一二:夜を騒がす馬車のこと
大の読書好きは祖父譲りだと安枝は思っている。
祖父は、四畳半の書斎を本で埋め尽くすほどの読書家だった。ほとんど畳の見えないその部屋を見た人は彼のことを奇人と言い、実の息子ですら彼を疎んじている風であったが、安枝は祖父が大好きだった。
鼻をくすぐる古い紙のにおい。胡座をかいた祖父の膝に座って、物語に出てくる負け知らずの大横綱だとか、安楽椅子に腰掛けてパイプを燻らす名探偵だとかの話を聞くのが一番の楽しみだった。祖父は寡黙な人だったけれど、物語を話して聞かせるのはとても上手だった……
本を閉じ、時計に目をやれば、針は深夜の三時を指している。せっかちな新聞配達員が、そろそろ荷台に朝刊を括り付けている頃合い。
夜更かしは身体に毒とは思いながら、寄宿舎にあっては学友の目が気になってしまい、明るいうちから探偵小説などはとても読めない。
若い女がそんな小説を読むとはみっともない、はしたないと誹られるようなご時世だ。それで、深夜、周りが寝静まったのを見計らってから洋燈に火を入れ、火屋のまわりを黒い布で覆って灯りを絞り、息を潜めて本を読むのが日課となっていた。お蔭でビン底眼鏡が手放せない。
安枝が妙な物音に気付いたのは、夜更かしで冷えた身体を布団に潜り込ませてしばらくが過ぎた頃だった。何か、窓の外から音が聞こえる。これは、足音?
カッポ、カッポ、
ガラ……ガラ……
いいや、この音は馬車だ。寄宿舎の前は石畳みが敷かれていて、蹄鉄の音がよく響く。しかし、こんな夜更けになぜ?
道路には市バスや自動車が走り、線路が敷かれて電車運行が盛んになったこの時代、馬車は移動手段としての立場を急速に失いつつある。しかし、車などは一般庶民にはまだまだ手の届かない乗り物だ。市バスも電車も動いていない深夜帯には、馬車の需要がぐんと高まる。
とはいえ、こんな時間に馬車を走らせねばならないとくれば、よほど急ぎの用事だろう。なのに、表に響く馬の足音は、むしろゆったりと優雅に歩を進めてすらいるようだ。
怪しい、絶対に何かある。
先程までミステリを読みふけっていたからだろうか、安枝は普段の引っ込み思案からは考えられないほど大胆な行動を取った。つまるところ、カーテンの隙間から外をそっと覗き見たのだ。
恐ろしさと興奮とで胸をどきどきさせながら外を覗いた安枝だったが、しかし驚きに小さく声を漏らした。
外の通りは一条の光すらない一面の暗闇だったのだ。馬車に取り付けられているはずの灯りはどこにも見当たらない。なのに、音だけが不思議と聞こえてくる。
カッポ、カッポ、
ガラ……ガラ……
安枝の爪先から頭頂までを、ぞぞぞと悪寒が這い上がる。好奇心がたちまちのうちに恐怖へと変わり、安枝は慌ててカーテンを閉じた。ひたりと閉じたカーテンを握る十本の指は、力の入れすぎで先が白くなっている。
その時、不意に音が鳴り止んだ。
痛いほどの静寂が部屋を満たす。
よせばいいのに、どうしても気になってしまって、安枝はもう一度カーテンを細く引き開けた。そうして、分厚いレンズの向こうで瞳を微かに震わせながら、そっと往来に目を落とし――
次の瞬間、安枝の絶叫が寄宿舎全体を震わせた。
◆ ◆
吾妻が定食屋『いわた』のドアを開けると、いつものカウンター席に見慣れぬ男が座っていた。絹絣の着物に枯れ草色の羽織をまとった、品のいい好々爺である。
その向こうには仏頂面の蛇川が見える。眉間の皺の深さから、彼がいつも以上に不機嫌らしいことが容易に見て取れた。
不穏な空模様を知ってか知らずか、好々爺は体全体を蛇川に向け、何やら熱心に話しかけている。
蛇川は唯我独尊を地でいく男だ。その暴力的なまでの口撃は、相手が女子供だろうが、いかにも人の好さそうな老人だろうがお構いなしに炸裂する。年長者に対する敬意というものを、蛇川はどこかに置き忘れてきたらしい。
