのっぽの姉がいる。姉は器用だが一方の君は不器用で注意力散漫、しかし負けん気は強い方だ。趣味は読書で、おおかた、死んだ祖父の影響でも受けたのだろう。祖父は家族の中では疎まれていて、君だけが祖父を愛していた。それで? 相談したいのは馬車の幽霊の話だったか?」


 そこまでを一気にまくし立てると、反応を窺うように小さく小首を傾げて見せた。安枝はしばし呆然としていたが、慌てて首を縦に振る。

 しかしなぜ、姉の存在や祖父の孤独をまで言い当てられたのだろう。安枝が口を開こうとすると、再び蛇川が掌で制した。


「いいか、お節介な(じじい)が無理やり君をここに連れてきたわけだが、僕が君にできるアドヴァイスはふたつだけだ」


 苛立ちを隠そうともせず、蛇川は立てた指のうち一本だけを残して他を折り曲げた。


「ひとつ、君が見聞きしたものは幽霊などでは決してない。つまり、何かしらの意図をもって、君がそう思うように仕向けた生きた人間がいたということ――うん? ……なんと……ああ、なんと、まあ!」


 突如、蛇川が椅子を鳴らして立ち上がった。驚きで安枝が上体を仰け反らせる。


「ああ、なんてことだ、実に興味深い話じゃないか! 一体どこの誰が酔狂で幽霊騒ぎなんかを企てる? 必ず意図があるはずだ、その目的はなんだ? 純朴な女学生を怖がらせて何を得るつもりだ?」


 まるで動物園の虎のようにテーブル傍を往復しながら、蛇川は満面の笑みを浮かべた。先程までの苛立った様子はどこへやら、その笑みは、まるで新しい玩具を与えられた子供のようだ。


「なんだ、風声鶴唳(ふうせいかくれい)のつまらん与太話かと思っていたが、ハハ、いいぞ、面白くなってきた」


「お、面白くなんてありません!」


 思わず口を挟んでしまってから、安枝ははたと我に返った。蛇川がぴたりと足を止め、なんだこの女は、とでも言いたげな顔でこちらを見ている。まるで、ひと呼吸の間に安枝の存在をすっかり忘れてしまっていたかのようなその表情。


「いいぞぉ」


 不意の声援に安枝が首を廻らせると、カウンター席に座った大男が拳を握っていた。嬉しそうに拳を揺らして見せるので、安枝も小さく拳を握る。

 なにやらよく分からなかったけれど、不思議と元気付けられて安枝が言葉を繋ぐ。


「面白くなんか……決して、見間違いでも聞き間違いでもありません」


「なぜそう言い切れる?」


「だって、音はするのに馬車の姿がないだなんて、おかしいじゃありませんか」


「そもそも、灯りが見当たらなかったことを馬車自体がなかったことと結び付けるのは早計だ。ただ火を入れてなかっただけかもしれん」


「あの夜は新月で、空は曇っていました。灯りがなければとても動けやしません」


 足を止めた蛇川は、しかし安枝の反論には気を悪くした風もなく、むしろ興味深げに身を乗り出して聞いている。


「それに、馬車幽霊の話だって、頭っから眉唾ものってわけでもないんです。寄宿舎のそばには馬車小屋があって……実は、数日前、そこで首吊りがあったんです。馬車の需要が減って食い扶持を稼ぐこともままならなくなり、困窮した若い御者の方が……それで、」


「なるほど! 君は、その話を事前に知っていたわけだね?」


 突然話に割り込まれ、安枝は気を削がれて黙り込んだ。ただ無言で頷きを返す。

 御者の首吊りの件は、もちろん、寄宿舎中の生徒が知っている。住居のほんの目と鼻の先でそんな事件が起こったのだから当然だ。


 蛇川は、寄宿舎に住む全員が首吊りの件を知っていたことを確かめると、満足げに鼻を鳴らした。そして突然、こんなことを言い出した。


「君、旧約聖書を読んだことは」





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