いつ爆ぜるとも知れない癇癪玉に老人が打ちのめされないよう、定食を注文してから、吾妻はそっとふたりの傍に腰を下ろした。しかし、それは杞憂に終わった。吾妻が腰を落ち着けるのとほぼ同時に話が終わり、老人がおもむろに立ち上がったのだ。
「いいね、真純。では、私の方から伝えておくからね」
しかし蛇川は答えもせず、黙々とスプンを口に運んでいる。老人はやれやれとため息をつくと、吾妻の視線に気付いたか、小さく会釈をすると『いわた』を出て行った。その背中が雑踏に紛れていくのを見送ってから、吾妻が尻をふたつ隣へと移動させる。
「……蛇川ちゃん。誰、あの老紳士」
むくれたまま、やはり蛇川は答えない。しかし、黙々と動いていたスプンがやがて騒々しい音を立て始め、遂にはガチャン!と耳障りな音を立ててカウンターに放り出された。
目を丸くする吾妻の隣で、蛇川は唸りながら頭を掻き毟った。せっかく香油で整えた髪が、あっという間にかき乱されていく。
「畜生! 好き勝手言いやがって! 僕を便利屋か何かと勘違いしていやがる、クソッ!」
「へ、蛇川ちゃん、落ち着いて」
突如苛立ちを爆発させた蛇川は、薄っすらと血走った目で吾妻を睨みつけた。
「僕が何を憎むか分かるか吾妻、ええ? いいか、人は変容する生き物だ。環境や習慣などは己の意思でどうとでも変えていけるし、なんなら姿形だって変えられる。交友関係、何を愛でるか、それも然りだ。だが唯ひとつ、ひとつだけ、どう足掻いても決して変えようのないものがある。分かるか」
吾妻はすかさず、
「信念」
「臭いッ!」
一蹴された。
脱力する吾妻に向かい、蛇川はドンと胸を叩いて見せる。
「血だ! 血縁、血の繋がりだ! 僕はそれが恨めしい」
「ええッ? 血の繋がりって、まさか蛇川ちゃん、さっきの人は……」
「父だ」
ええッ、という二度目の叫び声は、今度は吾妻だけでなく、店のあちこちから上がった。蛇川目的で居座っていたご婦人らも、りつ子も、『いわた』亭主も皆んな揃って目を引ん剥き、驚愕の表情を浮かべている。
頬杖をつき、蛇川はひどく苛立った様子でカウンターを小突いていたが、静まり返った店内の異様な雰囲気に首を廻らせた。
「……なんだ」
「いや……いえ。なんて言うか、その、驚いちゃって」
「何に」
「蛇川ちゃんにも幼少時代があって、ご両親がいて……って、当たり前のことなんだけど、なんか、意外というか想像できないというか」
途端、蛇川がばしりとカウンターを叩いた。
「莫迦も休み休み言え! 人が木の股から産まれるとでも? それともなにか、西洋風にコウノトリが運んでくるか? そりゃどうもハイカラなことで。しかし僕には父がいて母がいて、おまけにしち面倒くさい兄弟までいる。どうだ参ったか!」
言うなり蛇川は、立ち尽くすりつ子が手にした盆から納豆の小鉢を奪い取った。荒々しく箸を突き立てると、猛然とかき回し始める。念のため補足しておくと、その納豆は吾妻のものだ。
蛇川との付き合いも気付けば随分と長いものだが、家族の話題が上がったのはこれが初めてのことだ。というより、生い立ちについては互いに話そうとしなかったし、だからといって踏み込もうともしてこなかった。実際のところ、蛇川という男を、吾妻は何も分かっていないのかもしれない。
これはいい機会やも。そう思った吾妻は身を乗り出したが、ちょうどその時『いわた』のドアが開けられた。同時に蛇川が小鉢を放り投げ、慌てて吾妻がキャッチする。凄まじい勢いでかき混ぜられた納豆は、見事な照りと粘りけを見せていた。
「納豆を混ぜるにおいては帝都一ね……食べないくせに」
「頭脳においても勿論そうだ。今回の依頼人がそれを証明してくれる望みは薄いがね……僕は莫迦げた怪談噺が大嫌いなのだ。だが、まあいい、君が花村安枝さんだね! どうぞ!」




